第3話

「だから、ごめんって」

「……なにが?」


 お昼休みの喧騒に包まれた食堂。

 私はテラスの二人用のテーブル席にわざと横を向いて座っていた。

 そして、対面に座る瑛奈が、顔の前で両手を合わせ、平謝りを続けている。

 私は横目で瑛奈の姿を確認してから、テーブルに置いたお昼ご飯、サンドウィッチランチ――サラダとスープ付きで三百八十円――から、タマゴサンドをつまみ上げ、口に運ぶ。

 横向きに座ったままなので、少し行儀が悪いが仕方ない。

 軽い口当たりで、簡単に噛みきれるタマゴサンド。

 ほんの一口食べただけで、口の中に広がるタマゴの味に、思わず口元が弛んでしまう。

 学食と侮るなかれ。

 味付け加減が絶妙で、マヨネーズがこれ以上これ以下でも、この美味しさにはならないと思う。

 あと隠し味が入っているはずなんだけど、食堂のおばちゃ――お姉さんは決して教えてくれない。

 教えたら注文してくれなくなるから、だって。

 この味を自分で完璧に再現できるようになったのなら、学食に足を運ぶ回数は確実に減るかもしれない。

 パクリとサンドウィッチを噛り、二口目も変わらないタマゴサンドの美味しさに、思わず笑みがこぼれてしまう。


「まゆらー、タマゴサンドに心奪われるぐらいなら、ウチの方を向いてくれても良くない?」

「良くない。全然良くない。タマゴサンドの至福の時間と、えいにゃんを比べるなんて、愚かすぎ。ちょっと理解できない」

「ちょ、ちょっと待ってよ! ウチは、まゆらの親友だと自負してるよ。ウチとまゆらの友情は、たかがタマゴサンドに脅かされちゃうの? それはおかしいじゃん。ウチとまゆらの友情は、そんな柔なものじゃないって、ウチは信じてるもの」

「えいぴょん、世の中、譲れないものってあると思う。食べ物の恨みは怖いって言葉もあるよね。友情で空腹は満たされないと思う」


 私は、瑛奈の方を向いて、ニッコリと営業用の満面の笑みを作る。


「うわっ、この子、言い切ったよ。めちゃいい顔して言い切ったよ」

「うん。私、正直だからね」

「あーもー、最悪……」


 瑛奈は端から見ても分かるくらい、がっかりしていた。肩を落とした彼女は更に小さく見える。

 お客さんには、評判の良い私の営業スマイル。

 店長には胡散臭いと称されて今一つ受けが悪い。瑛奈も裏のある笑みだと感じ取ったようだ。

 瑛奈は涙目になりながら、キツネうどんの麺をたどたどしい箸使いで、一本摘み上げと弱々しく啜る。

 普段が元気すぎる瑛奈なので、こういう落ち込んでいる姿を見ると妙にゾクゾクとした何かが私の内側に生まれてしまう。

 私は、別に瑛奈をいぢめてたのしんでいるわけではないよ? 私は、サディストな性格もしてないから。

 瑛奈か普段とギャップのありすぎる態度をとるから、そういう変な衝動が沸き起こっているだけに違いない。

 うんうん、そうに違いない。

 私は自分の理論に納得して小さく頷く。

 気配を感じて、視線を瑛奈に向けると、彼女は生まれたての小鹿のようにプルプルと震えながら、箸で摘まんだキツネうどんの油揚げを私の方に差し出していた。


「ウチの好物だけど、まゆらにあげるから、機嫌直してよ……。マジで断腸の思いであげるからさー……」

「私はお稲荷様じゃない。そもそも油揚げ一枚で機嫌をなおせって、私をどれだけ安い人間だと思ってるの?」

「そ、そんなつもりじゃないって! ウチの好物を差し出しているところを評価してよ!」


 泣き出す寸前といった雰囲気の瑛奈。

 私は「はぁー」とわざとらしくため息をつく。

 そして、瑛奈と向かい合うように椅子に座り直して、差し出された油揚げを一口噛る。

 ちょっと冷めているけれど、お汁の味と甘い油揚げの味が口いっぱいに広がる。

 どこかホッとする食べ飽きない味。

 タマゴサンドには負けるけど、キツネうどんの油揚げも絶品かもしれない。


「一口でいい」

「ホントに? 一口だから一分間だけ機嫌をなおすとかじゃない? 残りをウチが食べ終わったら、やっぱなしとかしない?」

「そんな意地悪を言うわけないでしょ。それにキツネうどんを頼んで、油揚げを食べなかったら、瑛奈が午後、再起不能で周りが困るからじゃない」

「もう食べるからね。本当に食べるからね。やっぱり頂戴とかなしだからね」

「ハイハイ、いいから油揚げを食べなよ」


 疑り深い顔で、私の顔色を伺う瑛奈。

 しばらく、油揚げを箸で摘み上げて固まっていた瑛奈だったけど、意を決した様子で油揚げをうどんのお汁に浸す。

 そして、彼女は油揚げをパクリと噛る。

 次の瞬間、パァァァッと花が咲いたような笑顔に変わる瑛奈。

 本当に無邪気な明るい笑顔で、周囲にいた生徒もホッコリとした表情に変わっていた。

 私が絶対に出来そうにない笑顔を、こうも簡単に出来てしまう瑛奈は、ズルいと思う。

 パクパクと小さな口で、油揚げを頬張っていく瑛奈。

 彼女の嬉しそうに細められた瞳と弛んだ口元。見ているだけで癒される姿。周囲に幸せそうなオーラを撒き散らしている。

 本当に瑛奈はズルいなぁ。


「はぁー、ぴょんは幸せそうで、いいね……」

「ちょっと待って。ぴょんって誰よ? ウチのこと?」

「うん」

「いやいや、ぴょんって、もうウチの名前すら入ってないんだけど」

「可愛いし、言いやすいし、いいじゃん」

「ぜんぜん良くない。前から思っていたけど、まゆらのセンスって、どっか変だよ」

「瑛奈のセンスもかなり変だと思うよ」


 少しの間、私と瑛奈は睨みあう。

 そして、申し合わせたように、二人でため息をつく。

 何を考えているのか訊ねたことはないけれど、きっと「言うだけ無駄」や「自分の方がマシならセンスをしている」と思っているはず。


「ねー、まゆら。アンタは自分がモテている自覚はあるの?」

「……ぴょん、いきなり世迷い言を言い出しているの? 私がモテるなんてあり得ない」

「それ、ウチ以外がいる時に言うんじゃないわよ。絶対イヤミにとられるから」

「……なんでよ」

「はぁー、自覚がないのは罪だわ。とにかく言うんじゃないわよ」

「……わかったわよ。で、ぴょんは私に何を言いたいのよ」

「モテるんだから、同い年くらいの彼氏でも作ったら?」

「――ッ! ごほっ! ごほっ!」


 予想していなかった瑛奈の言葉に、私は反射的に咽てしまう。

 今の話の流れで、いきなり私に彼氏を作れとか理解不能。私より先に瑛奈が彼氏を作ればいいじゃない。

 咳き込んで涙目になっている私に、瑛奈が何枚かの紙ナプキンを差し出してくる。

 私は素直に受け取り、口元と目元を紙ナプキンで拭う。


「まゆら、大袈裟な反応しすぎじゃない」

「い、いきなり変なことを言う瑛奈が悪いのよ。なんで私が彼氏を作らなきゃいけなくなるのよ」

「最近のまゆらって、いつでもどこでも不幸オーラをばらまきまくってるからよ。彼氏を作って頭の中がお花畑になれば、不幸オーラも減ると思うし」

「はぁ? 意味わかんないんだけど……」

「不幸オーラの原因は、例のバイト先の常連さん、でしょ」

「……違う」

「はい、嘘。まゆらは、わかりやすいのよね。年上の社会人が好きかもとかちょっと前に言ってたし、ちょっとした時に、その人のことを話してくるし。健太郎さん、だっけ? まゆらから聞いた感じだと、年下は恋愛対象外じゃないの?」

「……」


 瑛奈の言葉に「違う!」と反論することが出来なかった。

 健太郎さんがお店に来たとき、他のお客さんが少ないときに話すチャンスがある。

 色々なことを話してくれるし、私のしょうもない愚痴も嫌な顔をせずに聞いてくれる。

 今は彼女はいないって健太郎さんが言ったときは、飛び上がるほど嬉しかったけど、私が恋愛対象に含まれるかどうかは、怖くて訊ねられなかった。

 恋愛対象外って言われたら、絶望感で目の前が真っ暗になってしまうに違いない。

 一度、考えると堰を切ったように、良くない考えばかりが次々に湧いてくる。

 健太郎さんは、私に優しく接してくれるけど、それは女性に対する扱いではなく、年の離れた妹に対する扱いのような気がしてくる。

 お店で健太郎さんが砕けた態度を見せることは、殆どない。

 私がバイトしてなくて、客としてお店にいて、健太郎さんを見かけたら、きっと常連客とは思わないはず。

 健太郎さんと顔見知りになって半年は経っているのに、健太郎さんは私のことを「葵さん」と他人行儀な感じで呼ぶ。

 店長には、もっとフランクな感じで声をかけているのに。

 たまに連絡先を聞いてくるお客さんがいるが、全て店長が相手をしてくれている。

 健太郎さんが私の連絡先を聞いてくれたなら、即教えるのに。

 健太郎さんが私の連絡先を聞いてくる未来を、私は全く想像できなかった。

 健太郎さんにとって、私は馴染みのお店のバイト店員……。

 体の芯から、どう表現していいのかわからない感情が滲み出してくる。

 感情まかせに大声をあげ、何かに感情をぶつけて破壊したい衝動に駆られる。


「――ら! まゆら!」

「は、はい」


 不意に耳に届いた瑛奈の緊迫した声に、私は脊髄反射で返事をしてしまう。

 彼女は申し訳なさそうな顔で、私にピンク色のハンカチを差し出していた。


「え? なに?」

「……気づいてないの? 目元とかハンカチで拭いて」

「どういうこと……」


 瑛奈の言葉の意味が理解出来なくて、私は指先で目元を確認する。

 湿った感触に一瞬、戸惑ってしまうが、それがなんなのか即理解する。

 私は瑛奈のハンカチを受け取り、急いで涙を拭う。

 拭き残した涙が一雫、頬を伝ってテーブルを濡らす。

 健太郎さん、全く意識されていないと想像しただけで、泣いてしまった事実に、私は驚愕してしまう。


「ごめん。考えなしな発言だった」

「別に、気にしてない」

「だって、泣ーー」

「気にしてない!」


 私は瑛奈の言葉を遮る。

 瑛奈は何か言おうと口を開くが、私の顔を見て、すぐに口を噤んで顔を伏せる。


「瑛奈は、悪くない。私は、気にしてない。だから、お昼ご飯をたべよう。昼休みが終わる前に食べてしまおう」

「……うん」


 それから、私と瑛奈は黙々と昼食をとる。

 私と瑛奈の周りだけ、昼休みの喧騒から切り離されたような、静かで重い空気が満ちていた。

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