6日目
第18話.ナターニアの決意
子どもができた。
嘘だろうという思いと、嬉しいという思いが交錯している。
自分が親になるなんて、まだ漠然としていて現実味がない。
妊娠は隠し通すことになった。
契約条件を考慮すれば致し方のないことだが、いずれ必ず周囲を納得させなければ。
ひとつの、大きな、大きな責任を背負ったのだから。
それに相応しくありたいと、そう、願うだけだ。
◇◇◇
アシェルが眠っている。
眠る彼の顔は青ざめていて、安穏とはほど遠い。
それでも、ようやく症状は落ち着きつつあった。
薬を処方した医者も、今は部屋を出ている。彼の傍にはスーザンではない侍女だけが留まっている。
ときどき、アシェルの様子を見て、熱を確かめ、汗を濡らした布で拭き取って世話している。
ナターニアは、アシェルが横たわるベッドのすぐ傍に佇んでいる。
ぼんやりとアシェルを見下ろすナターニアの顔の横を、お猫さまがふわふわと浮いている。
『ナターニア……』
昨晩の夕食の席で、アシェルが毒を飲んで倒れた。
飲み物に毒を入れたスーザンは屋敷を飛び出し、姿を消した。
ナターニアはずっとアシェルにつきっきりだった。
だが日付が変わる時間になれば、ナターニアはしばらく記憶の整理のために消えてしまう。
数時間後に侯爵家の邸宅の前に戻ってきたナターニアは、すぐさまアシェルの寝室へと引き返した。
それから、また、数時間が経過している。
ナターニアは動けないままだ。アシェルを見下ろしたまま、身動ぎさえもしない。
「…………どうして、なんでしょう。お猫さま」
数十時間ぶりに、ナターニアは声を発した。
喋ることを忘れてしまったように、声は聞き取りにくく掠れていたが、傍らのお猫さまには届いている。
「わたくしは、苦しむ旦那さまの手を……握ることもできません」
本当ならば、今すぐにアシェルを抱きしめたい。
冷たい手を取り、大丈夫だと呼びかけたい。傍に居ると伝えたい。
丸い額を流れる汗を拭いてあげたい。彼の苦しみを、ほんの少しでいいから和らげたい。
ナターニアは自分の手を見つめる。
下の絨毯の模様までも透けて見える幽霊の手。
こんな手では、アシェルに触れられない。
『ぼくを恨んでる?』
ぼんやりとするナターニアに、お猫さまは容赦なく続ける。
『ナターニアが幽霊になって戻ってこなければ、スーザンはあんなこと、しなかったのかもしれない』
「……っ!」
ぎゅ、とナターニアは唇を噛み締める。
顔のあたりが爆発的に熱くなって、涙が出そうになる。
(スーザンはどうして、旦那さまに毒を盛ったの?)
――『奥様はあなたの子を妊娠していました』
――『だから奥様は死んだのです』
本当にそれが理由なのだろうか。
スーザンはナターニアと子どもの復讐のため、アシェルを殺そうとした?
(でもわたくしの体調は、悪くなかった)
確かにナターニアは病弱な女だった。
だが、数か月前から体調は緩やかに安定していた。私室とドレッシングルームを往復し、窓からたくさんの日射しを浴びて、苦手なものでも食べるように努力した。
助産師としての経験があるスーザンに支えられながら、ナターニアは出産に向けて準備を整えていた。
だから――本当は、ずっと疑問に思っていた。
(
自分が死んだときの記憶は、どこか曖昧だ。
前にお猫さまが、七日目の夜には、自分が死んだ日のことを見るだろうと言っていた。
そのときになれば詳細も思い出すのだろうと、漠然と考えていたけれど。
ナターニアが死ぬとき、スーザンだけは傍に居たはずだ。
彼女だけは、ナターニアが死んだ本当の理由を――真相を、知っているのではないだろうか。
(それが、スーザンが旦那さまに毒を盛った本当の動機なのかもしれない)
だからこそ、戻ってきたナターニアを前にスーザンは追い詰められた。
そう考えれば、このタイミングでスーザンが凶行に及んだのにも説明がつく。
考えをまとめたナターニアは、ゆっくりと顔を上げた。
「……お猫さま。わたくし、お馬鹿でしたわ」
アシェルが盛られた毒は、多種類の毒を持つ薬草が調合されたものであり、解毒の術がないという。
つまりスーザンを見つけて早急に解毒薬を得なければ、アシェルは助からない。
スーザンの部屋は、すでにアシェルの従者たちが一通り調べている。
アシェルは意識を失っており、毒について証言できなかったが、状況はスーザンが犯人だと物語っていたからだ。
スーザンは、他の給仕に眠り薬を嗅がせていたらしい。
捜索隊が組まれ、姿を消したスーザンの行方を追っているが、今のところ屋敷に吉報は届かない。
それならば、ナターニアがやるべきことはひとつ。
「わたくしが旦那さまを助けなければ」
アシェルのことは心配だが、ナターニアが一緒に居たって何もできない。
なら、ここで悲しんでばかりはいられない。
『ナターニア。ひとつだけ聞かせてくれるかい』
「はい、お猫さま。なんでしょう?」
青い硝子玉の瞳が、ナターニアを見つめている。
真剣な表情のお猫さまと、ナターニアは向き合った。
『君は、子どもを望んでいたの?』
躊躇うことなく、ナターニアは肯定した。
「はい、もちろん」
ぴくっ。
ぴく、ぴく、とお猫さまのヒゲが動く。その可愛らしい様子を、ナターニアは笑顔で見ていた。
ひとりだったなら、きっとすぐに立ち直ることはできなかっただろう。
いつまでもアシェルの傍でべそをかいて、動けずにいたかもしれない。
(お猫さまには、助けていただいてばかりですね)
自分は見張るだけだ、と言いながらも、お猫さまは必要なときに言葉をくれる。
(そんなあなたを、恨んでいるわけがないのに)
『……そうか。それで、アシェルを助けるっていってもどうするの?』
「エルフの秘薬を探しに行こうかと」
気軽に口にするナターニアに、お猫さまはぽかんとしている。
『エルフの……秘薬ぅ?』
「そうです。エルフの秘薬です!」
意気揚々とナターニアは拳を握り締める。
そんな彼女を見て、お猫さまは『いつもの調子が戻ってきたな』とぼやく。
その声もどこか弾んでいるのを、本人も自覚していなかったが。
「旦那さま、ナターニアは行ってまいりますっ」
もちろん、返事はないけれど。
大好きなアシェルに向けて、ナターニアは伝える。
「必ずここに戻ってきます。ですので、もう少しだけご辛抱くださいませ」
そう言い残すと。
ピンクブロンドの髪をした幽霊は、颯爽と寝室を出て行くのだった。
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