エピソード2.考える花

血の記憶



 時は遡る。


 畑中からお願いされた次の日、知花は明泥園に向かっていた。ホームページで住所を確認しながら電車を乗り換える。

集中しなければならないのに、どうしても畑中のターゲットを思い出す。


知花には、ある期間から記憶が削げ落ちていた。

ある期間、正しくはある事件。

 地下の道を、人の流れに合わせて歩く。

見上げると看板に目的の線の色がなくなっていた。どこかで道を間違えたらしい。舌打ちして、そのまま階段を登って地上へ出る。

 秋風を真正面に受けながら、地図アプリを開いた。地上の方が建物があってわかりやすい気がする。遠回りになるが、反対方向の出入り口へ向かった。

 事件の前の記憶も曖昧になってしまった。事件があったのは高校二年生の秋。少なくとも、高校一年生の記憶ははっきりしている。

高校二年生のクラスの場所も覚えている。

ただ、クラスメイトの顔がはっきりしない。元々、人の名前と顔を覚えるのは苦手だ。四月中はその場で覚えきれず、こっそりと名前と席順をメモしていた。

メモを見返しても、顔が思い浮かばない。 

ただ、畑中のターゲットを見たとき、クラスメイトだと直感した。

もしかしたら自分がなくした記憶を知っているかもしれない。

期待一割、恐怖九割。

知花は下唇を噛んで、地下に降りて行った。






 明泥園があるであろうマンションに到着する。

道端で見上げていると、遠くの方から子ども達の声がした。大人二人の両手に、それぞれ小さな手が握られている。若い方の大人の背中には、おんぶ紐で括られた子どもが暴れていた。


「きいーっ」


「はいはい、もう着くから我慢してね」


 赤ちゃんと呼べない男児が不満げに叫ぶ。おんぶ紐が肩に食い込み、見ているだけで痛そうだった。

もう一の大人は初老の女性だ。申し訳なさそうに見ているが、彼女の枯れ木のような体だと支えきれないだろう。

彼女達はマンションに入っていき、やがて最上階のある部屋の電気がつく。


 知花は確認した後、静かにそこを離れた。

桜山千歳の姿は確認できた。まだ生きていた。

昨日、畑中の話を聞いた時、簡単だと思った。ターゲットの方を保護してしまえばいいんだ。むしろ、ターゲットを餌にしてケイトをおびき寄せてもいい。

しかし問題がある。幼い子どもを攫うことが難しい。当たり前だけど、桜山千歳はがっちり女性と手を繋いでいた。

まずは情報収集をしなければ、と足早になる。






 桜山千歳。

父親は政治家の桜山富雄。三十代と若く、白い歯が眩しいポスターが印象的だ。既婚者なのにホステスとのあいだにできた子ども。

それが桜山千歳だった。


 知花は無意識に、高校の最寄り駅に着いていた。明泥園からさらに埼玉に向かったところにかつて星因学園はあった。私立で規模が小さく、一学年二クラスしかないので数字ではなく星組と月組という風に分かれていた。

 通学路を辿り、学園の前まで足元を見ながら歩いた。

やがて学園の前に止まる。そこは空き地になっていた。テープが貼ってあるだけで誰でも入れる。

 土がむき出しになっている地面を見て、地域がこの土地を持て余していることがわかった。駅から遠いので店に向かない。だったら分割して住宅にすればいいが、誰が悲惨な事件のあった跡地を買うのだろうか。

いつか、人々の記憶が薄れた頃の売りに出すのかもしれない。


 知花は目を瞑った。

教室に入る前に、扉についている血に気づく。

開けちゃダメだ、と冷静な自分が訴えていたけど間に合わなかった。

 血って本当に鉄の匂いがするんだ、が最初に思ったことだった。

教室内の机や椅子は転がり、あいだに死体が積み上げられていた。窓にひっついた死体や、ロッカーの上で丸くなっている死体もある。

 二年星組は惨殺されていた。

足を踏み入れた途端、すっ転ぶ。

 床に広がる血が滑っている。知花は死体に触れ、一人一人確認した。

 あの子を探していた。 

手と腕が真っ赤に染まる。赤いものが爪のあいだに詰まる。段々と匂いに慣れ、作業のように死体の顔を確認していった。教卓に、担任の死体があった。背後に女子が数人隠れている。担任は庇うようにして絶命していた。教師の鏡だ、と開いていた彼女の目を閉じさせた。


いない。


いない。


いない。


 あと二、三人しかいない。また転んだ。今度は立てなかった。腰が抜けたのだ。

はっ、と乾いた笑いをしたところまで覚えている。


「知花勇君?」


 前方の担任の席に、男が座っていた。

見知らぬ男だ。まだ若く、二〇歳前後に思える。

確かめるように名を呼ばれたが、返事はできない。

男は知花に近づき、手を伸ばす。全身についている返り血はまだ乾いてなく、知花に降りかかった。

知花は酸欠になっていた。長距離を全力で走っている最中、違うことを考えている気分だ。


「……―がいつもお世話になっているね」


 大きい手が、顔を覆う。

お世話になっているって誰のことだろうか。

意識が消える前、最後に感じたのは薬品の匂いだった。











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