第9話 亡者よりはましな見た目

「う、うーん……」


 目を覚ますと私は知らないベッドで寝ていた。四方を白いカーテンに覆われている。まだ夢うつつで自分の身体をぺたぺたと触った。ベッドで寝ているのにパジャマじゃなくて私服だ。靴下も履きっぱなしである。床には私の靴が置いてあった。


「どうして私、こんなところに……」


 ぼやけた意識のまま私は必至で最後に見た記憶を思い出そうとしていた。千佳と私の部屋で夏休みの宿題をしていて、カレーを食べて、それから千佳を見送るために自転車に乗って――。


「ふふふーんのふーん」


 カーテンの外から上機嫌な鼻歌が聞こえてきた。どことなく変な声をしている。古いラジオから発せられるようなノイズのような。


「ううん……」


 外にいるのは誰なのだろう。聞いたことのない声だ。私自身がどうしてこんなところにいるかも分からないのに、知らない人に話しかけるというのは不安だ。

 誘拐という言葉が頭をよぎったけれど、手首を拘束されたりもしていない。

 ひとまず、外にいる人物がどんな見てみよう。ベッドの上を四つん這いになって、そっとカーテンに隙間をつくった。


「やあ」

 

 目と鼻の先にウサギの被り物があった。くりくりとした目で私を見つめている。


「ひぃ!?」


 反射的にカーテンを閉めて、真っ白な布団をぎゅっと抱きしめた。

 ウサギの被り物をかぶった人物が勢いよくカーテンを開く。頭だけでなく手や足もピンク色を基調とした衣装で覆われていた。そのくせワイシャツの上に白衣を羽織っていてお医者さんみたいな恰好をしている。デフォルメされた姿は遊園地の非日常で見れば可愛らしいかもしれない。

 けれど、日常で見ると不気味でならない。


「そう、びびらないで欲しいなあ。ほらー、ウサギさんですよー」


 小さい子をあやすかのようにもこもことした両手を振っている。着ぐるみだから当然なんだけど、表情がいっさい変わらないので余計に薄気味悪い。


「あ、あなたは誰……?」

「んー、お医者さんだよ。ほらほら、白衣も着てるし」


 ウサギはデスクに戻って聴診器を手に取った。キャスター付きの椅子に座って床を蹴る。

 くるくると回りながら、またベッドの方まで戻ってくる。


「さあ、これで立派なお医者さんだ」

「わ、分かった。あなたがお医者さんってことは分かった」


 何も理解できていなかったけれど、本当に医者なのかと疑うと何をするのか分からない。


「ふむふむ。まずは名前の確認をしよう。きみは小坪結乃くんで間違いないね」

「何で私の名前を知ってるの?」


 このウサギとは初対面のはずだ。見たことのない着ぐるみに、聞いたこともない機械質な声。地声というわけでもなく、変声機を通しているようだ。


「そりゃあ、お医者さんだからだよー。問診票を見れば、きみの名前くらい分かるってものだよ」

「あー……そう、なんだ……?」


 問診票を書いた記憶も病室で寝ている記憶もないのだが、白いベッドに四方を囲うように設置されているカーテン。それからウサギの着ぐるみはともかく、白衣を見ると病院を思い浮かべる。


「とまあ、今はそういうことにしていて」

「て、嘘なの!?」

「おいおい、話すからね。おいおい。ちょっと待っててね」

「それなら私とあなたは初対面ってことでいいのよね」

「うん、そうそう」

「名前は?」

「うーん?」

「あなたの名前は何ていうの?」

「名前かあ。しょせん名前なんて記号でしかないからね。ウサギでもなんとでも読んでくれて構わないけど、そうだねえ、呼ぶ名前が欲しいって言うなら宇津田志乃兎と呼んで」


 ウサギ――宇津田さんはご丁寧に漢字まで教えてくれた。


「宇津田志乃兎……」


 その名前を反復する。

 苗字もどこかの地名のようで、下の名前も可愛らしくて今どきの名前だ。全てをくっつけると親の感性を疑いたくなる響きになってしまうけれど。


「よーし、次の質問にいこうかー。きみは今、どこにいるのか分かる?」

「病室……」

「そう、うん、病室、病室だ。おっけー、間違ってないよ。大正解だ。ほいっと、追加の質問。ここがどこの病室か分かるかい?」

「病院……」


 病室なのだから病院ではないのだろうか。


「ちがーう。不正解だよー」


 宇津田さんは大袈裟に手を上げた。


「洋館、だよ」

「洋館……」


 その言葉に頭痛がした。何か思い出せそうな気がする。


「洋館なんだけど、まあ正式名称としては正しくないね。ただ怜美くんから結乃くんがそう言っていたと話を聞いたからね。記憶を思い出させるのにはこっちの方でってことで」


 怜美……どこかで聞いた名前だ。それもかなり最近、聞いた気がする。彼女の風貌がぼんやりとだが頭の中に浮かんでくる。

 それから他に何か思い出そうとするけど、霧がかかったようにかすんではっきりと浮かんでこない。

 その様子を眺めていた宇津田さんは「ふーむ」と唸った。


「困ったなあ……どうにかならない?」


 そんなことを言われたって私だって一生懸命に思い出そうとしている。というか、医者だというなら患者に頼らないで助けてほしい。

 そうこうしていると、不意にドアがノックされた。


「あ、あのぅ…………」


 ドアの向こう側から声が聞こえる。

 声質から自信がなさそうでオドオドしている女の子の姿が思い浮かぶ。


「あれ、この声どこかで……」

 

 そうだ、私はこの声を聞いたことがある。それもつい最近のことで。

 どこで聞いたか思い出そうとすると頭が痛くなった。頭痛を和らげるために頭を押さえるけれど、痛みは治まらない。

 ――私は埃をかぶったボロボロの部屋にいる。長い間、手入れとは無縁の時間を過ごしてきた廃屋の中だ。

 私はそこで誰かを待っていた。誰か――千佳、辻堂千佳だ。幼馴染でいつも私を守ってくれていた女の子。少し男勝りな性格をした私の親友。

 千佳を待っていると、別の人物が廃屋にやって来たんだ。夏だというのに長袖長ズボンで金色の綺麗な髪をした女の子。私はそこで少し彼女と話した。どんな話をしたのか、彼女の名前がどんなものだったのか、そのことは忘れてしまったが、ともかく私はそこで話をした。

 それからもう一度だけ、私は彼女と出会った。

 どこで会ったか。そう、洋館。洋館で会ったんだ。

 場所はダイニング――いや、違う。キッチンだ。私はそこで彼女と再会した。


「うっ……」


 ああ、思い出してきた。

 私は彼女と再会したわけではない。

 無残にも腹部を歯と指で引きちぎられ、食されている彼女の亡骸を見たのだ。天井を仰ぎ見る瞳は恐怖の色で固まっており、口元からは汚らしく涎が垂れていた。

 人間の体はびっくりするくらい頑丈に作られているようで、細い息を吐きながらも彼女は私に助けを求めた。

 それなのに私は逃げた。助けを求める彼女の声に耳をふさいだ。

 仮に私があそこで亡者を撃退したところで、彼女の傷ではもう助からなかっただろう。お腹を喰い破られて内臓や肉片を一面に撒き散らしていた。生きているのはおろか、声を出せたのが不思議なほどだった。 それから、そうだ。死んだ彼女は亡者となって雫喜に襲い掛かっていた。

 

 ――彼女が生きているはずがない。


「せんせーい?」

 

 部屋から返事がなかったせいか、ドアの外にいる女の子は不安そうにもう一度部屋の中へと呼びかけた。

 先生というのは宇津田さんのことだろうか。


「何か思い出したかな?」


 宇津田さんは小さな声で私に尋ねた。機械質な声はどこか楽しそうで、私は気味が悪くなった。


「思い出しました……」

 

 私は比良坂橋の怪談話として伝わっている儀式を行った。別の世界に連れていかれるなんていう馬鹿げた話だ。けれど、実際に知らない場所に来てしまって、人を喰い殺す亡者たちがいた。

 私は千佳を探しに洋館に入って、亡者から逃げ惑って、それでどこかの部屋に辿りついて倒れた。

 そう話すと、宇津田さんは嬉しそうに頷いた。


「で、でも、そうすると変なんです……」

「何がだい?」

「今、外にいる子は……食べられていたんです」 見間違いでも、記憶違いでもない。

「せんせい……?」

「ああ、聞こえているよー。凄く良く聞こえているから、僕の言うこともよく聞いて欲しい。少し待っていてくれないかい、珠江ちゃん」


 珠江。私が会った女の子と同じ名前だ。

 分かりました、とドアの向こうからか弱い返事が戻ってきた。

 あのね、と一言置いて宇津田さんは私に向き直った。


「きみはきみの見ているものだけを信じなさい。例えばだね、この兎の着ぐるみ、君は何色に見えるかな」

「ピンク色……ですよね」


 誰がどう見てもピンク色だ。人によっては桃色とも言いそうだが、この二つの言葉に違いはほとんどない。そんな当たり前のことを訊いてくるものだから、答えに自信が持てなくて語尾も小さくなる。


「そうそう、ピンク色だ。だいせいかーい。でもね、このピンク色というのも人によっては違うものに見えている……かもしれない。かもしれないというのは、僕は他の人間の見ている景色を知らないから断定は出来ないということなんだよね」

「ええっと……どういうことですか?」

「つまりはだね、きみが見ているピンク色を僕は青色だと思っているかもしれない。青色は分かるよね。海の色とか水の色……あとは空の色だ」

「空の色……」


 空の色は青色。時間帯によって空は色を変えるが、空は青色ということを頑なに否定する人はいないだろう。

 けど、この世界の空は終始、赤と黒の絵の具を乱暴に混ぜ合わせた血のような色だ。決して、私の知っている青色なんかじゃない。


「僕もこの兎の着ぐるみの色はピンク色だと思うし、きみもピンク色だと思った。でも、僕が思っているピンク色というのが君にとっての青色かもしれない。僕が見ている世界ときみが見ている世界は違うかもしれないってこと」


 一呼吸おいて、宇津田さんは続ける。


「色だけじゃない。そこにある形あるもの、それすらも他人と同じものだという証拠はない。きみはこの着ぐるみをウサギと言ったけれど、他の人から言うとゾウかもしれない。そこにある机だって他人とは違う見え方をしているかもしれない」

「そ、そんなわけあるはずないじゃないですか……」


 私は空の色を思い浮かべながらも反論した。


「まあまあ、ここまで言ってなんだけれど、僕もそこまでは思わないよ。でも、やっぱり感じ方というのは人それぞれ違っているもんさ」


得意げに宇津田さんは鼻を鳴らした。


「詰まるところ、僕が感じている世界はきみとは違うし、僕が見ている世界ときみが見ている世界は違う。きみが見ている世界を信じると良い。きみが珠江ちゃんを食べられるところを見たというのなら、それがきみにとっての現実ってこと」


 そこまで言うと宇津田さんは一息ついて、ドアの方に体を向けた。


「ああ、珠江ちゃん。お待たせ、お待たせ。もう入ってきてもいいよ」


  宇津田さんは再び私へと向き直る。

 その着ぐるみの下ではどんな表情をしているのだろう。ただ今まで話した中で一番楽しそうな声がその仮面の下から聞こえてきた。


「これもまた現実だよ」


 ドアを開けた先にいたのは、廃屋で会って、洋館のキッチンで亡者に生きたまま食べられ、私に助けを求めて死んだ女の子――足摺珠江だった。

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