第6話 嘔吐と涙とそれから
先ほどの出来事を忘れるように、ただただ足を動かすことだけを考えた。
どれくらい夜道を走ったかは覚えていない。
気が付くと、私は洋館の前へと辿りついていた。
「うッ――」
足を止めると吐き気に襲われた。
目玉を掻きまわされれた亡者の姿がフラッシュバックする。眼窩の奥にすっぽりとおさまったマイナスドライバー。豆腐を箸でぐちゃぐちゃにかき回すかのような感触。
こみあげてくる吐き気を抑えきれずに、近くにあった茂みに顔を向けた。
「う、うええええええええ……」
びしゃびしゃと吐瀉物が口の中から地面へと零れ落ちた。
こちらの世界に来てからはあまり食べていなかったので、すぐに胃の中の物は出し切ってしまう。吐き出すものがなくなり、胃液が溢れ出た。
「落ち……着こう……」
額には玉のような汗が流れ落ちているし、口の中には吐瀉物の不快な味と胃液の酸っぱさが残っている。
少し休んでから洋館に入ろう。 玄関の前だと目立ちすぎるので、洋館の角の壁に体を預けていた。
二、三十分ほどすると呼吸も整ってきて、吐き気もおさまった
洋館には窓がついており、そのうちのいくつからかは明かり漏れていた。そこから人の姿は見えない。入り口は正面に大きな木製の扉がある。
洋館を一周すれば、裏口や別の入り口も見つかるかもしれない。
窓を壊して、そこから入るという手だってある。
けれど、私は正面玄関に戻った。
頭に血が上っていたのが落ち着いてきたようで、洋館を一周するのが怖くなってしまったからだ。
ドアノブに手をかけて、ぐっと回す。木製の扉がきしむような音を立てて開いた。
まず目に飛び込んできたのは大きな階段だ。
五人くらいは同時に登れそうなほど横幅が広く、値段の高そうな赤いカーペットが敷いてある。床はコンクリートで作られていて、歩く度にカツカツと心地の良い音がホールに響いた。
私が歩くのをやめると、静寂がホールを包む。
どこから調べていくか。
相談する相手もいないので、自分で決めるしかない。
二階に上がっている最中に一階から亡者が押しかけてきたら逃げ場がない。まずは一階の探索をしてから二階に上がったほうが良いかもしれない。
一階には右側と左側に扉がある。これは左側を選んだ。大きな理由があるわけではないが、右側の扉は赤色で血のように見えたからだ。
ドアノブに手を掛ける。
この先に亡者がいるかもしれないので音は立てないようにしないければ。初めに会った亡者。あれは千佳が玄関の戸を叩いた音に反応していた。それを利用することも出来るだろうけど、今はそんな余裕がない。
ドアノブを下げて、音の立たないようにゆっくりと扉を押す。扉はあっさりと開いた。
僅かに開いた隙間から覗きこむように中を見る。 見える範囲では亡者はいない。
扉を開き切り、改めて部屋の全体を見渡す。
この部屋はダイニングのようだ。中央に白いテーブルクロスがかけられた細長いテーブルがある。他には私の身長くらいの高さがある時計が針の音を鳴らしているくらいだ。
「うん……?」
なんとなく違和感を覚えた。
その正体を確かめるべく、テーブルに近づく。そこにかけられたテーブルクロス。違和感を覚えたのはコレだ。
真っ白で新品のようだ。折り目だってクリーニングに出したかのように綺麗につけられている。
テーブルクロスの上を指の腹ですーっと滑らせた。
「やっぱり……」
埃が全くない。
つまり、誰かが手入れをしているということだ。
思い返してみれば、玄関ホールだって綺麗に片付いていた。争った形跡だとか、血の跡とかあったって不自然じゃない。それなのにゴミ一つ落ちていなかった。
「今は千佳を見つけることだけを考えよう……」
そのためには洋館を探し回らないといけない。先に進むためにダイニングの奥にある扉へ近づく。
――物音が聞こえた。
足を止めて耳を澄ませる。時計の針が規則正しく鳴り響く中に別の音が混じっている。
くちゃりくちゃりと何かを食べる音。口を開けて咀嚼したときのような汚らしい音。私がたった今、開けようとしていた扉の先から聞こえてくる。
「吸って……吐いて……はあ……ふう……落ち着け、私」
ダイニングはここだというのに、この先の部屋で何を食べているというのだろうか。ああ、きっと作った料理が美味しそうでつまみ食いをしているんだ。そんなありもしない楽観的な考えをしたのは、最悪な事態を考えたくなかったから。そうでも考えないと怖くて進めなかった。
震えていた右手を左手で押さえつけて、グッとドアノブを回した。
鈍い音を立てながら扉が開く。
「うっ……何この臭い……」
扉を開けた瞬間に、魚が腐ったような臭いが私の鼻孔を撫でた。途端に吐き気が込みあげてきたが、息を止めてグッとこらえた。
ここはキッチンのようだ。
壁側にシンク台とコンロ。真ん中にはステンレス製の作業台が置かれている。
私が部屋に入ってきてからもピシャピシャと何かを咀嚼するような音は続いていた。作業台の反対側のようで私からは死角になっている。
「だ、誰かいるの……? ひょっとして千佳……?」
音のする方向に語りかけてみるが返事はない。咀嚼音は変わらず一定のペースで続いている。
自分から動いて、見に行かなければならないようだ。
でも、見てしまえば、全てが変わってしまうような感覚がある。こんな狂った世界だけど、私は今でも元の世界に戻られるという希望を抱いている。
その希望が見てしまうことで砕かれてしまう、そんな気がするのだ。
「それでも……」
いつでも逃げられるようにダイニングへの扉は開けたままにしておく。
足音を立てないようにして、音の正体へと近づいて行く。
ゆっくりと。ゆっくりと。近づく。
そして、作業台の端までやって来た。 意を決して音がする場所を覗き込む。
「――――――ああ」
子供が背中を向けて蹲っていた。緑色のワイシャツを着ていて、入ってきた私に気付かないほど夢中に顔を動かしている。
何かを食べているようだ。
お菓子でも落としてしまったのだろうか。
いや、馬鹿か私は。
何かなんてはっきりと分かることじゃないか。
――足が見える。
子供が食べている物の足だ。
――横顔が見える。
子供が食べている物の顔だ。
――子供の亡者は人間を食べていた。
飢えた獣のように一心不乱に齧り付いている。
「あああっぅああぁ……」
声が震える。
恐ろしくて悲鳴すらあげられない。
どこかで亡者が人を襲わないかもしれないと考えていたのかもしれない。最初に会った亡者や警察の亡者だって千佳や私を襲おうとしたわけではなく、ただ話しかけようとしただけだって。
だって信じられるはずがない。
人間の形をした物が人間を襲うなんて。
でも、見てしまったら。
この目で確かめてしまったらもう認めざるを得ない。
――ここはそういった世界なんだと。
「喰x唖ェち6溘∋齧≒s……」
やっと私に気付いたのか、亡者が薄気味の悪い声をあげながら振り返った。
少し遅れて喰われていた女の子の顔がこちらに傾く。
生きたまま食べられたせいか、恐怖で目を大きく開き切っている。ぽかんと開いた口の端からは血が垂れ落ちていた。
「こ、この子――」
廃屋で会ったあの子だ。
金色の髪が特徴的だったから、よく覚えている。ガラパゴス式の携帯で誰かと話していた小さな女の子。
名前は珠江ちゃんと言っていた。
「ああ……」
もしこの死体が会ったことのない人だったら、ここまでショックは大きくなかったかもしれない。
けど、私は生きていた珠江ちゃんを知っているのだ。子動物のような自信なさそうな所作も、琴のように綺麗に澄んだ声も。
その子が死んでいる。殺されている。食べられている。
「タ……」
何か聞こえた。
いや、聞こえない。
絶対に聞こえない。
死体は喋られないんだ。
だって、珠江ちゃんのお腹は食い破られている。皮を裂かれ、肉を千切られ、臓物を散乱させられている。彼女のものと思われる肉片はゴミ箱をひっくり返したかのように乱雑しているし、赤黒い液体が海のように広がっている。
「タ…………ス……」
喋る死体は生きているってことじゃないか。それは変だ。死体は生きているはずがない。
死んでいるからこそ死体なんだ。死体は喋らない。喋らない死体は死体。死体は死体。
「や、やだやだやだやだやだ……」
私は何を考えているんだ。
脳を箸で掻き雑ぜられたかのように思考がグシャグシャになっている。
何も考えられないし、何も考えたくない。
タスケテ、と珠江ちゃんから聞こえた瞬間、私はみっともなく悲鳴をあげながらダイニングへと戻ってすぐに扉を閉めた。
「ひっ――――!」
扉の奥で呻き声と共に足音が近づいてくるのが聞こえる。
奴は扉を開けようとしてくるだろう。
扉を開けられたらどうなるか。
キッチンの隅で食べられていた珠江ちゃんのように、生きたまま腹を食い千切られ、臓物を美味しそうに咀嚼されるのだ。私は極限の痛みを味わいながら、虚ろな眼でただただその亡者と自身の腹から引きずり出される臓物を見つめる。絶命出来るその時まで。
鮮明に描いてしまったそのイメージを強引に取っ払った。
私は絶対にあんな風にならない。
あんな死に方なんて絶対に嫌だ。
「や、やだ――――――」
亡者がドアを乱暴に叩く。ドアノブを回して開ける知能がないのは幸いだが、いつドアを壊して入ってくるか分からない。
鍵をかけるようなサムターンキーはない。鍵穴はあるが、肝心の鍵自体がダイニングに見当たらない。
鍵を探している暇なんかない。テーブルの椅子を持ってきて扉の前に立てかけた。三つほど同じように置くと、心なしか亡者が扉を叩く音が弱くなった。
「と、とりあえず、ここから移動しよう……」
亡者がいるキッチンには行けないから、ホールに戻ることにした。二階か逆側の扉から探索しよう。
「……うう」
キッチンで生きたまま喰い殺されていた珠江ちゃんの姿を思い出す。臓物を搔き乱され、床や壁を血がねっとりと赤く染めあげていた。大きく見開かれた虚ろな目で私に助けを求めていた。
「ごめんなさい……」
それを私は逃げてしまった。
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