ライラックの君へ
テディの気配が背後から消える。その姿は既にもう見えない。彼の判断力やここぞという時の度胸はアリス、いやアーサーも一目置いている。会場に潜り込むのも容易だろう。
クラウディアは噴水の近くで別の令嬢の母親らしき貴婦人と話し込んでいる。アリスは母に「少し庭を見に行ってもいいかしら」と言い置いて、アリスはその場を離れた。
(しかし、見事な庭園だな……)
視線を映せば、青紫のヤグルマギクと真っ白なスズランの花が舗道の両脇を彩っていた。所々にパセリやローズマリーなどのハーブも植えられている。陽の光が差し込んで、手入れされた木々の葉が金色に輝いていた。この場所がロンドンだという事を忘れそうだ。これ程の庭園を造るとなると、かなりの知識が必要だ。余程腕の良い庭師がいるのだろう。
すぐそばのベンチに腰掛けて、一息つくふりをして周りを見渡した。
やはりパーティの主催者が軍や警察のパトロンだけあって、殆どが制服の参加者だ。お高く留まった貴族連中も嫌いだが、これ見よがしに勲章で飾り立ててふんぞり返るエリート制服共も負けず劣らずアリスは嫌いだった。
(警察より軍関係者のが多いようだ。タウンゼント卿は軍とのパイプが太いのか?)
事件についての情報は得られそうにないなと、アリスは心の中でがっかりと肩を落とす。
そこに、スコッチを片手に軍の関係者らしき若い四人の男達が通りかかった。
顔を見れば、皆そこそこに酔っているようだ。
アリスに気づくと、彼等は挨拶どころかにやにやと笑いながらこちらを見て話し始めたではないか。
明らかに下卑た視線にアリスは表情が引き攣りそうになるのを堪えて薄く笑みを浮かべて会釈をした。
「中々かわいいが、俺は向こうのブルネットが好みだな」
「気が強そうだ。ああいうのが躾しがいがあるんじゃないか?」
「おいおい、深窓の乙女には紳士らしくが基本だぜ? パブの女じゃねえんだ」
「ベッドの上で乱すのはブロンドに限るぜ? 常識だろ」
頭の中がダウンタウンの下水路のヘドロなのかと思うほどの会話が聞こえて、アリスは思わず拳を握った。全員の鼻っ面を折って、前歯を引き抜いてやりたかった。
それと同時に、スコットランドヤードの警部補ですらなくなってしまった自分が、今どんな立場の人間なのかを嫌と言うほどに自覚させられたのが、鉛の塊を飲み込んだように胸に堪えた。
「お飲み物はいかがですか?」
暴力的な衝動に堪えていると、淡いレモンイエローの飲み物が入ったグラスが並んだ銀盆が差し出される。
見上げれば、見慣れた甘いハンサム顔の男が眼を細めてこちらを見つめていた。
先程別れたばかりなのに、既に会場内の給仕服に身を包んでいる。仕事が早い男だと、先程の怒りも忘れてクスリと笑った。
「ありがとう。喉が渇いていたの」
レモネードのグラスを受け取って立ち上がる。すれ違いざま、テディは耳元で囁いた。
「二時の方向、温室の近くに警察関係者らしきのが数人」
素早く視線を向ける。鉄とガラスで出来た大きな温室が目に入った。その入り口付近のテラスに軍関係者とは違う制服を纏った紳士たちが歓談している。
あそこまで行けば、会話が聞けるかもしれない。
グラスを手に、参加者たちの人垣をすり抜けながら向かう。
この素晴らしい庭園の中で、ほろ酔い気分の制服の紳士たちが、ドレスに身を包んだ乙女達を市場でオレンジを買うかのように品定めをして、乙女たちも夫に相応しい男を値踏みする。酷い茶番だとアリスは不快に思った。
香水の匂いをぷんぷんさせた令嬢たちの集団の傍をすり抜けようとした時だった。
「わっ!!」
何かに足を取られて盛大に転んでしまった。グラスの割れる音があたりに響く。喧騒が一瞬止んだ。咄嗟にグラスを離して手を付いたので顔面を強かに打つ事は避けられたが、いきなり盛大に転んだアリスを参加者たちが一斉に見つめた。
後ろを見れば、ピンク色のドレスに身を包んだ令嬢が裾から出たハイヒールの爪先を引っ込めるところだった。アリスの姿を見て彼女達は嘲る様に笑っていた。
(成程。ライバルは容赦なく蹴落とすってやつか。貴族のご令嬢もしたたかなもんだ)
眉をひそめて身を起こそうとすると、シルクの手袋を嵌めた、ほっそりとした手が目の前に現れた。
「大丈夫ですか?」
顔を上げると、深緑色のヴェールの付いた帽子を被り、ライラックの花のような薄紫のドレス姿の貴婦人がそこにいた。ヴェールで顔は良く見えないが、まるで朝靄のような儚くか細い声だった。
「あ、え、ええ……」
その手を取り、起き上がる。僅かに掌に痛みが走って顔を歪めてしまう。貴婦人は両手で包み込むようにそっと、アリスの手のひらを裏返した。
「大変、血が滲んでいるわ。消毒をするので、こちらへ」
貴婦人はアリスの腕を取ると、温室の方へ足を向けた。アリスは混乱しつつも大人しく従う事にした。
注目は引いてしまったが、既に参加者たちは興味を無くして思い思いに歓談を始めている。
温室へ向かういい口実だと心の中でほくそ笑んだが、貴婦人は温室の目の前で左に方向転換し、庭の端の方へ進路を変えてしまった。
(嘘だろ!? 目の前まで来たのに! クソ!)
後ろを振り向けば、警察の高官らしき人間達がスコッチを片手に何かを話している。
どんどん離れていく温室を背に、後は頼んだぜ……とどこかにいるテディに向けて、アリスは無念そうに眼を瞑った。
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