第5話
何処をどう移動してきたか分からない、みたいな表現を漫画や小説で目にしたことがあったけれど、自分自身が経験することになるとは思わなかった。
バイト先の喫茶店を飛び出して、タイミングよくきたバスに乗り込んで、繁華街まで来ていた。
無意識に定期が使える区間で、バスを降りた自分を称賛したいところ。
でも、現状は非常によくない。
私は繁華街の明かりが少なくなった端の方で、数名の男性に囲まれていた。
男性の格好は、ジャケットにスラックス、カバーソックスか素足に革靴。ネックレスにピアス。金髪や茶髪などカラーリングを変えた髪の毛を、整髪料で剣山のようにしている。
一言で表すならホストだ。
健太郎さんと茉希さんのことが頭の中をぐるぐる回り、適当に相づちを打っていたら増えていた。
「ねーねー、名前を教えてよー」
「……嫌です」
「そんなつれないこと、言わないでさぁ」
距離感が近すぎるし、香水がキツい。
そもそも顔が好みじゃない。
「邪魔なので、どこか行ってくれませんか?」
「ああ?」
「ちょっと俺たちが優しいからって、調子のってきてんの?」
男たちの声のトーンが下がり、露骨に眉間にシワを寄せる。
普通ならば、怖がるところかもしれないけど、店長を見慣れている私は迫力が足りなかった。
「プッ、凄んでいるつもりなんですか?」
「ハァ? おい、もう面倒だから運んで回そうぜ。下手に出てやったのに、ふざけんなよ!」
しまった! と思った瞬間、男たちの手が私の腕や足、体を掴む。
赤の他人に体を触られる嫌悪感に、ゾワゾワとした嫌悪感が体中を駆け巡る。
「やめて! 離して! 誰か――」
「うっせ、もうゲームオーバーなんだよ。調子にのんなや」
私の口を誰かが塞ぐ。
ジワジワと身体の芯から染み出してくる冷たい感情、恐怖心に体中から冷たい汗が噴き出してくる。
この後、この男たちに何をされるのか容易に想像できた。
男たちの手を振り払おうにも、私の四肢はガッチリと捕まれて、まともに動かせない。
口を塞がれて、声も出せない。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ――。
視界が滲み、涙が次から次へと溢れ出してくる。
こんなところで、こんなやつらに、私は――。
「おい、ガキども。騒がしいぞ」
それは特に大きくもない低い男性の声だった。
その声は周囲の音を無視して、響くような確かな存在感を有していた。
私はおろか男たちもキョトンとした顔で、その声に聞き入ってしまっていた。
「――ッ! おっさん、図体がでかいからって、俺らがビビると思ってんの?」
「おい、アッくん。このおっさんを教育してやってよ。図体がだけじゃ元プロボクサーの相手は出来ないって」
回りに囃し立てられて、外連味たっぷりの動きで、拳を握って構える金髪のロン毛。
彼は、二、三度、拳を空中に打ち込む。
ボクシングを見たことはないけれど、拳が物凄い速さで動いたことだけは、私にも分かった。
「おっさん、さっさとこの場から回れ右するんなら、見逃してやるよ」
「お、さっすが、アッくん。やさしー」
ゲラゲラと笑い始める男たち。
私の場所からは、逆行ぎみで男性がよく見えない。私は目を細め、睨むようにして男性を見つめる。
男性は男たちより頭の一つ、いや二つ分くらい身長が高い。
肩幅もあり、逆三角形のシルエットになっていた。かといって、脚が細いわけではない。
シルエットが全体的に濃厚な重量感があった。
「で、どうするんだい? 能天気なガキどもと違って、まだ予定が残っているんだ、こちらは」
「調子にのるんじゃねぇ!」
アッくんと呼ばれた男は、唾を吐き捨てる。
同時に体を小さく丸め、しゃがむような動きで、一気に距離を詰めて男性に肉薄する。
「オラオラオラッ! 死んでも恨むなよッ!」
途切れることなく続く打撃音が周囲に響く。
男が拳で男性を殴っていることは理解できるが、何回男性が殴られているのか認識することは出来なかった。
男性が物凄い速さの拳で、何回、何十回と殴られている。
私に関わったせいで殴られている。
男性が大怪我をする未来を予想し、私は血の気が引いていく。
「気は済んだかい? こんなパンチで、よくプロボクサーをやれたものだ。いや、称賛するべきかな」
「な、んだと……」
男性の口調は変わらず、ゆっくりとしたバリトンボイスが響く。
パンチを打ち込んでいた男は、何かを感じたのか、よろめくように後ずさりする。
その光景に、囃し立てていた他の男たちも驚愕した表情で言葉を失っていた。
――カツーン、カツーン、カツーン
靴音を響かせながら、男性が歩く。
次の瞬間、男性を殴っていた男が水平に飛んでいった。
それが男性が繰り出した前蹴りのせいだと私が認識するのに数秒を必要とした。
「あ、アッくん!」
「糞が! ざけんなよ!」
ようやく理解が追い付いた男たちが動き始める。
男たちは私から離れる。
そして、泡を吹きながら痙攣している男――アッくんの介抱に一名、残り三名が男性の前に立つ。
仲間がやられたことで、男たちは殺気だっている。
懐から警棒をとりだしたり、地面に転がっていた錆びた鉄パイプなど、武器を手にする。
「死ねや!」
男たちのが声を上げながら、男性に飛びかかる。
多勢に無勢。
だけど、私には、ただただ愚かな行為に見えた。
勝敗は一瞬で決した。
男たちの攻撃を、男性は全て受け流していた。
武器が手に触れた瞬間、武器の軌道がそれ、体勢を崩す。
そこに男性がカウンターの一撃を繰り出し、行動不能にしてしまう。
瞬きをしていたら、何が起こったか分からなかったかもしれない。
「ッ! リクト! ナオ! ヨウスケ!」
アッくんを介抱していた男が慌てて声をかけるが、呼ばれた三人は白目を剥いてアスファルトに転がって反応はない。
「で、お前さんは、どうするんだ?」
「ひぃ! ば、化け物!」
「おいおい、おっさんの次は化け物か。ついさっきまでの威勢はどうした?」
――カツーン、カツーン、カツーン
靴音を響かせながら、男性は残った男に歩み寄る。
男性が近づいたことで、私は、ようやく男性の顔を認識する。
それは、いつもは柔和な笑みを湛えているはずの店長だった。
店長の顔は、冷たく、つまらないものを眺めるように、男を見下ろしていた。
ゾクリ、としたものが私の体を駆け抜ける。
それは、先ほど感じたものとは違う、本能的な恐怖。
すぐにでも、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。
だが、私の意思に反して、体は小刻みに震えることしか出来なかった。
「ボス! 探しましたよ! って、何やってるんですか?」
「ああ? お前らが遅いから、暇潰ししていただけだ」
スーツ姿の男性が数名、転がるように店長のそばに駆け寄る。
「いやいや、ボスがふらっと連絡していた場所からいなくなるからですよ。ボスが本気だしたら、オレたちがボスを見つけられる可能性はゼロですよ」
「それは、お前らの精進が足りねぇ証拠だ。まあ、ちょうどよいタイミングに免じて、目を瞑ってやる。そこのガキどもに頼むわ」
「ん? コイツらどうしたんですか?」
「なんか暇だったらしくてな。絡んできたから、少し相手をしてやっただけだ」
店長の言葉に、スーツ姿の男性たちが驚愕した声をあげる。
「マジっすか。ボスにケンカ売るとか、マジパネェ」
「ただのバカだろ。ボス見て絡むとか、防衛本能がイカれてる」
そんなことを言いながら、スーツ姿の男性たちは、意識を失っている男たちを肩に担いでいく。
一人残っていた男は首根っこを掴まれて、引きずられていく。
私の見間違いでなければ、男の又のあたりが、グッショリと濡れていた。
「さて、まゆらちゃん」
「は、はい!」
不意に掛けられた声に、私は背筋のピンと伸ばして、直立不動の体勢になる。
私の姿に、店長は肩を窄めて嘆息する。
「どうして、こんな時間に、こんな場所にいるのかしら?」
「そ、それは……グスグスッ……うわぁぁぁん、てんちょおぉぉぉ!」
いつもの店長の顔を見た瞬間、私は緊張の糸が切れたのか、大声で泣くことしか出来なかった。
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