第8話 悪夢を見させて
――突如、ホールに続く扉が乱暴に叩かれた。
けたたましい暴力的な音が貴賓室に響く。キッチンにいた亡者がやって来てしまったのだろうか。それにしては音の数が多い。一人ではなく、二人以上はいる。
新聞に書いてあった「ゾンビに食べられた人間もゾンビになる」ということを思い出す。ということは、一人は緑色のワイシャツの子供で、もう一人は珠江ちゃんということに。
今はそれを確認していられる余裕なんてない。
ホールとは反対方向のドアへと駆け寄る。
「――開かないッ!」
鍵がかかっている。引いても、押しても、叩いても、ぶつかってみても、ぴくりとも動かない。
「ねえ、あいつらが入ってきちゃう!」
「知っています」
亡者が部屋に入って来ようとしているのに雫喜は落ち着き払って答える。
「そこに箱があるでしょう」
視線の先――暖炉の上に小さなアンティーク風の小物入れが置いてあった。最初からここにあったような、なかったような。この部屋に入ってから雫喜に目を奪われていてどちらか定かでない。
「鍵が入っているのではないのでしょうか」
「それならあなたが開ければいいじゃない」
「私には難しすぎて開けられません」
何か難解な仕掛けが施されているのだろうか。貴賓室には他にめぼしいものが見当たらないので、ひとまず雫喜の言う通りアンティーク風の小物入れを手に取ってみた。
紙が挟まっていたようで、カーペットの上に落ちた。
拾い上げると、そこには問題が書かれていた。
『家は1。鵺は14。笛は6。池は11。さて、岩は何でしょうか?』
今はこんなものに構っている暇はない。
だけど、小物入れを開けようとして気付いた。二桁のダイヤルロック式の錠前がついてある。引っ張ってみるけど、当然ながら外れない。正しい数字を当てはめないといけない。
これは誰が仕掛けたんだ。鍵をかけるのは良い。だけど、数字は覚えていればいいだけじゃないか。わざわざ、なぞなぞめいたものを挟んでおく意味が分からない。まるでこのような状況を想定していたかのような。
ハッとして雫喜を見る。
手段は分からないが彼女は亡者と繋がっているのだろうか。亡者が部屋に押し入ろうとしているのに慌てる素振りさえもしていない。
「籠の中の小鳥のように怯えないで下さい。わたくしは結乃さんの味方ですよ」
「……なんか信じられない」
「あらあら嫌われてしまいましたか……」
敵とまでは言わないけれど、仲間として信じられるかというと難しい。先ほどからの言動でやっぱりそう思ってしまう。
とはいえ、今は小物入れを開けることに集中しよう。雫喜のことは安全なところでゆっくりと考えればいい。 ぬえ 問題は岩が数字で何であるかを問いていた。ヒントはその前に書かれている家が1で鵺が14、笛は6。池は11ということ。
……ダメだ。まったく答えが分からない。こんなことならもっと数学の勉強をしておくべきだった。千佳ならすぐにでも正しい数字をセットして開けられていただろうに。
じっと問題が書かれた紙を見つめたところで答えが浮かび上がったりはしない。
――不意に人の気配を感じた。
「ひっ!」
振り返ると、雫喜は私のすぐ近くまで迫っていた。息が私の髪を、肌を撫でる。彼女は自分の唇を私に近づけた。
喰べられてしまうと思わず目をつぶってしまう。
「この世界は未来ではありません」
「……え、それってどういう……」
私の言葉を雫喜は抑揚のない声で答えた。
「黙って聞いてくださいまし」
半ば威圧するような声に私は目で了承の意を伝えるしか出来なかった。
「あれくらいの新聞紙一枚なら偽装することも容易い。亡者が溢れるという記事を自身で書き、年月を未来で書いておけばいい。簡単なことです。それでも騙される人は騙されてしまいます。貴方のように。しょせんは情報。操作は容易です。貴方が見ている物が現実なのです。貴方が信じている物が現実。それ以外は偽りの世界に過ぎません」
ヒントは与えました。頑張って解いてください、と言い切ると、雫喜はふっと笑って距離を置いた。満足したかのように雫喜はソファーに座り込んだ。
「ヒント……」
私が必死に解こうとしている問題のヒントというわけでもないだろう。漢字と数字の因果関係にまったく結びつかない。
とりあず、問題を解くのに戻ろう。雫喜に訊くのはその後でも構わない。そうしなければ、この世界のことについて何も分からず、亡者に喰われてしまうだけだ。
「頑張ろう……」
ダイヤル式の錠前は二桁しかない。問題の答えも二桁の数字になるはずだ。
それを解くためには漢字から数字へ変換する法則を見つけなければならない。家と鵺、笛と池、そして岩。どれも共通点は見つからない。強いて言えば、「い」で始まる言葉が多いことと、漢字一つであることだろうか。それが解を求めるための法則とは思えない。
亡者がドアを壊してでも入ってこようと激しく叩いている。ドンドンと鳴り響く不気味な音は私の冷静さを奪っていく。
「ね、ねえ、雫喜は分からなかったの!?」
私が助けを求めると、雫喜は呆れたようにため息を吐いた。
「二桁目は2ですわ」
「一桁目は?」
「さあ。わたくしには分かりません」
とぼけたように雫喜は答えた。自分は関係ないと言わんばかりの態度だ。あの様子ではどうして二桁目が2なのかということは教えてくれなさそうだ。
とりあえず、ダイヤル錠の一番目を2に合わせる。
「分かんないよう……」
焦りと自分の無能感に泣きそうになる。もっとちゃんと数学を勉強しておけば良かった。
色々と考えるけれど、答えを導くような規則性が見つからない。
あと一桁だけ分かればいいのに、それすらも分からないなんて。
「ん……? あと一桁?」
ダイヤル錠の一階層には0から9までの数字しかない。雫喜の言葉を信じるのなら、二桁目は2で正しいはず。
「そうだ、そうだよ!」
求めるのが一桁の数字だけなら、問題は解く必要なんてない。0から9までの数字を全て試していくだけで済む。間違えた時のペナルティもないのはさっきから適当に試していたので知っている。
急いで0から順番に試していった。
0は開かず、1も開かない。次の2の数字に合わせてダイヤル式の錠前を引っ張る。それまで強固にくっついていた錠前が拍子抜けするほど簡単に外れた。
「や、やった!」
錠前を投げ捨て、急いで小物入れの蓋を開いた。中にはアンティーク風の鍵が入っている。手に取って、扉へと走った。
――同時に亡者たちが扉をこじ開けて、ホールからなだれ込んできた。
亡者二人が呻き声と共になだれ込む。キッチンで珠江ちゃんを喰らっていた緑色のワイシャツの子供と――その珠江ちゃん自身。
「ほ、ほら、雫喜も逃げないと!」
逃げながらも、私は雫喜に向かって叫んだ。訊きたいことがたくさんあるということもそうだけれど、それ以上に目の前で誰かが死ぬのが嫌だ。
それなのに、
「あはは、うふふ。これはこれは……」
彼女は笑っていた。
亡者をただじっと眺めながら、まるで待ちわびていたかのように。その姿は狂っているようで淫靡なようで――どこか壊れていた。
「雫喜さん……?」
「いいですよ、結乃さん。ああ、まるで古い鏡を見ているようですわ。人は人を呪わざるを得ないのでしょうか。世界の本質は悪意で満ちているのでしょうか」
「な、何言っているか分からないよ! 早くこっちに来ないと!」
私がそう言った時にはもう遅かった。亡者たちは自分たちの仲間へと招くかのように雫喜の肩へと手を伸ばしていた。
亡者の口が肉を喰らおうと雫喜へと襲いかかる。
彼女の体はいとも簡単に亡者たちに押し倒された。
その刹那。雫喜は私を見て笑っていた。その笑みは馬鹿にするわけでもなく、悲しむためでもなく、狂っているわけでもない。彼女の笑みはただただ哀れみが含まれていた。
そして、一言。
まるで同情するかのように呟いた。
「可哀想……」
二人の亡者は雫喜を押し倒した。もつれるようにして亡者と雫喜はカーペットに倒れ込む。反対側のドア近くまで逃げていた私にはソファーが陰になってどんな風に喰い殺されているのかは見えなかった。
けれど、肉と皮を引き千切り、骨を噛み砕き、赤い血に塗れた臓物を咀嚼する音は耳に届く。キッチンで生きたまま食べられていた珠江ちゃんのように雫喜もお腹を食い破られて、ピンク色のてかてかした腸でカーペットを汚しているのだろう。
「はは……ははは……」
亡者に喰い殺された珠江ちゃんが雫喜さんを喰い殺す。
――ご、ごめんなさい、珠江のお腹の中のものがなくなっちゃったから分けて欲しいのです。むしゃりむしゃり。
――どうぞどうぞお食べくださいまし。先ほどチョコレートを食べましたので、きっとわたくしの腸は甘くて美味しいですわ。
――わあ、本当です。美味しい。パフェの上に乗せたらもっともっと美味しそう。むしゃりむしゃり。
――あらあら。全部食べてよいと言ってませんのに。わたくしの内臓がなくなってしまいましたわ。結乃さん、少しお裾分けしてもらえませんか。
「はは……痛いのはやだなあ……」
これは夢だ。
少し長い悪夢なんだ。
そのうち、けたたましくアラーム音がこの部屋に鳴り響くのだろう。この世界に不釣り合いな音に私はおろか亡者さえも辺りを見渡す。世界の風景が溶けて行き、目を覚ますと若干の苛立ちを覚えながら目覚ましを止める。
それから台所へ行く。お母さんの作った朝ご飯を口に運びながら、政治とか芸能界やらのニュースを見てだんだんと頭を覚醒させていく。顔を洗って、歯を磨いて、忘れ物がないか鞄の中を確認して。
それから……それから、二丁目のセブンイレブン前で千佳を待つんだ。千佳はいつも遅れてくる。鞄を肩に背負って、シャツをだらしなく出しながら私の方へと走ってくるんだ。
「そうだ……千佳……」
千佳はまだ死んでいない。
そうだ、まずは千佳に会おう。
千佳に会えば、この状況を打開してくれるはずだ。
やっぱり、役立たずの私一人ではどうすることも出来なかったんだ。不相応な行動を自分の身を滅ぼす。大人しく誰かの陰に隠れていれば良かったんだ。
「千佳……」
私はほぼ無意識に小物入れから手に入れたアンティーク風の鍵を鍵穴に差し込んだ。
その行動は亡者から逃れるための生存本能だったかもしれないし、つい先ほどまで行おうとしていたことをただ実行した機械的なものだったのかもしれない。
「ォ痲5^dト。yココ撥mッ&呶李tx?あ」
ドアの先にいたのはストライブ模様の黒いスーツを着た亡者だった。中折れ帽を深く被っているせいで目元がよく見えなかったけど、鼻から下は今まで会った亡者のように焼け焦げたように皮膚が爛れていた。
「ォ痲5^dト。yココ撥mッ&呶李tx?あ」
スーツの亡者は眼前の私を食べようとはせずに、ただただ手、を、叩、い、て、い、た、。
一定のリズムで両手を合わせて音を鳴らしている。
「ォ痲5^dト。yココ撥mッ&呶李tx?あ」
再び同じようなことを口を蠢かせて発する。
ぱち、ぱち、スーツの亡者は手と手を合わせて音を立てる。
――拍手だ。
この亡者は私を食べることなく祝ってくれている。
……ああ、もう意味が分からない。
ふっと意識が遠のいていくのを感じた。どことなく眠りに入る前のようで気持ちいい。
このまま身も心も任せよう。嫌なものは見なければいい。
身体がふんわりと軽くなるのを感じた。体重がなくなったみたいだ。
ぼんやりとした視界は完全に黒く染まり、意識も暗い海の底へと沈んでいった。
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