第16話.悪意の手

 


 今日は外出することなく、アシェルは執務室での書類仕事を終えていた。

 その姿を、ナターニアはカーテンの裏に隠れて何時間も見守っていた。何時間見ていても飽きないからだ。


「はあぁ、何をしていても旦那さまは本当に格好良いです……」

『それはいいけど、ソファに座ればいいんじゃ……』


 ナターニアの奇行の数々に慣れたお猫さまは、律儀に指摘している。

 執事に呼ばれ、ダイニングルームに向かうアシェルの後ろをナターニアはついていく。


 ここでのナターニアの定位置は、窓際に置かれた植木鉢の影だ。

 窓の外はすっかり暗くなっている。あと数時間もすれば、五日目も終わりだ。


(そうしたら、あと二日……)


 別れのときは迫りつつある。


「お猫さま。七日目も、やはり日付が変わるときにわたくしは消えるのでしょうか?」

『えっ。よく分かったね』

「うふふ。それほどでも!」


 えへんするナターニアだが、お猫さまが存外に「気づかないと思ってた」と言っていることには思い当たっていない。


「それならば最終日は、旦那さまの寝室に忍び込んでお別れを伝えに――って、わたくしったら! 破廉恥すぎますわね!」


 自分で言っておいて照れてしまうナターニアである。


 しかし最期の瞬間くらい、しっかりとアシェルの顔を見ていたい。

 それもまた、ナターニアの後悔のひとつなのだから。


『まぁ、いいんじゃない? 最後の日くらい』


 お猫さまはもにゅもにゅと口元を緩ませている。

 なんだかんだ、お猫さまはいつだってナターニアのやることに反対しないのだ。


「あら、スーザン」


 ナターニアが呼びかけたタイミングで、スーザンが室内に向かってぺこりと頭を下げる。

 夕食の給仕はスーザンも担当するらしい。係の者と替わってもらったのだろうか。


 一瞬、見慣れない顔にアシェルは怪訝そうにする。

 だがそれが、ナターニアが実家から連れてきた侍女だと気がついたのだろう。すぐに視線を戻した。


(スーザンも、旦那さまへの考えを改めてくれたのかしら)


 あまりアシェルに好感を抱いていない様子のスーザンだったが、心変わりしてくれたなら嬉しい。


 七日間を終えれば、ナターニアは居なくなる。

 でもしっかり者の侍女であるスーザンが、ナターニアの代わりにアシェルを見守ってくれる――そう思うと、ナターニアの気持ちも少しだけ和らいだ。


 食事の準備が整えられる。

 ナイフとフォークを手に、アシェルは淀みなく食事を口に運ぶ。

 空いた皿は即座に片づけられ、銀色のワゴンから次の料理が運び込まれる。


「旦那さまは、お食事する姿も優雅で素敵ですわ……!」


 興奮しすぎるナターニアはそろそろ目まいを起こしそうだ。


 フルーツのあとは、食後のコーヒーの時間だ。

 ワゴンの前で、スーザンがアシェルに背中を向けた。

 そのとき、スーザンが懐から小袋のようなものを取り出した。


(……あら?)


 不思議に思ったナターニアは、スーザンの傍らに立つ。


 スーザンはマグカップの中に、その中身である白い粉末のようなものを素早く落とした。

 コーヒーの色が、どこか澱んだ色へと変化していく。感情の覗かない瞳で、スーザンはじぃっとカップを見つめている。


 ……何か、いやな予感がした。


 振り返っても、アシェルは気がついていない。

 そもそも隠れてやっている時点で、アシェルが指示したものではないということだ。


「スーザン、それは……何?」


 ナターニアは、震える喉を押さえて問うた。

 なるべく柔らかい声が出るよう、努力したつもりだった。


「今、コーヒーに何を入れたの?」


 聞こえているはずだ。

 ナターニアの協力者に選ばれたスーザンならば、幽霊の声だって聞こえるのだから。


 それなのにスーザンは無表情のまま、湯気の立つコーヒーを運んでいく。

 スーザンの後ろをナターニアは追う。


「スーザン、ねぇ、答えてちょうだい。スーザン?」

「…………」


 そのはずなのにいつまでも、スーザンは答えない。

 正面を見つめるだけの暗い瞳。真一文字に引き結ばれた唇。


 焦燥感のまま、ナターニアは声を上げた。


「お猫さまっ。わたくしの声は、スーザンに届いておりますわよね?」

『もちろん、そのはずだよ。でも……』


 宙に浮いたお猫さまも、スーザンのことを不安そうに見つめている。

 お猫さまにも、この状況が理解しかねるようだ。


「スーザン。ねぇ、わたくしの声が聞こえてるなら、右手の指だけ動かして合図して!」


 反応はない。

 聞こえていないのではなく、無視しているのだ。震える睫毛を見て、ようやく気づいた。


 テーブルの上に、ことりとソーサーごとマグカップが置かれる。

 アシェルはいつもブラックで飲むから、スプーンや砂糖はない。


 なんの疑いもなく、アシェルがマグカップを持ち上げた。


「だ、旦那さま。飲んじゃだめです旦那さまっ」


 焦ったナターニアは周りを見回す。

 だが、近くに他の使用人の姿はない。違う。スーザンがそれを狙ったのだ。


 ナターニアのすぐ後ろに、お猫さまが浮かんでいる。

 青い硝子玉の瞳だけが、ナターニアを捉えている。


「お、お猫さま。わたくしの声をどうか旦那さまに届けてください!」

『ナターニア……』

「今だけで構わないのです。お願いします!」

『それはできないんだよ、ナターニア』

「…………っ」


 唇を噛み締めたナターニアは、また思いついた。


(もう一度、お猫さまを投げれば!)


 そうだ、マヤのときのように、お猫さまがカップにぶつかれば。

 もしかしたら、お猫さまやアシェルが火傷してしまうかもしれない。


 そのときは何度でも謝ろう、とナターニアは思う。

 何十回でも、何百回でも、何千回でもお詫びする。二人を傷つけた自分が地獄に落ちてもいい。


 それでもいいから、と。

 ナターニアがお猫さまに伸ばしかけた腕が、止まる。



「このコーヒーには、何が入っているんだ?」



 マグカップの中身を傾けて。

 アシェルがそう、呟いていたから。



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