第2話 怪談話に勇気を出して

「あー、宿題したくなーい……」

 

 夏休みに入って二週間目。アパートの目の前にある公園でアブラゼミがけたたましく叫んでいる七月の下旬。

 私と千佳は夏休みの宿題に取り掛かっていた。高校生になって初めての長期休暇。三年間のうちに三回しか訪れない貴重な夏休みを、私の部屋でもくもくとテキストとノートに向かい合っているのは女子高校生としてどうなのだろう。宿題なんていつだって出来るし、華の青春時代に新しい思い出を作るべきだ。


「あそびたーい……」

「今のうち終わらせておかねえと、後で痛い目見るぞ」

 

 顔を上げずに黙々と数式を解きながら千佳は言った。すでに問題集の最終章に取り掛かっている。同じタイミングで始めた私はまだ第一章の中盤だ。

 彼女の名前は辻堂千佳つじどうちか。私と同じ県立村下高校に通う高校一年生。国語、数学、理科、社会、英語、どのテストでも成績は五番以内。運動神経も抜群でスポーツテストでは女子の中で一番だ。唯一、欠点としてあげるとすれば言動が男っぽいところと料理が下手くそなところ。それがなければ恋人でもいただろうに。


「ああ、頭が痛くなる……」

「それは結乃が普段勉強してないって証拠だ」

 

 結乃――小坪結乃こつぼゆの。それが私の名前だ。

 千佳とは対称的にかけっこをすれば最下位、テストでは毎回平均点以下の赤字ぎりぎり。

 顔だって可愛いとはいえないし、胸もぺたんこ。


「うーん? うん? おおう……?」

 

 問題文の意味すら分からず、教科書へと手を伸ばした。公式が載っているページを開くけれど、こっちの日本語の意味も分からない。見かねた千佳の丁寧な説明でやっと問題が解けた。

 セミの大合唱とじめじめした夏の湿度で満たされた部屋で宿題を解き続けること数時間。

 山の奥に太陽が沈みかけたころ、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 返事をすると、ドアが半分ほど開けられてエプロン姿のお母さんが顔をのぞかせた。


「結乃、千佳ちゃん。お夕飯出来たわよー」

「うん、今行くねー」


 私は問題を解くのを止めてノートと教科書を閉じた。


「いつもすみません、真由美さん」


 千佳は申し訳なさそうにお母さんに頭を下げる。

 お母さんの名前は小坪真由美。お父さんはお母さんが若い頃に離婚したそうで、一度も会ったことがない。写真も残っていないそうだ。ひょっとしたら隠し持っているのかもしれないけど、触れたらいけない話題だと思って小学生が終わるころにはお父さんのことは訊かないようにした。

 だから、お母さんは私のたった一人の家族だ。

 ――そして、私と千佳の唯一似ている点、それは家族。

 千佳のお母さんも彼女が産まれる前に離婚をしてしまっている。それからお母さんと二人暮らしをしていたけど、千佳のお母さんは数年前に病気で亡くなった。それからはずっと一人で暮らしている、と前に千佳が話してくれた。

 そういった事情を聞いたお母さんは千佳が遊びに来ると、いつも一人分多く晩御飯を作るようになった。


「いただきまーす」

 

 今日の晩御飯はカレーだ。一口サイズのにんじんとじゃがいも、たまねぎと豚肉。カレーのルーは私にあわせて甘口だ。

 同じ屋根の下、食卓には何の違和感もなく千佳が座っている。まるで血のつながった家族のように。

 ――実際、私にとってそれくらい大切な友達だ。

 中学生のころまで私は友達がいなかった。男の子はもちろん、女の子にも。いじめっ子が教科書やノートを隠したり、悪口を言ったりしてきても助けてくれる人なんていなかった。

 救いの手を差し出したのが千佳だった。校舎裏に呼び出されていたときに、たまたま通りかかった別のクラスの千佳が「何してんだ!」といじめっ子三人組を怒鳴りつけたのだ。

 それからというもの私と千佳は一緒にいることが多くなった。初めての友達だ。


「ごちそうさまー」


 晩御飯を食べ終わり、お母さんは洗い物を、私と千佳はしばらくテレビを見ていた。バラエティ番組が終わると、千佳はソファーから立ち上がった。


「真由美さん、俺、そろそろ帰ります」

「あらやだ、もうこんな時間。泊まってもいいのよ」

「いえ、そこまでご迷惑おかけするわけには」「遠慮なんてしないでいいのに。車には気を付けるのよ」

「あっ、お母さん。私、途中まで送っていくね」


 私の部屋に戻った千佳は勉強道具を投げ入れるようにしてカバンに詰め込んだ。もうちょっと丁寧に入れればいいのに。

 玄関まで見送りに来てくれたお母さんに私達は手を振って、自転車に跨った。


「――それじゃあ、今日は約束通り、怪談話に付き合ってもらうぜ」

「はあ……分かってるって……」


 私達の通う村下高校にはこんな怪談話があった。

 街はずれの古くて小さな神社――道陸どうろく神社前の比良坂橋で儀式を行うと別世界へと連れて行かれるというものだ。

 この時はよくある怪談話の一つだと思っていた。実際、村下高校には深夜二時の音楽室に自殺した生徒の幽霊が出るだとか、二年五組前の廊下の変色したコンクリートの壁には遺体が使われているだとか、川沿いの廃ホテルに殺人鬼が住んでいるとかいううわさ話もあった。

 道陸どうろく神社前の橋に伝わる怪談話もそんな有り触れたものの一つだと考えていた。試してみたという人もいるが、別の世界に行くこともなく、毎日普通に学校に通っている。


「あ……すまん。スマホ忘れてきた」


 家を出てから数分後、儀式の方法について確認をしていた千佳が急に自転車にブレーキをかけた。


「ちょっと取りに戻ってくる」

「明日も私の家に来るんだから、置いてていいんじゃない」

「今時、スマホがないと何もできねえよ」

「うーん、まあ、確かに……」

「すぐ戻ってくるから結乃はそこで待っていてくれ」


 千佳は立って力強くペダルを漕ぎ、来た道を戻り始めた。すぐに姿が見えなくなる。しっかりしているように見えて、たまに抜けたところがある。


「遅いなあ……」


 スマホでお気に入りのサイトを回って暇をつぶしていたけど、千佳はなかなか戻ってこない。家からここまで五分ほどなので往復で十分ほどだ。もうすぐ三十分が経過しようとしている。スマホを探す時間を考えても遅すぎる。

 電話しようかなと思っていると、千佳が戻ってきた。


「すまん、お前の部屋を探してたら全然見つからなくてな。真由美さんがスマホを鳴らしてくれたら、なんとソファーの下にあった」

「もうバカだなあ」


 自転車に跨って目的地の比良坂橋へと向かった。街の外に出るにつれて人の気配がなくなっていく。人魂のようにぼんやりとした街灯を頼りに千佳の背中を追いかける。


「着いた……」


 赤い手すりの太鼓橋。五メートルほどの小さな橋だ。入口の親柱には欠けてしまって分かりづらいけど、「比良坂橋」と彫られている。静かな川の流れとともにクビキリギリスの鳴き声が草むらの中から聞こえた。


「そういや、持ち物は全部置いておけよ」

「あれ。そんな話しあったっけ?」

「俺はそう聞いた。俗に染まった物を持っていると成功しないらしいぜ。なにも投げ捨てろとか壊せとか言ってるわけじゃねえんだから、置いてやるくらい構わんだろ」


 と、言いながら千佳は胸ポケットからスマートフォンを取り出してカバンの中に突っ込んだ。自転車のかごにカバンを入れて、さっさとしろと私をせかす。

 辺りには誰もいないし、盗まれる心配もないかな。

 千佳と同じようにポケットに入れておいたスマートフォンと財布を自転車のかごの中に入れた。それを確認してから千佳は橋の向こう側まで走っていく。


「準備はいいかー?」


 千佳の言葉に唾をごくりと飲みこむ。時間は午後二十時半。街灯の灯りは消えそうなほど小さい。周囲は真っ暗だ。誰も成功しなかったとはいえ、自分が実際にやるとなると冷や汗が流れる。


「一歩目は我のため」


 千佳が一歩前に進む。同時に私も一歩前に進む。


「二歩目は貴方のため」

 

 私は一歩前に進む。同時に千佳も一歩前に進む。


「三歩目は鍵のため」


 千佳が一歩進み、私も進む。

 夏だというのに少し肌寒くなってきた気がする。

 ……夜だからだと思う。


「四歩目はあちらの扉を開けるため」

「五歩目はこちらの扉を開けるため」最後の一歩を踏み出す。

「六歩目はそちらの扉を開けるため」


 私がそう唱えると、風が強く吹いた。

 木々が大きくざわめく。葉擦れの音が私にはせせら笑うように聞こえて背筋が冷たくなった。風が止むと、クビキリギリスの鳴き声がなくなっていた。川のせせらぎさえも。まるで世界から音がなくなったようだ。

 目の前の千佳が右手を突き出した。私は左手を突き出す。

 指を絡め、目を閉じて同時に唱える。

 

 ――天の橋から黄泉の国。黄泉の国から天の橋。我らは大岩を動かすものなり。

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