罪と罰
清水医院の奥、中庭で知花は寝転がっていた。
一角が芝生になっていて、そこで足をのばす。周囲は白い花で囲まれていた。
暇を持て余した知花は、なんとなくこの花に惹かれて植えたのだ。今は咲き誇り、甘い香りを漂わせていた。
読んでいた書類がヨレていたので、振ってピンとさせる。書類で遮られていた日光が目に入り、眩しそうに目を細めた。
「知花くーん、お昼食べた?」
清水がやってきた。午前の診療が終わって、お弁当を取りに中庭を通りかかったのだ。
「食べてない、いらない」
「そっかあ」
清水は知花の手元を見た。
「桜山千歳の母親を調べている。これは桜山富雄と接触したホステスの一覧」
免許証のコピーが並んでいた。免許証を持たない人は、普通の写真だった。写真の隣に住所や生年月日が書かれている。
なんとこの資料をくれたのはスーツの男だった。
桜山富雄は桜山千歳を知らなかった。自分の知らないところで自分の子が生きていると思ったら調べたくなるものだ。桜山富雄は協力的だった。
知花は別れ際の富雄を思い出す。焦っている様子はない。むしろ楽しんでいるようだった。
「すごいじゃないか。でも桜山千歳のところへ行かなくていいのかい?」
「夕方になったら行く」
明泥園のお散歩時間はいつも同じ時間だ。
自分も散歩のふりをして様子を見に行こうと考えていた。
「……清水さん」
「ん?」
知花は起き上がった。背中についた芝が落ちる。
「本当に桜山千歳は重要だと思う?」
「どういうことかな」
「桜山千歳は桜山富雄の弱みにならない。あの男は、我が子が死んでも普通にワインを呑んでそうだ」
「白状そうな男なのね」
「母親がキーな気がする。手伝ってほしい」
知花は清水に書類を渡した。
知花は昨日のやりとりを思い出し、手元の書類を握りしめる。
一人のホステスが丸で囲われていた。
さすがだ、と思った。清水は桜山千歳の母親を一晩で当てたのだ。
望月美杏。大学卒業後、一年だけホステスをして現在カフェの店員をしている。望月の働いている店は清水医院から電車で二時間のところだった。
車窓から田んぼを眺めていたら目的の駅に着く。バスに乗って、やっと目的のカフェに着いた。
「いらっしゃいませー」
女性の店員が笑顔で出迎える。何度も顔写真を確認したのですぐにわかった。
望月美杏は童顔で背が低く、知花の肩までしかない。学生でも違和感がない見た目だった。
「望月さんですね、桜山千歳について話を聞きたいんですけど」
望月は固まった。だが直ぐに注文のベルが鳴る。
「はーい」と甲高い声をあげるが動かない。
「俺は桜山千歳の、明泥園の関係者です。お話だけ聞かせてもらってもいいでしょうか」
もう一度ベルが鳴る。
望月の後ろから、他の店員が出てきた。
「わかりました、あともう少しで終わるのでお席でお待ちください」
望月の声は震えていた。
お茶を飲み終わる前に、私服になった望月が出てきた。
ジーンズにパーカーの姿はますます幼く見える。
カフェで話すことをせず、近場の公園へ向かった。
馬の形をした乗り物に、知花は腰を掛ける。思ったより低く、さらに狭いので尻が挟まってしまう。抜けるのか不安になっていると望月は声を出した。
「千歳がなにか?ご迷惑をおかけしましたか」
公園の遊具を背景に、望月美杏は母親の顔になっている。
「桜山千歳ちゃん……名字があなたと違いますけど、父親が親権を?」
「……」
答えない望月に、「父親は桜山千歳ですよね」と確認をする。
「はっきり言います。桜山千歳は命を狙われています。政治家の隠し子として」
「え、どう、」
どういうことなの、と口元に手を当て、望月は驚愕の表情で震える。
「父親と敵対する派閥が依頼したのでしょうね。俺は、桜山千歳を父親の手元におき、保護させたいと思っています」
最も、あの桜山富雄が守ってくれるか怪しいが。
あなたの娘はK制度の実験に巻き込まれていますよ、とは言えないので誤魔化した。
余計なことを知って、一般人である彼女が消されたら困る。
「は、話が違うじゃない。あの子にちゃんとした教育を受けさせてくれるからって、だから預けたのに……」
崩れ落ちた望月を、知花は見下ろした。
「だったら私が育てたい……あの子は政治家の娘じゃない」
「え?」
顔を上げた望月は、涙に濡れていた。薄い肩が小刻みに揺れている。
「千歳は桜山先生の子どもじゃありません。本当です、だから殺さないで」
バーの個室で、桜山富雄は娘の写真を不思議そうに見ていたが、やがて納得したように言った。
「ああ、確かに僕の子だ。元気にしているかな」
感情のない声色だった。
知花はそれを桜山富雄の人間性だと片付けていたが、今なら違う意味だとわかる。
「私が子を身籠り、困り果てているところに桜山先生が手を差し伸べてくれたのです。桜山先生の子として、教育を受けさせてくれると。桜山先生は困っている人を助けてくれるので、店の女の子達のヒーローでした」
望月美杏は当時、家の借金のためにホステスとして働いていた。子どもを育てる金はない。苦肉の策で、桜山富雄に託したのだ。桜山富雄側はきっと、将来使えそうな駒の投資をしたような感覚だろう。
「実子じゃなくても勘違いされるよ、というか既にされている」
「そんな、どうにかできませんか」
望月はその場で正座していた。砂がジーンズについている。
「どうって……。本当の父親はどこなの?」
幼げな顔が強張るのに、知花は目を薄めた。
「正直に話してくれないと協力できないので。俺はこのあと明泥園に様子を見に行かなくちゃいけないし」
「わかりました、話します」
公園に小学生が数人入ってきた。学校からそのまま来たのか、ランドセルを背負っていた。小学生はこちらを見て立ち止まる。知花は望月を立たせると、バス停へ向かった。
バスの中、駅のホーム。
移動しながら望月は話した。
「当時付き合っていた人です。まだ若い人で、子どものことで負担にさせたくなかった」
「出会いは、私の働いていた店です。同期に連れられて来たのかずっと緊張していて」
「遊ばれたと思っていません。普通に連絡を交換し、普通にデートをしていましたから」
「最後は私が逃げました。連絡先を変え、店を辞めて引っ越しました」
知花は相槌をして、聞くだけ聞いた。
畑中に話して、桜山千歳を対象から外すことができるかもしれない、と思っていた。
都内に入ると車内は一気に人で溢れる。
「私も明泥園についていってもいいですか」
「もうついてきているじゃん」
知花は振り返らずに乗り換えをする。後ろから、望月の追いかける音がした。
乗り換え先の線のホームに登った時だった。
望月は知花の背中に頭をぶつけた。
「知花さん?」
知花はある男を凝視していた。背が高く、遠くから見ても顔が整っていることがわかる。
青木は、眠そうな顔をしながらスマホをいじっていた。
電車がきた。青木は自分のいた位置から移動し、列に並ぶ。すると横の列にまた移動した。どうやら車両を選んでいるようだった。
「知花さん」
「あ、ああ。乗るよ」
知花と望月は一番手前のドアから電車に乗り込む。
「え、知花さん?」
望月は、電車内を歩き出す知花に着いて行く。
「知り合いを見かけて。ちょっと確認してもいいかな」
「はあ……」
一瞬振り向いた知花の顔に、望月は背筋が凍った。瞳に光がなかった。
懐から刃物を出して刺すつもりじゃないよね、と思ってしまったほどだ。
目的の人物はすぐ前の車両にいた。両手を手すりにかけ、目の前に座る人に話しかけている。背が曲がり、まるで酔っ払いが絡んでいるような雰囲気だ。
望月は座っている哀れな人物に目を向け、固まった。
「本当は知っていたんですか。無知のふりをして私を試していたんですか」
望月は自分の声が震えていることに気づいた。椅子に座った人物は、人に埋もれて見えなくなる。
「望月さん、どうして泣いているの」
見えなくなったのは、自分が泣いていたから。自分の涙に埋もれていた。
数年ぶりに見た愛しい人は、座っていても相変わらず小柄だった。人の良さそうな顔で話を聞き入っている。あの頃よりふっくらした頬に気づき、ご飯をきちんと食べていることに安心していた。
「あの子の、千歳の父親は彼です。道尾千尋です」
知花に目で訴えると、彼も食い入るように見た。
道尾は青木とマツリのあいだを仲裁しているようで全く気づいていなかった。
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