第3話 亡者は怖い。でも、もっと怖いのは
どれだけ目をつぶっていたのだろう。千佳が肩を揺らしてきたので、眠りから覚めるように、そっと瞼をあける。
瞳に映った光景は千佳の顔と一面を覆う霧。腕を伸ばすと、手の先が見えなくなった。
なんだか腕がなくなってしまいそうで、慌てて引っ込めた。
「あー……とりあえず、戻ろうか」
「そ、そうだね……」
私達は自転車を置いた方――つまり、私が歩いてきた方向へと戻り始めた。
霧で何も見えないので、視線を足元に向けて歩いていく。
「ち、千佳……そこにいる?」
足元の橋板の模様とは別に、千佳の脚と靴は視界の隅にずっと入っている。それなのに彼女の上半身――体と顔が別のナニかと入れ替わっているんじゃないかと、急に恐ろしくなった。怖くて涙が零れそうだ。
「いるぜ。俺がお前を置いてどこかに行ったりしないさ」
聞きなれた友達の声に私は勇気づけられる。
私は視線を再び足元へと戻した。
どれほど歩けど、地面に辿り着かない。無限に続く橋板をそれでも進んでいく。
ふと気付くと、川辺に白い花が咲き乱れていた。あれは百合だ。白い百合が川辺に咲いている。見たことがあるはずの花なのに、いつもよりも綺麗で美しく、そして歪に見えた。
「あれ…色が黒……?」
先ほど見た時は確かに白色の百合だったはずなのに、いつの間にか花弁の色は白から黒へと変わっている。
私が見間違えたのだろうか。今の百合の色は間違いなく黒色だ。じっと見つめていると濃い霧が覆い隠して見えなくなってしまった。 やがて、木目から砂へと変わり、じゃりっと靴が音を立てた。顔を上げると、辺り一面を覆っていた霧は晴れていた。橋を渡り終えたのだ。
「あれ……どこ、ここ……」
振り返ると、橋があった場所には鳥居がたっていた。伏見稲荷大社のように先が見えないほど連なっている。じっと見ていると何かに引き込まれそうで視線を背けた。
「ていうか、自転車もない!」
高校入学祝いでお母さんに買ってもらった新品なのに。それどころか、スマホと財布をいれたカバンも見当たらない。
「千佳……ここどこか分かる……?」
「分かるわけねえだろ。スマホがあれば、地図アプリ開けばいいんだけどな。とりあえず、ここにいても仕方ねえ。この坂道、降りてみるか」
千佳が指さす方向には緩やかなカーブが続いている。左手と背後は木と草が生い茂っているし、右手は不気味な鳥居群。進むとしたら、この坂道しかない。
「そうだね……」
ため息をつきながら、私達は歩き始めた。
千佳も私もあえて口に出して言わなかった。
それを言ってしまうと認めてしまうことになってしまいそうだった。比良坂橋の違う世界に行ってしまうという怪談話が本当だったってことを。
月明かりと暗闇に慣れた夜目を頼りに坂道を降りていく。しばらくすると、砂利道が舗装された道に変わり、ほどなく道路へと出た。少ないけど街灯もある。
「ね、ねえ……千佳。空の色が……」
――空が赤黒い。絵の具の赤と黒を乱暴にぶちまけたような色が空を覆いつくしていた。
坂道を降り始めた時には、間違いなく普通の夜空だった。
「……気持ち悪い色だな」
「ね、ねえ、どうしよう」
「慌てんな。どうであれ、今すべきことは人に会って、電話貸してもらって真由美さんに連絡することだ」
「でも、私たち以外に人なんているの……?」
「あれ見てみろ」
千佳の指さす先には道路の案内標識が立っていた。見慣れた青色の板に矢印が書いてある。矢印は真っ直ぐ伸びていてその先には『多賀町』と書いてあった。
「それからあそこを見てみろ」
暗闇の中に明かりが固まって見える。
「あれは人工の光だ。標識から考えるに『多賀町』ってとこだ。人がいるってことだろ」
「良かった……助かった……」
「最悪、野宿して朝になるのを待たないといけないかと思ってたぜ。さあ、さっさと向かおう。そんなに遠くはなさそうだ」
三十分ほど歩くと多賀町らしきところについた。木造の一軒家がぽつぽつと建っている。町というより集落だ。窓から明かりが漏れている家もあれば、真っ暗になっている家もある。儀式を始めたのが二十時半だから、今は遅くても二十二時くらいだろうか。眠っている人がいてもおかしくない。
「とりあえず、家のベルでも鳴らしてみるか」
千佳は一番近くにあった明かりのついた民家に近づいた。敷地に踏み込むと、砂利の音が私たちを拒むかのように響いた。
「呼び鈴がないな……」
千佳は玄関の戸をドンドンと二回叩いた。周りが静かだったせいか、意外と大きな音がしてビクッと体が震えた。
「返事がねえ……」
「留守……なのかな?」
「んなわけねえだろ。明かりもついてるし、この時間に出歩く田舎野郎はいねえよ」
「遊びに行っているのかも……」
「馬鹿言え。コンビニすら見つかんねえのに夜の遊び場なんかあるかよ」
千佳が拳を握りしめて、振り上げた時だった。
――家の中で物音がした。
気のせいかと思ったが、千佳の訝しげな表情を見る限りそうでもないらしい。しばらく待つと、足音へと変わった。
――いや、足音とは少し違う。
足音とは、規則正しく床を踏む音だ。
それに比べ、この音は異様だ。
引きづるような、なめくじのようにぬちゃりぬちゃりと這いずり回るような湿った音が家の中から聞こえる。
「千佳!」
悲鳴に似た声で私は叫んだ。
普、通、じ、ゃ、な、い、。人間以外のナニかが近づいている。
反射的に私は後ずさって、玄関の戸から距離を置く。
「――――――――――」
千佳は何も答えずに玄関の戸を眺めていた。そこから視線を逸らさない。
目には恐れが含まれている。見開かれた瞳孔。その瞳の奥。恐怖と戸惑いのその先。何か別の感情があるような気がしたけど、私にはそれが何だか分からなかった。
「――――――ッ!」
戸が開いた。
人は恐怖が最高潮に達すると声すら出ないらしい。
「あっ!」だとか、「きゃあ」だとか、そんなことを私は言おうとしたのだろう。けれど、恐怖で縛られた体は口を開くだけで精いっぱいだった。
戸が開けられ、そこから現れたのは人間ではなかった。
全身の肌が荒れ果て、顔はコンクリートの上を何十メートルも引きずられたかのようにぼろぼろだった。自身の血で全身を赤黒く染め上げ、所々破けた衣服からは死臭が溢れ出ている。
声にならない音がソレの口から零れ出た。
「啞ァ……」だとか「ェ゛唾……」だとか無理に文字で表そうとするとそんな感じの呻き声。地獄の釜で茹でられる亡者の嘆きのようだった。
ゆったりとした動きで死人のようにぱさぱさに乾いた腕を千佳に伸ばす。地獄に引きずり込もうと。同胞へ迎え入れようと。 亡者は大きく口を開いた。上唇と下唇の間にぬちゃあと唾液のような線が繋がる。歯と歯の間にはピンク色の食べかすが挟まっていて、口の端からはだらりと赤黒い液体が零れ落ちる。
「ばか、逃げないと!」
千佳が噛みつかれてしまう、という危機感は私の体を拘束していた恐怖心を取っ払った。びっくりするくらいの大きな声とともに、ぼーっと突っ立っていた千佳の手を取って走り出した。
どこをどう走ったかなんてわからない。ともかく、集落から離れるように懸命に足を動かす。この場から離れないといけないという考えだけが頭を支配していた。
「――っ、はぁはぁ」
集落の明かりが遠くになって足を止めた。
酸素が足りない。苦しい。ひざに手をついて呼吸を整える。溢れ出る大粒の汗が額からコンクリートの道路へと落ちていく。
心臓が早鐘を打って、肺がもっと酸素を寄越せと怒鳴っていた。息を吸って吐いて、を落ち着いて繰り返す。
呼吸の乱れが収まって冷静になると、よくあんな化物に出会って身体が動いたと自分でも感心した。千佳が死んでしまうという焦りからだったとはいえ、普段の私だったら尻餅をついて怯えるだけだったに違いない。
その反動とも呼べるものは急に訪れた。
全身の力が入らなくなって、へなへなとその場に女の子座りをしてしまった。
「へ……?」
アホみたいな言葉が私の口端から漏れる。
立とうとして足と手に力を入れようとするけどうまくいかない。
「おいおい、大丈夫か」
千佳が呆れ返ったように私に問いかける。ここまで手を引っ張られたのは誰なのかと尋ね返したい。
そんな軽口を叩ける余裕もなく、愛想笑いを返すしかできなかった。
「ほら、掴まれよ」
差し出された手。
私はそれを握り返して立ち上がる。
こんな地獄でも、千佳と一緒なら乗り越えられる。
いや、私が千佳を救ってあげるんだ。
いつも助けてもらったお礼に。いつもわたしの傍にいてくれたお礼に。
――この地獄から二人で抜け出すんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます