秘密の花園の先には

 ライラック色のドレスの貴婦人に連れてこられたのは、先程の温室よりもっとこじんまりとした板張りの小屋であった。

 貴婦人は腕を離すと、バッグの中から鍵を取り出し、簡素な扉を開ける。その慣れた手つきにアリスは首を傾げた。


「貴女は……?」

「さあ、お入りください」


 促されて、小屋の中に入る。途端に、濃厚な甘い花の香りが全身を包んだ。頭の中まで染み込むような甘い香りに、酩酊しそうになるくらいに。

 壁は板張りだが、天井だけはガラス張りになっていて、陽の光が入るように計算されているようだ。

 天井を行き交う梁には幾つもの鉢が吊り下げられていて、そこから緑色の蔦や葉が垂れ下がっていた。

 小屋の中にも大きな鉢が幾つもあり、黄色や白色のトランペットのような花をつけた花木が咲き誇っている。甘い香りはこの花のようだ。


「その椅子にお掛けになって」


 小屋の中の小さな庭園に見とれていると、貴婦人が作業に使うような素朴な木製の丸椅子を持ってきたので、大人しくそれに従う。


「あの……ありがとうございます」


 戸惑うようなアリスの言葉に、壁に備え付けられた小さな戸棚を探していた貴婦人はハッとしてこちらを見た。


「ご、ごめんなさい。わたくしったら、名乗りもせずに。わたくしはルイーズ。ルイーズ・タウンゼントと申します」


 思いもよらない名前にアリスは目を白黒させながら言った。よりによって、彼女はこのパーティの主催者、タウンゼント卿の妻であった。


「タウンゼント夫人、こちらこそ気づかずに申し訳ありません。私はアリス・ガーフィールドと申します」

「まあ、あなたがあの新聞の『探偵』さん? お会いできて光栄だわ」

「ああ、その……お見苦しい所を。えへへ……」


 恥ずかしそうに肩を竦めれば、タウンゼント夫人、ルイーズがベールの下でクスリと笑った。


「いいのよ。意地悪な人もいるものね。さあ、手袋を取って手を見せて」


 アリスが両手の手袋を外して脇のチェストに置いていると、ルイーズも自らの手袋を外し、戸棚から素焼きの小さな小瓶と包帯を取り出して、アリスの前に座る。

 ほっそりとした冷たい手が、アリスの手を優しく包んだ。


「手のひらが擦り剝けているわね。ちょっと我慢してね」


 小瓶のコルク蓋を開け、人差し指で小瓶の中を掬うと鮮やかな緑色の軟膏が出て来た。清涼な香りで不快なものではなかった。


「これはヤロウというハーブを煎じた軟膏なの。昔から兵士の傷薬として使われているわ」


 ルイーズは傷口にそれを塗り、包帯を丁寧に巻き始めた。


「植物が、本当にお好きなんですね」

「あら、どうして?」

「手の爪を短く切られているし、傷の手当ても手馴れている。人差し指と中指の関節に胼胝が。剪定鋏を日常的に使っていらっしゃるのではと」


 アーサーは、かつての上司の言葉を思い出していた。

 まだ駆け出しの巡査だった頃、テムズ川で身元不明の男の遺体が上がった。その時に遺体を見分したベテランの巡査部長が言ったのだ。『まずは【手を見ろ】。手はあらゆる身元に繋がる手掛かりだ』と、彼は直ぐに掌の胼胝や爪を見てその遺体が庭師だという事を見抜いていた。

 その言葉にルイーズの手が止まり、そしてくすくすと笑い声が漏れ聞こえた。ヴェールで顔はあまり分からないが、美しい声と手の甲の肌艶から思ったより歳若い女性なのかもしれない。


「素晴らしい観察力だわ。流石は令嬢探偵さんね」

「その名前は……その、流石に恥ずかしいですね……」


 新聞社に好き勝手に付けられた名称は思ったより社交界に広まっているらしい。深いため息を吐きそうになるのをぐっとこらえた。


「そうよ。この庭園も、最初はわたくしが手入れをしていたの。祖父の代から続いている庭園だから」

「祖父君の頃から……ですか」


 話を聞くと、ルイーズの祖父は植物学に造詣が深く、色々な国を旅しては珍しい植物の種を持ち帰り、栽培、研究をしていたらしい。この庭園は、彼が手ずからに一から作り上げたものらしく、彼女の両親も精魂込めて手入れをしていたという。


「だから夫人も植物にお詳しいのですね」

「祖父から沢山の事を学んだわ。どの植物がどのような国で育ち、どんな怪我や病気に利用されているのかとかね。だからわたくしが植物に興味を持つのはごく自然な事だったわ。それに、幼い頃は植物学者になるって信じてた」

「素敵な夢ですね」


 アリスは心からそう感じた。元の肉体であるアーサーの、たった一人の家族である妹リリーも、将来は新聞記者になると言って死に物狂いで勉強していた。社会の女性への風当たりが厳しい中、リリーは自力でその地位を勝ち取ったのだ。

 ルイーズとリリーにどこか似たものを感じて、アリスの胸がつきりと痛んだ。

 だが、ルイーズは顔を逸らしてどこか遠くを見つめ「でもね、」と続けた。


「わたくしは一人っ子で兄弟がいなかったから、家を継げる者がいなかったの。父が亡くなってからすぐ、母は主人との縁談を持って来たわ」


 タウンゼント卿は入り婿という事らしい。アリスは会場前で参加者たちに挨拶をしていた、ワイン色のフロックコートを着て、口髭を生やしたやや尊大そうな壮年の紳士を思い出した。


「主人がこの家のあるじになってからは、わたくしが庭師まがいの事をしているとあまり良い顔をしないの。だからこの小屋の中だけが、わたくしだけの秘密の庭よ」


 ルイーズが自嘲交じりに呟く。夫婦仲はあまり良くないのだろうか、とアリスは少し気の毒になった。


「そんな秘密の庭に招待頂けたなんて、光栄です。最初見た時は妖精の庭かと思いました」

「まあ、そう仰ってくださると嬉しいわ。さあ、これで大丈夫」


 細い指が包帯を結ぶ。きれいに巻かれた包帯を見て、アリスが礼を言うのと、遠くから甲高い悲鳴が聞こえたのはほぼ同時だった。

 ルイーズとアリスは顔を見合わせる。


「……何か、あったのかしら……」


 ルイーズが不安そうな声で言った。


「庭園の方からですね」


 アリスは立ち上がり、ルイーズを連れて小屋から出る。

 周りには誰もおらず、にぎやかだった喧騒は不気味に静まり返っていた。

 ドレスの裾を手で軽く持ち上げて、足早に歩く。温室の周りのテラスに人だかりができていた。どうやら何か、は温室内で起こったようだ。


「失礼! 退いてください!」


 声を上げながら人垣を掻き分け、温室の中に入る。

 植物と動揺する参加者をよけながら温室の真ん中に進むとそこには、

 ワイン色のフロックコート姿の紳士が、力なく温室の床に横たわっていた。




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