貴婦人の気まぐれ
「アリス、もう、どこへ行っていたの!? 心配したのよ!」
汗だくで探し回っていた従者の前に何食わぬ顔で現れて、そのままドレス店に戻ると、今にも泣きだすのではないかと言う母の姿があった。たった一時間で大袈裟な。と思いながらも、アリスは母の抱擁を受け止める。
「お母様、大袈裟よ。ちょっと可愛らしい猫がいて、追いかけていただけ」
「まあ! 本当にこの子ったらいつまでも子供みたいに。本や乗馬もいいけど、もっと刺繍やダンスに励みなさい。良い旦那様を見つけられないわ」
なるほど、アリスは令嬢の中でも少し変わった存在らしい。だがその後の台詞にぎぎぎ、と錆びついたドアのように自分を抱きしめる母を見上げた。
「旦那、様……?」
クラウディアが何を言っているの?とばかりに肩をすくめた。
「あなたに相応しい旦那様を探すのよ。当然でしょう? さあ、マダム・ジェンセン。 次の生地を持ってきて頂戴」
アリスの中でアーサーは一気に青ざめた。自分は何処の馬の骨とも知れぬ貴族のボンボンと結婚させられるという事実に。
見た目は金髪碧眼の可憐な令嬢だが、中身はギャングも泣いて許しを乞うスコットランドヤードのアーサー・バートレット警部補なのだから。
(何てこった……)
この姿でも何とかサウスエッジの人喰い狼を探し出す、という思惑は、結婚という最悪の障害に阻まれる事となってしまった。
肩口に次々とドレス生地を当てられながら、アリスはこれから自分はどうすればいいのかを必死に考え始めた。
デビュタント、社交界へのお披露目とは、結婚適齢期の貴族の子女が新しく社交界の一員として、宮廷へ出廷するものである。
それと同時に、将来有望な夫探しという熾烈な争奪戦が始まるのだ。
様々な白いドレスに身を包んだ乙女たちが、目をきらきらとさせながら、大広間への扉を見つめている。
むせ返るような柔らかく若い乙女の香りに、アリスは頭がくらくらしそうだった。
(まるで売りに出される仔牛の気分だぜ)
クラウディアが何度もダメ出しを行い、作り直させた渾身のドレスの胸元を居心地悪そうに直していると、大広間へのドアが開いた。
宮廷楽団のヴァイオリンが美しい音色を奏で、この世の贅沢を集めた様な天井画やシャンデリアが煌びやかに輝いていた。
アリスはなんだか自分が全く別世界に来てしまったようで、束の間我を忘れて見入っていたが、周りの子女たちが行儀よく一列に並び、優雅な動作でカーテシーをするのを見て慌てて倣った。
(貴族ってやつは毎日こんな事をやってんのか? 馬鹿げてる)
内心白目をむきながらも、懸命に周りと合わせる。
デビュタントに向けて、母が依頼した家庭教師から一連の作法を一週間みっちりと訓練されたのが役に立ったようだ。もっとも、何度かはこのくそババアと怒鳴りたかったし、逃げ出したかったのだが。
広間の奥の一際豪華な椅子に座る貴婦人がこちらを見た。
幾つなのかは分からないが、母クラウディアより年上だろうか。その眼光は知的だがどこか退屈そうである。
「そこの仔ヤギさん。 こちらへいらっしゃいな」
仔ヤギ、という言葉に乙女たちがくすくすと笑う。貴婦人が扇を畳むと優雅にこちらを差した。それはまっすぐにアリスに向いている。
アリスはきょろきょろと周りを見た。
「そこの貴女よ。迷子の仔ヤギみたいに可愛らしいお嬢さん」
「……私……?」
アリスが自分を指差して言うと、貴婦人は優雅な仕草で頷いた。
「し、失礼します」
死刑台に向かうような気分で貴婦人の前に立つと、彼女はどこか面白そうな顔でアリスを見上げた。
「貴女。名前は?」
「アリス。アリス・ガーフィールドです」
「ああ、ガーフィールド公爵の子女ね。今年がデビューだったのね」
「そうであります」
アリスは緊張から自分の立場を忘れて、まるで新兵のように答えてしまった。貴婦人は眼を見開いてからクスクスと笑った。
「今日のデビュタントはどう? どんな気持ちかしら。率直な答えを聞かせて」
「あ……えー。まるで競りにかけられる仔牛のような気分であります」
アリスは思わずそう言ってからしまった!と首を竦めた。周りの従者の眉が顰められる。
貴婦人は今度こそ驚きに眼を瞬いて、それから堪えきれないと言うように大笑いをした。
楽団の曲をかき消すような笑い声に、従者たちの口がぽかりと開いている。
「ふ、ふふふ。久々に面白い子に出会ったわ。それだけでもこの退屈なお披露目会に出た甲斐があったものだわね」
アリスは貴婦人が何を言っているのかよく分からず、訝し気に首を傾げる。
その後ろで、年かさの従者が「シャーロット王妃。皆々様の手前、お控えください」と窘めたのを聞いて、今度はアリスが驚きに眼を見開く番であった。
「アリス、アリス。覚えたわ。この私、王妃シャーロットを退屈させない予感がするわね」
アリス・ガーフィールド、もといアーサー・バートレットは、英国王ジョージ3世の王妃シャーロットに顔を覚えられてしまったのであった。
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