夜桜
知花は夜の街にいた。
目の前の信号が変わるたびに、人々が行き来している。肩にぶつかられても反応せず、突っ立っていた。
「お兄さーん、良かったらうちに来ない?」
同じ年ぐらいの男が、知花にティッシュを渡した。裏返すと店の割引券が入っている。
「……どこ」
「え?」
「桜山富雄の行きつけはどこだって聞いているんだよ」
男の指を数本掴み、握りしめる。
「い、……った」
男は腕を振って知花から離れた。
文句を言いながら道路の向こうへ消える。
その後、キャッチに対して同じことを繰り返していたらスーツ姿の男に肩を叩かれた。
「お兄さん、政治家の先生を探すにしては雑だね」
今までのキャッチと明らかに違う雰囲気を感じとり、知花は確信する。
「おたく、桜山富雄の行きつけってわかる?」
「知っているって言ったらついてくる?」
「うん」
男は横断歩道を渡り、繁華街へ進む。時折、知花がついてきているか振り返りながら。知花は顔をあげた。ネオンに光る看板が、ビルの上まである。スピーカーからキャッチに注意するよう呼びかけられていた。
ビルの横、エレベーターに乗って四階へ行くと、バーがあった。
男が無言で入ると、カウンターの向こうから女性が手を振る。男は応えずに奥の部屋へ入った。
室内は狭く、ソファに男が座っていた。上下スウェットの姿で片足を抱え込んでいる。男と目が合う。疲れ切った目は今にも閉じそうだ。
「僕を探していたのは彼?」
掠れた声に、横にいるスーツの男が答える。
「はい。ちょっとその前に失礼」
知花のシャツが捲られた。反応する前に男の手がズボンにすべる。
「スマホとキーケースぐらいか。おっと」
持ち物検査をしたらしい。男が顔をあげると目の前に指があった。あと少し動けば目潰しされるだろう。
「獲物を持ち歩かないのは自分の腕に自信があるのか」
男はニヤリと笑い、知花の後頭部を掴んでテーブルに叩きつけた。鈍い音がする。
「やめなさい、彼の正体を聞きたいだけだ」
桜山富雄はスウェットの紐をいじりながら言った。
男に髪を掴まれたまま、知花はしゃがみこんだ。無表情で富雄を見ながら鼻血を拭く。
「あんた、K制度を知っているか」
「K制度?知らないなあ」
「じゃあJ制度、もしくは元J制度は」
「それも知らない」
桜山富雄も瞳は濁っていた。
光がなく、ただ暗い。知花は目の前の男の狂気を感じると共に引っかかる点ができた。
これほど夜の街に慣れている男がうっかり子どもをつくるだろうか。
相手はホステス、政治的利用などない。
「……たちばなラボは知っているか」
「たちばなラボ?」
富雄は顎に手を当てた。その仕草はパフォーマンスにしか見えない。
「噂程度かな。政府のお気に入りの施設だとか。人体実験をしているんだろう」
桜山富雄の派閥はK制度まで教えてもらっていないらしい。説明するつもりはない。
「どうやら人違いだったようだ」
「そのようだね」
テーブルの上から、ワインのボトルを転がされる。ボトルは床へ落ち、知花の膝で止まった。
「お詫びだよ。あげる」
ありがたくボトルを拾う。
傍にいる男はすでに手を離していてタバコを吸っていた。知花はポケットからスマホを取り出し、テーブルにスライドする。それを富雄が人差し指で止めた。
背後で風を切る音がした。振り向けば、鼻先に男の踵が当たるだろう。
「だからやめろって。これは何だい?」
画面に映るは幼い女の子。
「桜山千歳。あなたの子どもです」
「僕の?」
富雄はじっと画面を見つめた。
「脱げーっ」
道尾はマツリの裾を掴んだ。
平日の街中、土日ほどではないがサラリーマンで溢れている。何人かが、道尾の叫びにギョッとして振り向く。マツリは掴まれた裾を引っ張り、無言の拒否をした。
「いやいや、脱げって。その白衣を。目立つだろうかっ」
道尾は白衣を脱いでからマツリを追いかけていた。シャツの上でネクタイが揺れる。本当はジャケットがあったが追いつくため着ることができなかった。
マツリが白衣を脱ぐと、黒いワンピースがあらわれた。が、すぐに着直す。
「おい」
「私のアイデンティティなの。脱ぐことはできない」
ぎゅっと前開き部分を握り締められたら、無理やり剥ぐことはできない。
道尾は諦めることにした。
「今から清水さんのところへ行くのか?だったら青木さんに言わなきゃ駄目だ」
「……違う。私は会いにいけない。代わりにお前が行って畑中を連れ戻せ。清水さんに頼るのはフェアじゃない」
こ、このガキ……。
道尾は、寝顔が可愛いと思った自分を呪った。
「行かせたのは青木さんだ。俺らはあの人の助手なんだから勝手はできない。って、おい」
言い終わらないうちに、マツリは駅の方面へ歩いた。高いヒールを履きこなし、足早になっている。道尾はまた彼女を捕まえようとして躊躇った。
何年も彼女と一緒に助手をして、青木と同様に彼女の扱いをわかっているはずだ。ただ、肝心なときに強く出られない。青木より遠慮をしているかもしれない。
マツリの、橘マツリの名前にびびっているのかもしれない。橘所長の娘だという彼女の苗字に。
マツリに続いて道尾も駅に降りると、首を傾げた。
「あれ?」
清水医院の最寄り駅ではなかった。初めて降りた駅だ。ホームはひとつしかなく人も少ない。改札を出ると、すぐ横にカフェがあった。最近できたのだろう。
マツリは入り口にあるメニューを見ていた。道尾と目が合うと無言で入店する。道尾は、一緒に入れってことを察して続く。
奥の席に先客がいた。派手な見た目の女性だった。足元にギターケースがある。
マツリが女性の目の前に座り、横に道尾も座った。
「ここ、注文してからですよ」
女性はこちらに向けてメニュー表を見せた。無言で立ち上がったマツリに、手で制す。
「おごります」
「ストロベリーヨーグルトティーで」
「あなたは?」と女性が道尾に話しかける。
「あ、じゃあコーヒーの小さいサイズで」
道尾は流れで答えてしまったが、さっさと注文に行く彼女を止めることはできなかった。
道尾がコーヒーを半分ほど飲んだとき、本題に入った。それまで女性の社交辞令のような話に、マツリが相槌を打っていただけだった。
「では例のもの、もらえますか?」
「いいよ。遅くなった」
マツリが白衣のポケットから瓶を取り出した。もう一つ取り出し、それもテーブルに並べる。
「間に合わなかったら刺殺しようかなって思っていたので大丈夫です」
女性は瓶を手に取り、中身を覗いていた。
「うん、確かに。マツリさんありがとう」
女性の言葉にマツリは頷く。
道尾はそこで思い出した。
女性の名前は東雪子。施設にいた実験体だった。濃いメイクでわからなかったのだ。
女性と別れ、電車に揺られる。車両に二人しかいない。窓の向こうには住宅街が広がり、さらにその向こうにマンションが見える。
「何も聞かないの?」
「毒を渡したんでしょ。あなただって手を貸しているじゃないですか」
「私はいいの」
道尾は息を吸い込んだ。
今日こそ、この小娘を叱らなければ。
勢いよく睨むと、悲しげな横顔があった。実際は能面ような真顔で景色を見ている。だが、道尾には悲しそうに見えたのだ。
「私たちは研究者。結果のために実験を滞りなく進めることが大切。でも青木さんはどうなのかしら」
電車が止まる。
人が増え、座席の隅から埋まっていく。見慣れた男が、前の車両からやってきた。
「あ……」
青木は道尾に目をくれず、マツリの前で立ち止まった。
「やってくれたな」
両手で手すりを掴み、前かがみになる。いつもの笑顔はなく、あきらかに機嫌が悪い顔だった。
「実験体がやってみたいと言うの。手助けをして何が悪い?」
マツリは相変わらず無の表情だ。
「お前、わかっているだろう。実験が進むと人が死ぬんだ。畑中までに止めたいと考えている」
「だから彼を清水医院に?」
「そうだ、清水に保護してもらうつもりだ。あの人には簡単に手が出せないからな」
「殺人脳もいるではありませんか。影響されたらどうするんですか」
「されたら、それはそれで面白い実験になるだろう」
盛大な溜め息が上から落ちてくる。
道尾は顔を上げられずにいた。青木がここまで機嫌が悪いのは、いつぶりだろうか。
「私は、お前らが大事なだけなのに……」
小さな呟きは電車の音で消され、助手達に届かなかった。
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