第5話 もう戻れない
千佳が帰ってきたら、珠江ちゃんのことを話してみよう。彼女の携帯電話が通じていたことも、千佳なら何か分かるかもしれない。
そう思って、待ち続けた。
「やっぱり遅い……」
廃屋内には時間を計れるものがない。床に転がっている壊れた時計はずっと三時十三分を示したままだ。スマートフォンもなければ、腕時計も身に着けていないので、正確な時間は分からない。
外を見ると太陽は落ちて、赤い月が夜空に浮かんでいる。
千佳は日が沈む前には必ず廃屋に戻ってきていた。それなのに日が落ちてから数時間が経っても帰ってくる気配がない。
「探しに行った方がいいのかな……」
千佳は廃屋で待っていろ、と言っていた。けれど、その千佳に何かあったのかもしれない。怪我や亡者に襲われて身動きが取れないだとか。
「――行こう」
胸騒ぎがしてならない。
千佳は廃屋を出て真っ直ぐ行ったところにある洋館に向かったと言っていた。一先ずはその方向へと歩いていこう。
廃屋にあった工具箱の中からマイナスドライバーを取り出した。何か武器になりそうな物がないかと、探し回っている時に見つけたものだ。迷ったが、そのままマイナスドライバーを持って行くことにした。長さは赤いグリップも含めて三十センチほどの大きなものだ。武器になるかは不明だけど、握っているだけで僅かながら安心を与えてくれた。
震える足を叩いて気合を入れる。
ドアを開いて、私は廃屋から亡者の蔓延る世界へと足を踏み出した。
◇ ◇ ◇
――誰かに見られている。
その視線を感じたのは廃屋を出てすぐだった。最初は気のせいかなと思っていたけど、見られている感じはずっとついてきていた。
亡者にあとをつけられているのだろうか。亡者の知能は高くないと千佳は言っていた。
ほとんど本能に近い動きをしているとも。
千佳の言うことが正しいのなら、視線の正体は亡者ではない。
今のところ何も危害を加えてこないので、気のせいだと思い込むことにした。実際、私が今の状況を怖がっているせいで勘違いしているかもしれないし、怯えるだけ無駄だ。
しばらく歩いていると道路に出た。
どちらに行くべきか迷ったが、周囲を見渡してみると遠くの丘に明かりが見えた。じっと見つめていると、それが建物の中から発せられる光だということが分かった。ぼんやりとだけど、建物の外観が浮かび上がってくる。千佳の言っていた洋館で間違いないだろう。
「よし……」
小さく呟いて一歩踏み出す。
――闇の中から虫が蠢くような気味の悪い声が聞こえた。
思わず小さく悲鳴を漏らす。
マイナスドライバーを握る手が強くなった。
「だっ、だれかいるの……?」
声帯を押しつぶされたような蠢く声が聞こえたのなら、身を隠すなりしておくべきだったのに、私は道路の先の曲がり角に向かって呼びかけてしまっていた。
ぬちゃりぬちゃりとゾッとするような薄気味悪い音を立てながら、曲がり角から亡者が姿を現した。
亡者となる前は警察だったのか旭日章の制帽を被っている。
洋館は警察亡者の背後、その奥だ。
車道は二車線。警察亡者の横を走ってすり抜けるには十分な幅がある。警察亡者も曲がり角から現れたきり動こうとしないし、難しいことでもない。
問題は私にその勇気があるのか。このまま森の中に戻って、警察亡者を撒いてから洋館に向かう方が一番危険は少ない。
時間はかかるがたった一つしかない命だ。安全策を取ろう。
森の中に戻ろうと動こうとしたときだった。
「――ど膆%诣膗ァ膗縺ゥ縺」
人ならざる呻き声に振り返ると、警察亡者が私へと向かってきていた。二歩目。三歩目。
緩慢な動きで、ゆっくりと私に近づいてくる。
「い、いや……」
恐怖が体の底から湧き上がってくる。ガタガタと歯は音を立てて、脂汗が額ににじみ出る。走って逃げださないといけないのに膝が震えて動けない。
亡者は私のすぐ目の前までやって来た。
食べられてしまう。生きたまま肉を喰われてしまう。きっと痛い。私が経験したことのない激痛だ。そりゃそうだ。生きたまま食べられるんだ。それも少しずつ。痛みは一瞬では終わらない。腕がなくなっても足がなくなってもすぐに死ぬことはない。痛みはその間ずっと続く。ぶちぶちと肉が切り裂かれていく感触と激痛を死ねるまで味わう。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
ポン、と亡者が私の肩を叩いた。
「いやあああああああ!」
反射的に腕を振った。これまで動かなかった体が拍子抜けするくらいあっさりと動いてくれた。
私の利き手は右だ。マイナスドライバーも自然と右手で握っていた。反射的に動いた手も利き腕である方の右手――マイナスドライバーを握っている方だった。
ずぶり、と柔らかいものを貫く感触が手に伝わった。
マイナスドライバーの先端を確認する。
先端は見えなかった。
警察亡者の眼窩へと入り込んでしまっていたから。
「ひ、ひぃ!」
悲鳴をあげて、警察亡者から距離を取ろうとマイナスドライバーを引き抜いた。
ちゅぽっ、と水っぽい音がした。
痛覚はあるのか、警察亡者は呻き声をあげながら地面へ倒れこんだ。もがき苦しむ姿に、私は罪悪感を抱いた。
――私はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。
――私は取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。
もがき苦しんでいた警察亡者は地面に伏したままぴくりとも動かなくなっていた。
罪悪感は恐怖に変わる。幾重もの恐怖が脳を包み込む。私は逃げ出すように洋館の光へと向かって脇目も振らずに走り出した。
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