エピローグ②
図書室の本棚からお目当ての本をとる。
室内は古い木の匂いが充満しているが、広くて過ごしやすかった。
春が終わる頃、マツリは昼休みになると図書館に訪れるようになっていた。借りても読まないので、こうして毎日コツコツと図書館に通いつめる。栞を挟めないのでどこまで読んだか、探すところから始めていた。
「借りないの?」
草むしりをする手を止めた。知花が横から話しかけてきた。
「図書委員が俺の友達なんだけど、いつも橘さんを昼休みに見るって。でも本を借りずに読むだけだって。借り方が分からなければ教えようか?」
放課後、いつものように裏庭で委員活動をしていた。活動は月曜日だけ。つまり先週ぶりに知花と話した。
教室内の彼はいつも友達といた。騒がしいわけでもなく、一人でいるわけでもなく。数人の友達と談笑していた。
「わかるから大丈夫。気にしないで」
無意識に草を抜くスピードが早くなった。
「ふーん、わかった」
知花のいいところは、すぐ引き下がってくれるところだ。変な詮索はせず、マツリが話しかけるなオーラを出すと静かにしてくれる。
だからといって雰囲気が悪くなることはない。
マツリは雰囲気に慣れず、いつも作業を早く片すようにしていた。
しかし今日は違った。
「このあと空いている?」
知花の質問に、マツリは頷きも首も振ることができなかった。
「あ、え……」
このあとはいつも通り施設に戻り、研究に参加するつもりだ。いつものように拒否すればいい。
「花の名前を看板に書いてくれって委員長に言われたんだ。俺より橘さんの字の方が綺麗だからお願いしたい。もちろん、俺も残るよ」
委員会活動の延長だ。
マツリは誤魔化すように何度も頷いた。
空き教室に通され、口頭で説明される。今咲いている花は四種ほどだが、年間を通して植える花はもう決めてあるらしい。委員長はさらりと、一年分の名前を書くよう指示をした。
知花が読み上げる花の名前を、マツリが書いていく。漢字がわからないと図鑑を開いて確認した。 手のひらサイズの看板に、マーカーで次々と書いていく。無心でいると、知花が声をあげた。
「ジャスミンってカタカナでいいのかな。一応確認しておくか」
図鑑を開く横で、マツリは年間予定を盗み見した。九月の項目にジャスミンとはっきり書かれている。
「へえ、こう書くんだ。初めて知った」
知花がこちらにページを向けてきた。
『茉莉花』という文字の下に、白くて小さな花の写真がある。
「ジャスミンティー好きだけど初めて知った。マツリカ、って読むらしい」
マツリは淡々と茉莉花と書き写す。
「なるほど、橘さんの名前ってここからきているのかな。最初は祭だと思ったけど、祭みたいに騒がしくないから茉莉の方が合っている」
何度も聞かれていたことだ。マツリって名前はどうしてカタカナなのか。
祭なのに大人しいじゃんと言われたことは何度もある。
幼い頃、研究員に名前の由来を聞いたことがあった。ひどく意地悪な研究員だったことを忘れていたのに、気づいたら手遅れだった。
「祀るって意味だ。神として崇拝されるようにってな。だからお前の周りは誰もいない」
研究員はそう吐き捨てた。マツリの表情を見ることなく、大股で去っていく。
所長である父に聞くのは恐れ多い。マツリはそれから自分の名前に触れなくなった。
「ジャスミンの花言葉はー……」
隣で楽しそうに解説をする知花。自分に似合わない言葉が次々と出てきた。
手の甲に、水がついていた。気づかれる前にさりげなく目元を拭った。
「遅くなったから送っていくよ」
「いいの、気にしないで」
下駄箱で靴を履くと、外の暗さに気づいた。作業の前に施設に連絡したが、こんな時間まで学校にいるのは初めてだった。
送ってくれるという知花の申し出を無視して、マツリは足早に帰った。
次の週も、その次も。
もうやることがないので来なくていいと委員長に言われたが、放課後になるとマツリは裏庭に向かっていた。そこには必ず知花がいたからだ。
花に水をあげたあと、少しだけ喋る。
「そういえば花って毎日水をあげるんだっけ」
「昼休みに事務員さんがやってくれているから大丈夫だよ」
マツリは自然に話せている自分に驚いていた。
研究に関係ないことを、施設以外の人間と話している。自分がただの高校生になった気がした。
「秋が楽しみだなー」
「え?」
聞き返すと、知花は益々笑顔になる。
「一緒にジャスミンを植えよう。委員長に聞いたら九月の終わりに入荷するって言っていたから」
「後期は九月からだよね。図書委員はいいの?」
知花が笑顔で固まった。マツリは不思議そうに首を傾ける。長めの前髪がメガネ越しに目を覆った
「……九月いっぱいは園芸委員がいい」
「無理だよ」
知花の手からジョウロを奪う。象の形をしたジョウロは、鼻から水を垂れ流していた。
「植えることができなくても、見にくればいいでしょ」
見るときは、一緒に。
なんて流石にそこまでは言えなかった。
中間試験に追われ、テストが返却されるとあっという間に夏休みに突入した。
たちばなラボの地下は夏知らず。マツリは涼しい顔で白衣を纏っていた。
「夏っぽいことしたいよー」
青木が椅子の背もたれに体を預け、足を机の上に置いていた。マツリは足を叩き落とし、無言の抗議をする。
「江場さんはサークルの合宿でしょう?青木さんはサークルに入らなかったんですか?」
「面倒じゃん、入らないよ」
意外だった。青木は江場に劣らない社交性があったから、さっさと大学生の集団に馴染んでいると思っていた。
「海に行きたい、プールも行きたい。キャンプもしたい。今週中に」
「今週中?」
「来週からロンドンに行くんだ」
青木の瞳が光った。黒と青の混ざった色の瞳が。
マツリはなぜ行くのか、興味がないので聞かなかった。
「ねえ見てよ。あいつ彼女できたんだぜ」
青木が見せてきた写真に、江場と女性が写っている。おしゃれな店内でケーキを頬張る江場の隣で、見知らぬ女性がピースしている。
「ふーん」
興味がないので反応はそれだけだった。
マツリは騒ぐ青木を尻目に実験に戻ることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます