猫とネズミは同じ船に乗る事は無い

「あのクソ野郎が! 新しい担当だと!?」


 割れんばかりの怒声が部屋中に響き渡る。

 ジョナス・グローヴァー。アリスがまだアーサー・バートレットだった頃、サウスエッジの人喰い狼事件を担当して三週間が経過していた。

 新たな証拠や容疑者の特定も中々に進まず、捜査員達にも焦りの色が滲んでいた時だった。

 内務省からの応援として現れたのが、ジョナス・グローヴァーだった。

 内務省は、イギリス王国内の警察機構や保安局を統括し管理する機関である。

 言わずもがな、ロンドン警視庁でさえも例外ではない。


「今日から捜査に参加する事になった、内務省保安局特別捜査官のジョナス・グローヴァー氏だ」


 署長にそう紹介された男は、ダークグレイの上等なスーツを着こなし、明るいベージュの髪を後ろに撫で付け、誰よりも冷徹で冷え切った灰銀色の眼差しはまるで剃刀のように鋭い。そして彼はアーサー達に向けて言った。


「私は君達と慣れ合う気は一切無い。君達がこの三週間如何に人的資源と時間を無駄にしたのか再検証し、新たな捜査方針を指示する為に私がいる」


 それはアーサー達が今まで汗水たらして行ってきた捜査全てが無駄だったのだと言う事と同じだった。

 アーサーはその言葉を聞いた瞬間、初対面のこの男の顔面に一発ぶち込みそうになるのをどうにか堪え、ゴミ箱を蹴り上げて退出するだけでその場は済んだのである。


「あいつはな、俺らがやって来た事を全部無駄だと切り捨てやがったんだよ」


 テディが吸おうとしていたタバコを横取りして吸い始めたアリスは、忌々し気にそう言った。

 更に被害者の中にアーサーと親しい人間、妹リリーの婚約者がいる事にも彼は言及した。


「奴は今までの捜査方針を根本から覆し、人員すら減らした。しかも、被害者の中にリリーの婚約者が居たと言う理由で、理性的な捜査をするのに致命的だと俺を無理矢理捜査陣から外しやがったのさ」


 だがそれで折れるようなアーサーでは勿論なかった。命令を無視して単独で捜査を始めたのだ。

 イーストエンド中を歩き回って、時にはいくつかの違法賭博場と酒場で暴れながら、犯人と思しき人物にあたりを付けたのだ。

 そして運命の嵐の夜、バッジを机に叩きつける代わりに人員を貸してくれと署長に直談判し、数人の騎馬警官と巡回警官の協力を得る事に成功した。


 しかし、容疑者を追い詰めた先に、アーサーは何者かに襲撃され、今に至る。


「奴が捜査責任者なんてな……クソ忌々しい」


 テディが新しいタバコに火を点け、深く煙を吸い、吐き出した。


「俺も何度か関係者に接近してるんですが、ダメでした。かなりの秘密主義で周囲には一切情報が降りてこないんです」

「だろうな。奴は『保安局(SS)』の人間だ。純然たる秘密主義の根暗野郎の集まりだよ」


 保安局は内務省の中でも一際秘匿性の高い部署である。国内外の脅威を把握し、対策する部署であるが、その実態は警察関係者すらも把握しておらず、謎のままである。


「だから旦那、その格好(ナリ)じゃ捜査本部に入る事も出来ないですよ」


 テディが真剣な表情で言った。


「……仕方ない。俺は嵐の日の足取りをもう一度確かめる。ドレスは屋敷の裏に置いておいてくれ」


 労働者の帽子を被り直し、男装したアリスがその場を後にしようとすると、その背中にテディが声をかけた。


「あ、そういや旦那」

「なんだ」

「この件とは関係あるかは分かりませんが、五番街の質屋でアンゼリカの奴を見たって奴がいたんです」

「アンゼリカだと? まだムショに居るはずだが」


 アンゼリカ。又の名をカーディナル・アンゼリカ(緋色のアンゼリカ)。本名は不明。パリやロンドンの貴族、富裕層を標的に高額な宝飾品を盗んで来た女泥棒である。依頼以外で盗みを働く時は決まって赤色の宝石しか盗まない事から、緋色のアンゼリカと呼ばれていた。

 五年前、ブルームズベリーの大英博物館にて清王朝の紅孔雀と呼ばれる首飾りを盗もうとした所、アーサーが寸での所で止め、逮捕したのだ。


「俺が見た訳じゃ無いから確かな事は言えませんが。アイツは鍵開け縄抜けの達人ですからね。まさかムショから脱走なんて……」

「有り得ないとは言えねえが、まず一人で脱獄は無理だろうな……わかった。頭に入れておこう。じゃあな、次は良いブランデーを差し入れてやる」


 テディのいる部屋を後にして、アリスはドレスを脱いでせっかく気分爽快になったはずなのに、なんだか台無しになった気分だった。

 それもこれも、自分の後任が気に食わないグローヴァーだったからというのが大きいのだが。


「ミス・ガーフィールド! その姿、とても似合っているよ」


 アリスがすっかり貧民窟にいる少年のような姿に様変わりすると、律儀に部屋の前で待っていたライアンが顔をぱっと輝かせて寄って来た。

 その姿は毛並みの良い大きな犬みたいだなと心の中で思った。


「おい、この格好の時にその呼び方はやめてくれ」


 ぴしゃりと言い放つと、へなり、と眉尻を下げてしまった眉目秀麗な青年に、ますます犬のようだと思わず小さく噴き出した。


「では、何と呼べば……」


 アリスは少し考えて、言った。


「アーサーだ。私がドレスを着ていない時はそう呼んでくれ」

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