第17話.噴き出す恨み
一瞬、ナターニアは安堵した。
アシェルはスーザンの企みに、ちゃんと気がついている。
そう思うと同時、すぅっと指先が冷たくなっていった。
(スーザンは、旦那さまのお飲み物に何を入れたの?)
悪意を持ってスーザンは、給仕に臨んでいたのだ。
(どうして、そんなことをするの?)
確かにスーザンは、アシェルを嫌っていたかもしれない。
しかし食事に何かを盛るというのは、その領域から完全に外れている。
スーザンの表情は硬い。
額や頬に脂汗がにじんでいる。まさかアシェルに気づかれるとは思っていなかったのだろう。
無意識なのか、空っぽになった小袋を入れた隠しに片手で触れている。
アシェルはそんなスーザンを眺めて、静かな声で言う。
手の中で、マグカップを揺らして。
「動機は、想像がつくが」
妙に淡々としているアシェルに、ナターニアはぞっとする。
なぜアシェルはこうも落ち着いていられるのか。すぐに人を呼んで対処すべき、ゆゆしき事態のはずなのに。
アシェルは、スーザンの答えをほしがっているように見える。
「……動機なんてひとつです。私は今まで、奥様のために生きてきたのですから」
果たして、スーザンは口を開いていた。
「俺をずっと恨んでいたんだな」
「当たり前でしょう。だって――」
冷たく凍ったような瞳で。
スーザンはその続きを、一息で口にする。
「
ナターニアの息が詰まる。
胸に鉛がつっかえる。喉が苦しくなる。
死してなお、消えない苦痛が全身を満たしていく。
それはこの場に居る人間以外、誰も知らないことだったから。
「
アシェルは、否定しなかった。
眉間に皺を寄せて、わずかに頷くようにした。
「そうなんだろうな」
「……違います」
アシェルとナターニアが、同時に呟く。
二人分の声が重なって聞こえただろうスーザンだけが、ぴくりと目蓋を震わせる。
そんなスーザンにではなく、アシェルに向かって、ナターニアは繰り返す。
「違います。違うのです、旦那さま」
大きな溜め息を吐いたアシェルが、マグカップを傾ける。
「旦那さま、違うのです。そうではありません」
絨毯の上にこぼすのだろうと思っていた。
誰もがそう思ったはずだ。
だが、アシェルは口を開けていた。
彼はその中身を一気に飲み干していた。喉仏が動き、液体を嚥下する音だけが、しばらくその場に響く。
ナターニアには、目の前で何が起こっているのか分からなかった。
「……どうして?」
コーヒーに何かが仕込まれていると。
アシェルは気がついていたはずだ。
それなのに自分から、口に含んだ?
……ごほっ、とアシェルが咳き込んだ。
口元から、たらりと赤いものが伝う。
ナターニアはこぼれ落ちんばかりに目を見開き、それを凝視していた。
顎から伝い落ちたのは血液だった。
アシェルの手からマグカップが落ちる。
硝子が割れる音はしなかった。絨毯の上に落ちて、物音は吸収されてしまう。
椅子にもたれたまま、アシェルは何度も吐血する。
呆然としながら、ナターニアは手を伸ばした。
「どうし、て? 旦那さま」
半透明の手は、苦しむアシェルに触れられない。
だからナターニアの震える声が、聞き取れたわけではないだろう。
それなのに確かに、アシェルは返事をした。
「俺も、楽になりたかった」
そう囁くように呟いたきり、アシェルが目を閉じる。
弾かれたようにナターニアは振り返った。
蒼白な顔色のままスーザンは二の腕を擦り、全身を小刻みに震わせている。
目的を達成した高揚感のようなものは感じられない。歯の根が合わないようで、口元からがちがちと音が鳴り続けている。
「スーザン……どうして」
「あの男はっ、奥様の死に目に立ち会いもしなかった!」
ナターニアの声を遮って、スーザンが叫ぶ。
それこそ血のにじむような声音だったが、本当に血を流しているのはアシェルだ。
それなのに苦しげに叫ぶスーザンを、ナターニアは信じられない思いで見つめる。
「あの男がようやく屋敷に戻ってきたとき、すでに奥様は冷たくなっていらっしゃった!」
「っ……わたくしは恨んでなんていないわ!」
言い返すナターニアの瞳から涙が溢れた。
頭の中心が燃えているような気がする。脳が痺れて、怒りと悲しみが弾ける。
ではすべて、夫の手を握れずに死んでいったナターニアのためだというのか?
ナターニアのせいで、スーザンはこんな凶行に及んだというのか?
(そんなの、わたくしは望んでない!)
「あ、あなただけはわたくしの味方だったじゃない。赤ちゃんができたときだって、自分が支えるって言ってくれたじゃないっ!」
掠れ声で叫べば、スーザンが目を背ける。
ナターニアの声がしないほうばかりを見る。
そうだった、と思う。この数日間、何度も何度もスーザンは、ナターニアから目を逸らしていた!
「信じていたのよ、スーザンッ! あなたを頼りにして、わたくしは――」
「……ごめんなさい、奥様」
それだけを言い残して、スーザンがダイニングルームを出て行く。
「ま、待って。解毒剤は!」
スーザンは薬師だ。
彼女がアシェルに毒を飲ませたなら、必ず解毒剤も一緒に用意しているはず。
「命令よスーザン。今すぐ戻って。旦那さまに解毒剤を!」
だが返事はない。
ナターニアは追いかけようとしたが、足がもつれた。
その場に倒れ込むナターニアに、頭上から声がかけられる。
『スーザンは居ないよ、ナターニア。屋敷を出て行ったみたい』
教えてくれたのはお猫さまだった。
悲しげなお猫さまの目が、ナターニアの背後を見やる。
その視線の先に、大量の血で胸元を汚したアシェルの姿があった。
「あ、あ、あぁ……」
固く閉じられた目蓋が、開くことはない。
深く鮮やかな色を宿す瞳は見えない。二人で笑い合ったことさえ、遠い昔のように感じる。
このまま――アシェルが遠くに行ってしまうような気がして。
歯を食いしばってナターニアは立ち上がった。
「誰か早く来て! お願い! 旦那さまが死んじゃう!」
夢中で人を呼ぶ。
喉が痛くなるくらい声を張り上げて、誰か、誰か、と呼び続ける。
「誰かあぁ!!」
金切り声でナターニアは助けを呼び続ける。
その声は誰にも、届かなかった。
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