5日目
第15話.募るばかりの未練
ひとつのベッドに、二人で横たわっている。
夫婦が迎える初夜なのだから、当然のことだ。
だが、自分たちの結婚には契約条件がある。一般的な夫婦のように、お互いの肌が触れ合うことはない。
そう分かっているのに……目が冴えていて、いつまでも眠れない。
緊張する。騒がしい鼓動の音で、すぐ隣で眠るその人を起こしてしまわないかと不安で仕方がない。
自分に、こんなに人間らしい感覚が備わっていたことを、初めて知った。
くるりと、その人が頭を動かす。
身体ごと向きを変えたのを見て、眠れなかったのは自分だけではないことに気がついた。
青白い月光に照らし出されたその姿は、どんな芸術品よりも美しかった。
見惚れていると、形の良い唇がゆっくりと開いていく。
そして。
その夜、二人だけの、約束を交わした。
◇◇◇
『――ナターニア、顔が赤いよ』
お猫さまに指摘されて。
今朝も植木鉢の影に隠れていたナターニアは、「はわっ」と頬を押さえる。
指摘された通り、そこはとんでもなく熱かった。発熱しているようだ。
それに心拍数のほうも大変なことになっている。
胸のドキドキが治まらない。挙動不審なナターニアのことを、お猫さまは不審げに見ている。
(でもでも、まさか、式のあとのことまで夢に出てくるなんてっ)
あのとき、アシェルも起きていたなんて、いったい誰が想像できただろう?
恥ずかしくて、幸せで、ナターニアの顔からは湯気が出そうになる。
アシェルは今日も今日とて格好良い。
新聞をめくる彼の表情が、どことなく穏やかに見えるのは、きっとナターニアの気のせいではない。
昨日、二人で声を上げてずっと笑っていた。
笑うアシェルは普段よりも幼げで、可愛かった。
死んでからも、ナターニアはアシェルのことがどんどん好きになるばかりだ。
「ど、どうしましょうお猫さま。わたくし、風邪を引いてしまったのやも」
『幽霊は風邪引きませーん』
お猫さまはいつだって冷静に突っ込む。
『ていうか風邪引くならぼくのほうでーす』
しかし今日はいつもと異なりいやみったらしい。
昨日、マヤに向かって投げつけられた挙げ句、池の中に落ちた件について、お猫さまは根に持っていた。
「そ、その件については申し開きのしようもございませんんんっ」
ナターニアはその場に膝をついて土下座する。
あのときは他に方法がなかったとはいえ、恩人であるお猫さまを投げつけてしまったのは事実なのだ。
反省しているのが伝わったのか、そっぽを向いていたお猫さまはちらりと視線を投げてくると。
『……ま、いいけどね。でも二度とぼくに触っちゃだめだから』
「えー」
『えーじゃない』
ぴくぴく動く耳やヒゲは、いつだってナターニアを誘惑する。
それにお猫さまはたいていの場合、宙に浮いているので、ぷにぷにとした小豆色の肉球も見え隠れするのだ。
「これでは、生殺しというやつです……!」
『生殺しじゃなくて、もう死んでるけどね』
じたばたするナターニアは、ダイニングルームをこっそりと覗く影に気がついた。
「あ、スーザン」
呼びかけると、スーザンがびくりと震える。
午前中はいつもアシェルの傍に居ると伝えてはいるが、びっくりさせてしまったようだ。
慌てて頭を引っ込めるのは、アシェルに気づかれるのを恐れたからだろう。
廊下に出たナターニアは、朗らかに話しかける。
「スーザン、どうしたの? 旦那さまに何か用事?」
「あ、いえ……」
お仕着せ姿のスーザンがぎこちなく首を傾げる。
その目線がゆっくりと泳いだ。ナターニアの居ないほうを見ている。
「あの、奥様は、いつまで現世に留まることができるのですか?」
そういえば、スーザンには協力をお願いするばかりできちんと説明していなかった。
「ええとね。ここに居られるのは七日間だけだから……今日を入れてあと三日だけなの」
言葉にすると、急に心許ない気がする。
自分でも現金だとは思う。最初、七日間と聞いたときは、またアシェルに会える奇跡に感謝していたのに。
今は七日間では足りないと思ってしまっている。もっとアシェルの傍に居たいと、執着せずに居られない。
スーザンは黙ったままだ。
怒っているのかもしれない。ナターニアは両手を振りながら付け加えた。
「伝えるのが遅くなって、ごめんなさい。最初に言うべきだったわよね!」
ナターニアが居なくなってから、泣いてばかりいたスーザンだ。
きっと別れを惜しんでくれているのだろう。そう思うと、ナターニアまで涙ぐみそうになったが。
(あら?)
スーザンは、怒っていなかった。
それに悲しんでもいないようだった。
注視してようやく分かるほどの微笑みが、口元に浮かんでいる。
しかしスーザンは、すぐに唇を引き締めた。笑みは、表情が変化する過程に過ぎなかったのだろうか。
「再婚相手については、引き続き探されますか?」
「……ごめんなさい、スーザン。それはもういいの」
すでにナターニアは、アシェルの再婚相手を見繕う気をなくしていた。
アシェルは両親に向かってそれを否定したし、マヤのことも振り払った。
(わたくしは、旦那さまに、幸せになってほしかった)
やり残した、大切なこと。
でも死んだ以上、ナターニアには果たせない。
そのために短絡的に考えたのが、彼の再婚相手を見つけるということだった。
でも、違う。
本当の願いは、そんな他人任せのものではなかった。
アシェルを誰かに譲りたいなんて、思ったこともない。
(他の誰でもない――わたくしが、旦那さまを、幸せにしたかったの)
「……どうしてわたくしは、死んじゃったのかしら」
ぼそり、とナターニアは独り言をこぼす。
医者が下した、成人を迎えられないという診断を、ナターニアは乗り越えた。
だからこそ――その先の未来を、アシェルと共に生きていこうと決意していた。
「部屋の中を歩いて、苦手な食べ物もたくさん食べて、がんばったのにね」
(神様なんて、居ないけれど)
もし居るのだとしたら、とんでもなく意地悪だと思う。
生きる希望も何も、見出せなかったときに、ナターニアの命を奪ってくれれば良かったのだ。
アシェルに出会っていなければ、ナターニアは後悔なんてしなかっただろう。
ナターニアはおかしくなって、微笑む。
(あと三日間で、後悔を振り切ることなんてできるのかしら?)
むしろ未練は募るばかりだというのに。
だから、アシェルのことを考えるナターニアは最後まで気がつかなかった。
小さな独り言を耳にしたスーザンの顔が、蒼白になっていることに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます