彼のために



その後、望月をカフェ近くの自宅まで送った。

そして起こってしまったのだ。集団食中毒という悲劇が。


 ニュースを冷えた目で見ていた知花は、受付の人が出てきたので携帯をしまう。


「すいません、青木善はいますか?アポを取っていませんが……はい、知花勇が来たと言えばわかると思います」


 たちばなラボは相変わらず閑散としていた。

受付の横に実験器具の模型があり、ご丁寧に説明文もあるけど読む気になれなかった。

受付嬢は無駄のない動きで受話器をとる。


「申し訳ございません、青木はただいま外に出かけていますので、また後日来ていただくことは可能でしょうか」


「少しだけ待ってみてもいいでしょうか」


 受付嬢は入り口横の席を案内した。黒革の高級なソファと、申し訳程度の小さなガラスのテーブルだ。座って一息をつこうとした時だった。階段上が騒がしい。受付嬢も階段上を注視している。

 白衣の男性が降りてきた。慌てすぎて階段から転げ落ちそうだ。


「人が、人が刺されたっ。救急車を呼んでくれ」






 数分前。

 所長室をノックして、マツリが入室した。


「所長、何用でしょうか」


 室内は大きなテーブルと椅子だけしかない。

普段は緊張して周りを見る余裕はないが、誰もいないことをいいことに見渡してみた。同じ建物内なのに、この部屋だけがいつも重苦しい雰囲気があった。

 窓際に立ち、景色を眺める。

高層ビルのあいだに挟まっている研究所なので、ビルと道路しか見えない。ふと視線を下げると、知花が研究所に入るところだった。


「お嬢さん」


 背後から話しかけられて振り返る。


「あなたは……」


 研究員だ。髪が半分ほど白くなっている。あまり関わることがなかった人間。そのため名前を覚えていなかった。

 ただ、お嬢さんと呼ばれて気分が悪い。

 橘マツリは皮肉で「お嬢さん」と呼ばれることがある。所長の娘が研究に参加しているとやりにくい連中がいるのだ。


「お父様は来ませんよ。私が呼んだので」


 マツリが反応する前に、腹に激痛が走った。

視線を下げると、ナイフが腹に刺さっていた。

このまま倒れたら、頭をぶつける。冷静に判断したけど痛みに耐えきれず、膝から崩れていった。

研究員は倒れるマツリを見下ろす。

口を裂けるほど歪ませ、生え際が汗で光っていた。


「私の、私の息子が死んだんだ。所長の子どもも死んで当たり前じゃないか。お前の死体はありがたく研究材料にするからな。私の息子がそうなったように……」


 懐から写真を取りだす。ピアス男が殺したサラリーマンが、笑顔でピースをしていた。

 研究員は写真をマツリの上におき、ぶつぶつ呟きながら出ていった。

マツリは目を開けた。ナイフは内臓を避けている。痛みがあるが失神するほどではない。

良いタイミングだと、マツリは喜んでいる自分に気づいていた。

ターゲット情報をハッキングした時、畑中のターゲットは自分だと知った。殺されることを知っても、冷静でいられた。

青木が畑中を清水のところへ送ったのは、清水がなんとかしてくれて自分を殺さずにしたかったのだろう。あの男は部下であるマツリと道尾に甘い。

だから、自分の情報が少なかった。

畑中が自分にたどり着くまでに、動くつもりで。

畑中とあまり顔を合わせていないので、学生時代の自分の顔に気づかないだろう。

ただ、清水は学生時代に会ったことがあるので気づいてもおかしくなかった。

 マツリは静かに自分の番を待っていた。

ナイフを掴むが握力がないので、内臓に移動できない。諦めて目を瞑った。そして窓の外の景色を思い出す。

廊下から悲鳴が上がり、自分が見つかったんだとわかったところで意識を手放した。






 マツリが目を覚ますと、薬品の匂いがした。

研究所と若干違う匂いを嗅いでいると、頭上から声がした。


「起きたか」


青木がこちらを覗き込んだ。

電車の中で見た、怒ったような表情だ。


「研究所内の失態は、クソ野郎どもに隠された。お前を刺した研究員は行方不明。世間に出すわけにいかず、どうなったか知らないがな」


 この病院は政府の各機関と繋がっている。

つまり、刺し傷を言及する医者はおらず、淡々と処理をされたのだ。


「助けても、私は畑中に殺されるのに」


 乾いた音が響く。青木がマツリの額を叩いたのだ。


「どうしてわからない?この実験は無駄なんだ。無駄に人が死んでいるだけだ。お前が死んでも意味がない」


「早く日本も成功させないと、このままでは外国から遅れをとる。中国がK制度に手をつけ始めている」


「だからなんだ。私の助手はもうお前だけだから、生きてくれなきゃ困る」


 言い合ううちに、マツリは腹の痛みを覚えた。

感覚がないのは麻酔のおかげなのに、傷があると意識するとどうも痛む。


「お前だけ?道尾は?」


 青木は黙ってカーテンを開けた。

病院の駐車場が見える。外は既に暗かった。


「今何時?」


「夜の二十時ぐらいだ」


 駐車場にワゴン車が入る。

開いているスペースに停め、中から出てきたのは知花だった。幼い女の子を抱いている。知花は右下に移動し、そこで初めて、駐車場の車の前に人影があることに気づいた。

人影が駆け出し、女の子を知花から受けとる。


「どういうこと……?」


 人影二人のうち一人、道尾が女の子を抱きしめている。それを傍にいる小柄の女性が見ていた。


「お前が毒薬を渡した東雪子は、道尾の娘を殺そうとしていた。もしわかっていたら、それでもお前は殺人に手を貸していたか?」


 窓の外で行われる感動劇を、マツリは動けずに見ていた。


「はい」


 戸惑いのない返事に、青木は無言で退室した。







 廊下で鈍い音がする。

青木は片足を壁につけたまま舌打ちをした。思い出すのは所長の顔。


「クソが……」


 悪態をついてもスッキリせず、また壁を蹴った。

 思い出すのは脳の持ち主。彼に縋りたくてもできないのが息苦しい。

もちろん助手はかわいい。でもなにより大切なのは彼だった。彼のためだけに実験を壊したい。

激しい感情を逃そうと、開けていた口から涎が垂れる。


「今の音はなんですか?」


 隣の病室から看護師が顔を出す。


「え、音ですか?」


 青木はいつもの笑顔を浮かべた。看護師は顔を赤くして言い淀んだ。


「いえ、あの、気のせいだったみたいです」


看護師を見送り、見えなくなっても青木は笑顔を崩さなかった。




























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