第26話 仲直りの後で
風が窓を叩いた。窓の隙間から廃屋の中へと入ってきた隙間風の音は私達の会話を中断させた。
千佳は立ち上がり、窓の外を眺める。
「もうすっかり夜だな……」
「今、何時かな」
「時計を持っているわけじゃねえから、正確な時間は分からんが九時前後ってとこだろ」
千佳は窓から離れ、再び私の隣へと腰を下ろした。
「何かするにしても明日だな。結乃も今日はここにいるのか」
「うん……そうする」
「あとさ……やっぱり自首するのか」
「うん」
「《黄泉大神の詛呪》――呪いを俺に戻さないこともか」
「これは元々お母さんのせいだから」
「そうか……」
「やっぱり反対してる?」
「してるさ。だけど、お前が決めたことだ。俺は何も言わねえよ」
千佳はコンビニ袋からパンとお茶を取り出して、私に手渡した。
先ほど、千佳が買ってきてくれた物だ。
パンの袋にはメロンパン、お茶のラベルには当然ながらお茶であることが記されているけど、私にはやっぱりそうは見えない。メロンパンは濃緑色をしているし、お茶の液中には黒い斑点が浮かんでいる。
食べる前から分かる。これ絶対に美味しくない。
「無理して食べなくてもいいぞ」
「せっかく千佳が買ってきてくれたんだし、ちゃんと食べるよ」
「そうか」
千佳は短くそう答えると、自分の分のパンを食べ始めた。形からして、あれは多分チョココロネだ。
私もメロンパンの袋を開けて、恐る恐るソレに齧り付いてみた。
――ダメだ、やっぱりマズい。
そういえば、怜美さんが作ったという食パンは普通に美味しかった。あれは一体なんだったのだろうとしばらく考えて……想像するのを辞めた。 今の私は普通の人間が醜悪で皮膚も爛れたような姿に見える。食べ物も黄泉の国のように見せると怜美さんは言っていた。つまり、普通の人が見たら、怜美さんが作ったトーストはとても食べられる物ではないということだ。だから、珠江ちゃんと宇津田さんは食べなかった。
「結乃、俺も自首するよ」
「え!」
千佳はチョココロネを半分ほど食べ終えた辺りで、そう切り出した。突然のことに私は食べていたメロンパンらしき食べ物を喉に詰まらせ、大きくせき込んだ。
「おい、大丈夫か」
「だ、大丈夫だけど……それってお母さんのこと……?」
「お前のお母さんを殺した罰はちゃんと受けないとな」
「そ、それは、その……」
「俺はお前の言うことを聞いてやったんだ。お前も俺の言うことを黙って聞いてくれよな」
そう言われると私は何も言い返せない。
私も千佳の意見を聞かないで、自分の意志を貫こうとしている。
「刑務所か少年院か分からんが、一緒のところになれるといいな」
「あははは……」
冗談っぽく言う千佳に苦笑いしか返せなかった。
チョココロネを食べ終わった千佳は大きく欠伸をした。私はというとまだメロンパンの半分くらいしか食べておらず、端っこをハムスターのように齧っている。
「それとさ、教えておいてやるよ。自凝島での儀式の方法。お前が知っているのと違うからな」
「儀式はしないって……」
「ああ、別にしようってわけじゃない。ただ知っておいて損はないだろ。知識は多い方が役に立つ」
「でも……」
「知恵は武器になる。武器は自分の意志で使うか使わねえか決められる。でも、武器がなければそんな選択すらなくなるんだぜ。結乃が自凝島に来て慌てふためいていたのも知識を持っていなかったからだ」
「うっ……それは確かに……」
「まずはだな――」
千佳は静かに話し始めた。
自凝島の儀式の方法は私と千佳がやったものと違っていた。道陸神が二人一組なのだから、先に呼びかける方とかなのだろうか。千佳に尋ねてみてもはっきりとした答えは返ってこなかった。
それにしても、メロンパンが美味しくない。
これから毎日こんなものを食べなければならないとなると気が滅入る。それなら例え体に悪かったとしても、自分が美味しいと思うものを食べた方がいいのかもしれない。 そんなことを考えて意識しないように食べていると、不意に千佳が立ちあがった。
「どうかしたの?」
「外の空気を吸いに行こうと思ってな。ここって埃っぽいじゃねえか」
「ああ、うん、確かに……誰も使ってないみたいだからね……」
「結乃も来るか」
「これ食べ終わったら行く」
眠たそうに欠伸をしながら、千佳は扉を開く。
扉の外の世界の空は、やっぱり赤黒い。血のような色をしている。
千佳は扉から一歩、外に踏み出す。
何でもないような顔をして千佳はずっとこんな景色を見て来たんだ。人とは違う、同じ場所にいて同じものを見ているのに、全然違う光景を。
千佳は更に一歩、外へと歩を進めた。
他人と同じものを、同じ現実を見ることが出来ない。それは世界に取り残されたようで、とても孤独で寂しい。
でも、大丈夫だ。
例え、同じ景色が見えていなくても、見ている現実が違っていても、私と千佳は友達なんだ。二人なら乗り越えられる。
三歩目を千佳は踏み出した。
――瞬間、千佳に人影が飛びかかった。
千佳もその襲撃者の存在に気付いていなかったのだろう。驚く表情を浮かべる前に彼女が押し倒されるのが見えた。
扉の前から千佳が消える。
襲撃者の顔は黒い雨合羽に隠れて見えなかった。
思い返してみれば、私が自凝島に来てから本当に襲われたと言えるのは、道陸神社に向かっていた時しかない。
初めて会った亡者だって千佳を襲うつもりはなかっただろうし、警察官だって私を補導しようとしただけだろう。洋館の中に至っては、子供たちのおままごとだ。
その人物が、千佳に襲い掛かった。
「千佳!」
私は叫びながら立ち上がった。 雨合羽の子供は手に持っていた何かを千佳の顔に向けていた。正確には顔の目の部分だ。脳裏に自分が警察官にしてしまったことを思い出してしまい、全身から血の気が引くのを感じる。
廃屋から外に出た。
「…………あ、あぁあぁ」
風が私の髪を撫で、目の前にいる子供の雨合羽を揺らした。
今、私が見ている現実が偽物であれば、どれだけいいだろうか。
だけど、私の瞳にはしっかりと映っている。
地面に仰向けに倒れた千佳の眼孔にマイナスドライバーがずっぽりと突き刺さっているのが。
私は悲鳴すら出せなかった。
見えているものが信じられなくて。人間の目玉を貫いたらどうなるのかを考えたくなくって。
全身から血の気が引くのを感じて、意識がふらっと遠のきそうになった。足に力が入らず、その場にぺたりと座り込んで地面に倒れ込んだ千佳の姿を呆然と見るしかできない。
「ふぇ、ど、どうしたのです?」
そんな場違いな、可愛らしい声が聞こえた。 私よりもオドオドしていて、自信がなさそうに小さく震える彼女の声が雨合羽の中から、発せられていた。琴のように綺麗に澄んだ声を私はこの島で何度も聞いていたので誰だかすぐに分かった。
「珠江ちゃん……」
眼前の子供は頭に被っていた雨合羽のフードを脱いだ。その下には無邪気な笑みをした女の子がいた。
「どうして、なんで……」
「だ、だって、この人は珠江の大事な人を殺したのです。それが珠江には許せなくて……」
「大事な人……?」
「警察官のお兄さんです。珠江にいつも優しくしてくれて、珠江のことを怖がったりしない優しいお兄さん……」
それって、亡者と勘違いして私が殺してしまった警察官のことではないのだろうか。それがなぜ、千佳が殺してしまったことになっている。
「珠江は見たのです。そいつが警察のお兄さんの死体の前に立っているところを」
千佳は洋館に行く時に私を付けてきていたと言っていた。それで、私が警察官を殺すところを見たと言っていた。
私があの場を走り去った後、千佳が警察官の前に立ち、それを珠江ちゃんが見てしまったということか。
「直接やっているところは見ていないんでしょ。なんで、どうして、千佳が殺したって思うの。たまたま通りかかっただけかもしれないよ」
「珠江だってそれを考えなかったわけではないです。珠江自身だって宇津田先生にちょっとしたお買い物を頼まれて通りかかっただけですから。でも、そいつ自身も言っていたのです。俺が殺したんだって」
「千佳が言った……?」
「昨晩の道陸神社のことです。珠江は警察のお兄さんを殺した人を探していました。けど、結乃お姉様の言う通り、そいつはただ通りがかっただけかもしれないのです。だから、お兄さんを殺した凶器を見せて反応を確認してました。犯人なら絶対に見たことのあるものなのです。結乃お姉様が反応したので、つい飛び掛かちゃいましたけど、本当は違うって珠江は知っていたのです。あの時はごめんなさい」
珠江ちゃんは大きく頭を下げる。
「珠江に優しくしてくれる結乃お姉様がそんなひどいことをするわけないです。きっとびっくりしただけだと思って、ひとまず洋館に戻ろうとしているとそいつが追いかけてきて言ったのです。『お前、あの警察官の知り合いか。あいつなら俺が殺したんだぜ』と。怒った珠江はそいつをやっつけようとしたのですけど、逆に押さえ込まれて逃げちゃいました ……」
千佳はきっと自分が殺したと第三者に伝えることで、私の罪を被ろうとしたんだ。その時の私はお母さんの手帳を読んでいて、千佳に嘘を吐かれたって思っていたのに。
「なにも殺すことなんてないじゃない……」
「ど、どうして結乃お姉様は怒っているのです……? 結乃お姉様が道陸様の呪いを持っているのはそいつのせいではないのですか」
「呪い……《黄泉大神の詛呪》のことを知っていたの?」
「あう」
言ってはいけないことを喋ってしまったかのように、珠江ちゃんはおろおろとし始めた。しばらく手をもじもじさせたかと思うと、上目遣いで私を見つめた。
「ごめんなさい……宇津田先生から道陸様の伝承を聞いていたことはあるのです。難しい話でよく分からなかったのですけど、人間が怖い化物に見えちゃうって……。けど、珠江のことは火傷跡もない普通の女の子に見えるって……。いわゆる呪いみたいなもので、他人に移るものだって……。
結乃お姉様が優しく接してくれたのは呪いを持っているからだと分かっていたのです。それでも珠江はとても嬉しかったのです。みんな、珠江に意地悪をしてきました。結乃お姉様と警察のお兄さんだけ優しくしてくれたのです」
「その警察のお兄さんは……死者側――呪いを持っていなかったんじゃないの」
「宇津田先生も違うって言っていたのです。だから、警察のお兄さんは珠江の姿を見ても、いじめない普通の優しい人だったのです」
それから言い訳をするように珠江ちゃんは語気を強める。
「警察のお兄さんを殺して、結乃お姉様に呪いを移したソイツは悪い人です! だから… …だから、珠江は警察のお兄さんのために、結乃お姉様のために、ソイツを珠江が殺したのです! 結乃お姉様は珠江のことを褒めてくれないのですか……?」
まるで、テストで満点を取った子供が親に褒めてもらうのを求めるかのように、珠江ちゃんは瞳を揺らす。自分が良いことをして、私がそれを喜ぶものだと本気で思っている。
「――――――あっ」
ぴくりと千佳の指が動いた。
珠江ちゃんを押しのけて、私は千佳の傍へと近寄った。珠江ちゃんが小さく悲鳴をあげて、地面に倒れる音が聞こえたけど、そんなことは知ったことではない。
名前を呼んで、手を握る。雪でも触っているかと思うほど、千佳の手は冷たくなっていた。温めるかのように私は千佳の手を強く握った。
左目に突き刺さったマイナスドライバーは痛々しくてみていられない。
「千佳、ねえ、千佳ってば。聞こえてるんでしょ、返事してよ!」「ダメだ……ぼんやりとしてて何も見えねえ……」
僅かに口元を動かし、ぼそぼそと彼女は喋った。耳を傾けないと風に掻き消されてしまいそうで、それが千佳の状態を表しているかのようで、私は泣きそうになってしまう。
「千佳……ねえ、千佳!」
命の灯が消えてしまわないように喉が張り裂けてしまいそうなほど叫ぶ。
「ん……あ……結乃」
「そうだよ、私だよ!」
「声は……聞こえるんだけど……お前が、どこにいるのかも……分かんねえ……」
「私はここにいるよ!」
握っている手に力をこめる。けど、もう手を握る感触にも気づけないのか、千佳はまあ ……いいか……と消え入りそうな声を返してきた。
「やっぱり……俺はお前に幸せになって欲しい。普通の女の子として、幸せな家庭で…… 笑っていて欲しい」
「千佳もだよ。私も千佳に幸せになって欲しいよ!」
「だから……」
そこで小さく息を吸って、薄く息を吐く。
「だから…………絶対にお前は今のままじゃダメなんだ。元の生者側に戻ってくれ。そんな酷いもんしか見えなかったら幸せにはなんかなれない……それで……それで……」
「……何?」
「お前は幸せになってくれ。俺の代わりに……」
息が、止まった。吸うことも、吐くこともやめてしまった。
私の手の中から命が無くなるように、千佳の手が滑り落ちる。
何度も、何度も名前を呼びかけるけれど、私の呼びかけに答えることはなかった。
「はぅぅ……痛い……」
そんな中、珠江ちゃんが涙目になりながら起き上った。転んだ拍子に膝擦りむいたのか、血が細い線となって流れている。
可哀想だなんて思わない。
こいつが千佳を。
「結乃お姉様……珠江はいけないことをしたのですか……?」
依然として分かっていない。私がどうして喉が痛くなるほど千佳の名前を呼んでいたのか、どうして私の涙が地面を濡らしているのか。そんな誰にだって分かりそうなことさえも。
私はぎゅっと拳を握り、大きく深呼吸をして、それから立ち上った。
「……そんなことないよ、珠江ちゃんはよくやってくれたよ。ありがとう」
精一杯の作り笑顔を作る。怒りで我を忘れてしまいそうなのを必死に押さえつける。
「よ、良かったです……。なんだか結乃お姉様怒っているように見えたので……」
私の作り笑顔に珠江ちゃんは嬉しそうに笑顔を返してくる。
たった一人の友達を奪ったこいつを許せない。
復讐をするんだ。絶望を与えてやる。
「ねえ、珠江ちゃん。ちょっとついて来てほしいところがあるの」
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