裏路地の行き止まりにはご注意を
平素のアーサー・バートレットは、六フィート(百八十三センチ)を超える筋骨逞しい大男である。煙草とスコッチを愛し、イーストエンドのギャングやチンピラ相手に大立ち回りを繰り広げたり、始末書にいけすかない警部の顔を落書きしたり、事件とくれば何度でも現場に赴く優秀な捜査官である。
週末はプールバーに繰り出してビリヤードやカードに興じ、娼館で白粉の香る肌に包まれて眠る。
今もそんな日々を過ごしていたはずだった。
以前の自分より、二回り以上も小柄な身体に、次々と華やかな生地が押し付けられてゆく。
「この生地じゃ肌の色が上手く映えないわね、次を」
「はい、奥様」
半ば無理矢理馬車で連れ出され、メイフェアの一番街にあるドレス店に着くや否や、お披露目会の為の真っ白なドレス生地を何着も押し付けられる羽目になっていた。
五枚目の生地が肩口に押し付けられるが、アリスの眼は死んだ魚のように虚ろである。
逆に、母親は着せ替え人形で遊ぶ女児のように目をきらきらとさせて、愛する娘のデビュタントのドレスを選んでいた。
心の底から帰りたいと思っていた時である。
店のドアに付いている呼び鈴がチリンチリン、と軽やかに鳴り、若い男が入ってきた。年の頃はアリスより幾つか年上だろうか。腕まくりしたシャツからは陽に焼けた逞しい腕が見えていて、使い込まれた革のショルダーバッグを提げている。配達人のようだった。だが、その顔を見た時、アリスは驚きに眼を瞠った。
「マダム・ジェンセン。あなた宛てに配達で……す」
男はアリスを見てぽかんと口を開いたまま止まってしまった。アリスはアリスで男の顔をまじまじと見つめている。
「こら、テディ! お客様がご来店中なのよ!」
ドレス店の主、マダム・ジェンセンが一喝すると、テディと呼ばれた若者は肩を竦めて鳶色の帽子を取って頭を下げた。
ブルネットのウェーブがかった髪に中々に精悍でハンサムな面立ちは、街の娘達の注目を集めるだろう。
それよりもアリスには彼を見つめてしまう理由があった。
「失礼。お嬢さん。では、マダム。失礼しました」
テディが店を後にする。アリスは慌てて、母親に顔を向けると言った。
「お母様、ちょっと疲れてしまって、その、少し外の空気を吸ってきてもよろしいかしら? 」
その言葉にクラウディアは気の毒そうに頷いた。
「あら、ごめんなさいね。病み上がりなのにはしゃぎすぎてしまったわ」
「では奥様、お茶の準備をさせますので」
マダム・ジェンセンが手を叩いて店員たちにお茶の用意をさせている。これならば数十分出ても問題ないだろう。
「すぐに戻るわ。行ってきます」
噂話に花を咲かせ始めた婦人たちを背中に、アリスは足早にドレス店を出た。
(確か……こっちに)
雨上がりの街中を水色のドレス姿の少女が、人混みの中を泳いでゆく。
若者の背が狭い路地に入る。
近くのアパートの前を箒で掃いていた老婆に、アリスは小さなバッグから何シリングかを出して手渡すと、代わりにストールを貰って羽織った。明るい水色のドレスは、路地の中では酷く目立つ。
ストールをすっぽりと被って、若者の後を追おうと突き当りの角を曲がろうとした時である。
細い手首が強い力で掴まれた。
そのまま冷たい石壁に背を押し付けられる。
「何かご用かな。美しいお嬢さん。ここは貴女のような方が出歩くには少々治安が良くないぜ」
手首を掴んだまま、若者が自分を見下ろしながらそう言った。
アリスは掴まれた腕を冷めた目で見つめた。
「ああ。お前のような奴がいるからな。テディ」
思ったような反応では無かったからか、テディが怪訝そうな顔をする。
「ん? ああ、さっきのドレス店にいたお嬢さんか。 俺に何か用かな? 君のように美しいお嬢さんなら大歓迎だよ」
テディが掴んだ腕を優しく離し、もう片方の手で取って指先にキスをした。垂れ気味の甘さのある眼差しが細められる。
初心な貴族令嬢なら一発でぽうっと彼にぞっこんになってしまうだろう気障な仕草だ。
だが、アリスはげんなりとした様子で彼を見上げた。
「テディ・シェルビー。シチリアのパスタ野郎の財布を掠め取って半殺しになってたお前を助けてやったのを忘れたのか?」
その言葉にテディの表情が凍り付く。
雨上がりの裏路地で、血と泥に混ざって頭陀袋のような有様だった少年のテディを見つけたのは、まだ巡査部長だったアーサー・バートレットその人だった。
シチリアマフィアの財布を掠め取った浮浪児達をリーダーとしてまとめていたテディは、仲間を売ることなく、その報復として凄惨なリンチを受けた。
その財布の中には、武器密輸についての取引場所が描かれたメモが入っていたのだ。
丁度、シチリアマフィアとギャング同士の抗争の捜査をしていたアーサーは、テディの義侠心と、洞察力の高さを買い、浮浪児達をきちんとした施設に預け、テディを職に就かせると共に、情報屋としての協力関係を結んだ。
彼は恩義のあるアーサーに度々有益な情報や、時には危険な役目も買ってくれるようになったのだ。
アーサーにとって、彼は大事な情報源でもあり、協力者だった。
「まさか……バートレットの旦那……?」
「俺だ。アーサーだ。テディ、頼む。助けてくれ」
絞り出すようなテディの掠れた声と、密やかなアリスの声が重なった。
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