第11話 死者がよく歩く町

 ――珠江ちゃんと同じように彼女も亡者に喰べられた。

 生きていてくれるのは素直に喜ばしいことだ。そのことを否定したいわけではない。珠江ちゃんと同じように死んだはずの雫喜怜美が生きているという現実に戸惑いを隠せないだけだ。


「そんな畏まった呼び方をされなくとも構いませんよ。怜美、とお呼びください」

「じゃあ、怜美さん……その、わたしは怜美さんが亡者に食べられるところを見たの。死んだところを。だから、その……」

 

 珠江ちゃんと同じ質問を投げかける。

 私の問いかけに怜美さんは薄っすらと笑みを浮かべて、静かに階段を下りて近づいてくる。幽霊のように、足音もなく存在感がないような軽さで。

 珠江ちゃんが私の背中に隠れて洋服の裾をぎゅっと握る。 同じ段まで降りてきた怜美さんは私と向かい合う。次の行動が読めず恐怖に呑まれそうになるけど、少なくとも怜美さんは人間で亡者ではない。喰い殺される、なんてことはないはずだ。


「――――――あっ」

 

 怜美さんは私の左手を握り、自身の左胸にぎゅっと押し当てた。胸のふくらみの柔らかさが伝わる。私のぺたんこな胸ではなく、女性らしいマシュマロのような弾力感。


「な、なに、なに、してて――」

「わたくしの生きている音、聞こえますか」

「へ? な、なに、なんて?」

 

 あまりにも予想外の行動と他人のおっぱいを触っているという恥ずかしさで何と言っているのか聞き取れなかった。距離を取りたくても、怜美さんは私の左手を力強く握りしめているせいで身動きが取れない。


「しょせんは肉体という器が活動中であることを示す鐘の音ですけれど、生と死の境界線が超えられるのはもっと先のことでしょう。ですから、心臓の音で生きているという証明をさせてくださいまし」

「は、え。し、心臓の音?」

 

 二、三度、呼吸を置く。落ち着いて手のひらに意識を向けると規則正しく、とくんとくんと心臓の音が伝わってきた。


「どうでしょうか」

「う、うん……心臓の音、分かるよ」

「それは良かったですわ」

 

 やっと手を解放されたので慌てて距離を取る。

 疑っているわけではないので生きていると一言答えてくれるだけで良かったのに。それに別に胸を触らせてくれなくても手首の脈をとらせるだとか、呼吸をしているだとかもう少し穏やかな方法もあったのでないだろうか。


「きっと結乃さんは怖い夢でも見たのでしょう。無理もございません」

「夢、なのかな。それにしてはリアル過ぎだし……」

 

 けれど、珠江ちゃんと怜美さんが生きている以上は現実というのはありえない。それとも今が夢だというのだろうか。もしくは私は死んでしまっていて死後の世界だとか。疑いだすとキリがない。


「ねえ、怜美さん。教えて欲しいことがあるの。医務室で寝るまでの経緯が分からない、というより覚えてないの。何があったのか教えてくれないかな」

「あら。先生から聞いていないのでしょうか」

 

 訊く前に追い出されたから、と言うと怜美さんはなぜか珠江ちゃんを一瞥して、分かりましたと話し始めた。


「夜中、詳しい時間は覚えておりませんが、玄関ホールの扉を叩く音が聞こえました。亡者かもしれませんので裏口から出て様子を探ると結乃さんがいらっしゃいました。随分と疲弊したご様子、というよりどうやら意識もはっきりしていないようでしたので、洋館の中に招き入れました。ひとまず、貴賓室へと案内していくつか会話を致しました」

 

 どういったことを話していたか尋ねると、疲労困憊で意識もぼんやりとしている様子の私が元の世界に戻りたいということや亡者のことについて尋ねるので、手元にあった新聞紙を見せたそうだ。平成三十七年のかと尋ねると、そうですわと怜美さんは答えた。


「それから糸が切れたようにその場に倒れ込んだのです」

「急に意識を失ったってこと?」

「ええ。先生が仰るには神経調節性失神とのことです。恐怖や疲労、ストレスなどにより自律神経のバランスが崩れて血圧の低下などが起こり、脳に届く血が少なくなり、脳に必要な酸素が足りず、意識を失うという症状とのことです。倒れた時に頭をぶつけたりする危険性はありますが、目を覚ましたら大抵は問題ないとのことです」

 

 そこで隠れている貴方からも言って差し上げなさい、と怜美さんが視線を向けると、私の洋服の裾を握っている小さな身体がビクッと震えた。

 二人の関係を知らないけれど、怜美さんは蔑むように見下しているし、珠江ちゃんは怯えたようにからだを縮こまらせて目を合わせようともしない。何も知らない私からすると、怜美さんが威圧感を与えて怖がらせているようにしかみえない。


「耳まで悪くなったのでしょうか。あらあら可哀想に」

「もう怜美さん、そんなこと言ったらダメでしょ。珠江ちゃん、私が意識を失って倒れたって本当のことかな」

 

 珠江ちゃんは黙ったままこくりと頷いた。

 失礼な話だけど、怜美さんの異様な風貌のせいで全てを信じようとはいまいち思えない。対して珠江ちゃんは嘘を言うようには見えないし、そのオドオドとした自信のない言動からも騙しごとが不得意そうに見える。そんな子が本当だと肯定するのならひと先ずは信じてみるしかなさそうだ。


「ご理解いただけたでしょうか」

「一応」

「それは良きことでございますわ」


 怜美さんは微笑む。


「それで、今からどちらに行かれるのでしょうか」

「二階の空き部屋。今日はそこで寝ていいって宇津田さんが」

「空き部屋というと、いくつかございますがどちらでしょう」

「それを珠江ちゃんに案内してもらうところだけど……」


 怜美さんの視線が無言で珠江ちゃんへ向かった。


「……あっ、そのそのう、二、二階の……」

「――――――――――」


 珠江ちゃんはどもって上手く答えられない。怜美さんは口を閉ざしたまま蔑むような目で見ている。


「二階の……右側の端っこ……」


 ようやく言えた珠江ちゃんに対して怜美さんはお礼もなく、独り言のように分かりましたと呟いた。


「それでは用事がございますので失礼いたしますわ。結乃さん、また後程」


 そう言って怜美さんは階段を下りていった。すれ違う際に、私に笑みを送った。


「――あぅ」

 

 一方、珠江ちゃんに向ける瞳は酷く冷たかった。まるで汚い物でも見るような。仄かに侮蔑の念が籠っているようにも感じる。

 自分にその視線を向けられたわけでもないのに、背筋を舐められるような悪寒が体中に走った。直接向けられた珠江ちゃんはそれ以上のものを感じているだろう。

 二人は言葉を交わさず、怜美さんは一階へと辿りつくと廊下へと続く方へと進んでいった。


「はう……とても緊張した……」

 

 怜美さんがホールから姿を消してから数秒後、微動だにしなかった珠江ちゃんが安心したかのように大きく息を吐いた。額には僅かに汗までかいている。


「ささ、こちらですです」

 

 珠江ちゃんは再び階段をのぼりはじめた。遅れて、私もついて行く。


「怜美さんと喧嘩でもしているの」

「い、いえ、そんなことはないです……仲良しさん……とは、言い難いかもしれませんが ……雫喜さんは珠江のことを嫌っていますが……それは珠江のせいなのです。雫喜さんは悪くありません……ですから、雫喜さんをあまり責めないで下さい……」

「でも――」

 

 私の反論を許さないように珠江ちゃんの小さな背中が震えた。それ以上の問いかけを拒んでいるようで、私は口を閉ざすしかなかった。

 階段を上がって右手側に進んでく。扉を開けると少し薄暗い廊下があった。赤いカーペットが敷いてあるのも相まって不気味な印象を受ける。


「結乃お姉様のお部屋はこちらです」

 

 入ってすぐの扉を珠江ちゃんは示した。お礼を言って、奥へ続いていく廊下を見つめた。等間隔に同じような扉が設置されていて、廊下の終わりは左側に曲がっている。


「廊下の先は何があるの?」

「お部屋がたくさんです。廊下はカタカナのコみたいにぐるっとしていますです」

 

 頭の中で地図を作ってみた。見える範囲で二つのドアがあるので合計で六部屋とかその辺りだろうか。洋館なんてものに馴染みがあるわけではないので、これが多いのか少ないのかいまいち分からない。

 おやすみなさい、と言って立ち去ろうとした珠江ちゃんに声をかけた。


「はい、何でしょう」

 

 呼び止めたのは訊きたいことがあるからだ。けれど、洋館に辿り着いてすぐに意識を失ったと言われて少し混乱している。本当に正しい現実はなんだ。


「――あっ」

 

 洋館に辿り着く前にいた廃屋。珠江ちゃんと初めて会ったのは洋館じゃなくて、千佳の帰りを待っているときだ。確か珠江ちゃんは携帯電話を使っていた。スマートフォンじゃなくて、ガラパゴス式の古いやつ。


「珠江ちゃん、ケイタイを持ってたと思うんだけど――」

「えとえと……結乃お姉様、確かに携帯電話は使っていましたけど……そ、それがどうかしましたか?」

「――電話かけたいところがあるから少し貸してくれないかなって」

 

 怜美さんと珠江ちゃんが亡者に食べられていたのは夢だと言われたけれど、あの悲惨な光景や吐き気を催すような臭いが本当に夢だと断言してもいいのか。

 考え始めると何を、誰を信じていいのか分からなくなる。珠江ちゃんだって本当に信じていいのか。ひとまず携帯電話を渡すのを断ったり、渋ったり、無くしたなんて言われたら珠江ちゃんも警戒しておこう。

 そんな意味も込めた質問だったが、珠江ちゃんはいいですよとあっさり答えた。右ポケットに手を突っ込んで廃屋で見たのと同じガラパゴス式の携帯電話を取り出した。


「はい、どうぞー」

 

 これまたあっさりと私に差し出す。私は戸惑いと疑ったことにちくりと胸を痛めながら受け取った。


「誰にかけるんですか?」

「――お母さん」

 

 119を押して警察にかけてみようかと思ったが、私に襲い掛かって来た警察亡者のこともあるのでやめておく。千佳もスマートフォンは比良坂橋に置いてきてしまった。仮に千佳がスマートフォンを持っていたとしても、いつもアプリで話しているので電話番号を覚えていないんだけど。 唯一覚えているのが自宅の固定電話だ。お母さんに相談しよう。現状を話してどうすればいいか教えてもらおう。

 けれど、電話をかけようとして手が止まった。


「珠江ちゃん、一つ訊いていい」

「なんです?」

「電話のアプリってどれ……」

 

 昔の映画やドラマ、ネットなんかでガラパゴス式携帯電話を見たことはあっても実際に操作をするのは初めてだ。電話のかけ方を教わりながら、最後に受話器が浮いているボタンを押した。


「出ない……」

 

 三コールを過ぎても誰も出ない。それから四コール、五コールと続いていく。六コール、七コールと鳴り響く。例え、手が離せない用事があっても、そろそろ電話に出てもいいはずだ。八コール、九コール。

 諦めて電話を切った。折り畳んで、珠江ちゃんに携帯電話を返す。

 お母さんが電話に出ない理由。

 たまたまお風呂に入っているときだった。たまたま早くに寝てしまっているときだった。

 そういった偶然で片づけるのは、いささか短絡的すぎる。 ――この世界が私の住んでいた世界とは違うから。

 亡者がいることや、空が赤黒く染まっていることを考えるとそっちの方がしっくりとくる。怜美さんが言っていた十年後の未来も実際のところはありえるのかもしれない。


「……うう、分かんない」

 

 それも短絡的な考えのような気がするし、何か見落としているような気もする。考察の材料が揃っているのに私がバカだから正しい結果に辿り着けていないようにも思えてしまう。


「結乃お姉様……ご気分悪いのですか……」

「うん……大丈夫」

「夜も遅いですし、今日はお部屋でゆっくりと休んでください」

「ねえ、珠江ちゃん。確認したいことがあるの。今って平成何年かな」

「ほえ? どういうことですか……?」

「ほら、その、意識なくしちゃって混乱してるの。だから、その、教えて欲しいの」

「えとえと……平成三十七年です」

「分かった。ありがと……」

 

 それではおやすみなさい、と珠江ちゃんは廊下の奥の方へと行ってしまった。部屋がそちらの方にあるのだろう。 立っていても仕方ないので、私もあてがわれた部屋へと入った。

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