美しいスズランには毒がある

「いや、いやいやいや。そんなわけねえだろ」


 唇が触れるかという程近づけていた顔を離して、テディはふう、と呆れたような息を吐いた。

 その態度にアリスのこめかみにうっすらと青筋が立ったが彼は気づかない。

 子猫のように怯えている(ように見える) 娘の、真っ白なデコルテを見つめて、テディがにやりと笑った。


「そうか、あのおっさんに変な事を吹き込まれたんだな? ダメだぜお嬢さん、あんな野獣みたいな男の話を本気にしちゃあ」


 おい、誰がおっさんだ、とアリスは目の前の男に頭突きをしてやりたくなったが、ぐっとこらえた。


「お嬢さん。此処は貴女みたいな美しい淑女が居ていい場所じゃない。俺がエスコートしてあげよう」


 テディの手がほっそりとした腰に回る。アリスは埒が明かぬと男を見上げて、言った。


「おい。俺の手を見ろ」


 シルクの手袋をした可愛らしい左手が、テディの前に広がる。

 にやついたその表情がその手に向けられた瞬間である。


「あがっ!!!」


 テディはもんどりうってひっくり返った。

 アリスの見事な右のアッパーカットがテディの左顎を捉えたのだ。

 仰向けに倒れたままの男の胸辺りをまたいで、仁王立ちでこちらを見下ろすアリスの後ろに、テディはあの恐ろしいスコットランドヤードの警部補の姿を見た気がした。


「もう一発エスコートしてやろうか? あ?」


 襟を掴まれ、ぎり、と右拳が握られる。

 かつて、幾人もの対戦相手を開始数秒でKOさせた地下ボクシング王者の威圧に、テディは壊れたように首を振るしかできなかった。



「いや~。ホントにこんな事ってあるんだなあ」


 腫れた左顎を摩りながら、テディはじとりと自分を睨みつける可憐な令嬢を見つめた。

 アリスは石段に腰掛け、溜息をつく。


「うるせえ。俺だってなぁ、信じられねぇよ」

「ガーフィールド家ってメイフェアにあるデカいお屋敷だろ? 何回か配達で通ったからな。こんな別嬪がいるならお近づきになればよかった」


 見え見えの下心で髪に伸ばされた手をぴしゃりと叩く。


「中身は俺だってのを忘れたか?」


 そう言うとテディは「げっ!」と小さく叫んで後ずさった。それはそれで苛立ちを覚えたが、アリスはまた大きく溜息を吐いた。


「まあいい。 お前の助けがいる。俺はもうすぐ社交界デビューってやつをするらしい」

「ぶっ」


 テディが下世話なジョークを聞いた時のように噴き出して、げらげらと笑った。


「あ、あの、泣く子も黙るアーサー・バートレット警部補が、しゃ、社交界デビューだって!? こりゃあ傑作だ! 記事にしてもらおうぜ!」

「おい、今すぐ黙らないとその鼻をへし折ってやるからな」

「おお怖い。なあ旦那。俺はアンタが撃たれたって聞いてホントに心配したんだぜ?」


 その言葉を聞いて、アリスがばっと顔を上げる。


「『撃たれた』?死んだわけじゃないのか?」


 テディが肩を竦めて頷いた。


「ああ。意識は戻らないけど、生きてるって聞いた。その、リリーさんから」

「リリー……」


 アリスは、この世でたった一人の肉親になってしまった妹リリーの事を想った。負けん気と正義感が強く、向こう見ずなな所は兄にそっくりで、女性にもかかわらず新聞記者を生業にしている。両親を早くに亡くした彼女は、数か月前、婚約者を亡くしていた。

 サウスエッジの人喰い狼事件で唯一の警官の犠牲者である彼は、アーサーの義弟になるはずだった。

 アリスは続けて大事な人を失くしてしまったリリーの心境を想うと、胸が痛んだ。


「リリーは、どうしてる?」


 テディが神妙な顔で俯いた。


「ちょっと痩せたみたいだけど、元気だったよ。毎日病院に通っているみたいだった。あと、埠頭にも」

「埠頭だって?」

「リリーさん、犯人を捜してるんじゃないかな。警察署にもしょっちゅう行ってるみたいだし」


 アリスお嬢様、という声が遠くから聞こえた。従者が探しているらしい。

 時計を見れば、既に一時間以上経過していた。


「クソ、俺はもう行くが、リリーが危険な事をしないよう見張っててくれ。何かあればすぐに連絡しろ」


 ぴん、と硬貨をテディに向けて弾く。ストールを適当な柵に掛けて、慌ただしく立ち去ろうとした背中に「ねえ、旦那」と声がかかった。


「何だ」

「そのドレス、すげえ似合ってるぜ」


 今度こそ中指をにやけ面のハンサムな若者に立ててから、裏路地を後にした。

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