第14話.笑い合う声
それがなんの音なのか、最初、ナターニアには分からなかった。
マヤが呆然と赤くなった手を包むのを見て、ようやく気がつく。
アシェルが、マヤの手を振り払ったのだと。
「……どうして?」
「その汚い口を閉ざせ。お前こそ恥ずべき女だ」
侮辱を受けたマヤの顔が、一瞬にして赤く染まる。
そんなマヤを、煩わしげにアシェルは見やる。
「な、何をっ!」
「お前は以前、彼女の友人だと名乗ったな。だから今まで、数々の愚行に目をつぶってやっていたものを」
「んまぁ!」
――と、驚きの声を上げたのはマヤではなくナターニアだ。
なんせ病弱で友人の少ないナターニア。これには舞い上がるほど喜んでしまう。
「お猫さま! マヤ嬢がわたくしを友人と言っていたのですって!」
『ここ、絶対はしゃぐ場面じゃないから!』
お猫さまが注意を飛ばす。
「そ、そうですわよね」
アシェルの発言の意味を、しょんぼりしつつナターニアはちゃんと考える。
(ええと、ええと)
つまり。
アシェルがマヤのことを尊重していたのは――マヤをナターニアの友人だと思っていたから?
(……え? それって……)
「この毒蛇め。二度と我が家に這入り込むな。妻を愚弄するな。次に妄言を口にしたときは、その舌ごと引き抜いてやる」
「……っ」
ナターニアが戸惑う間にも、アシェルは辛辣な言葉を投げ続ける。
だがマヤは顔を引きつらせながら、気丈にもアシェルを睨みつけた。
それこそ、本当は不満を抱いていたはずのアシェルの胸の内を引き出すかのように。
あるいは、もう後戻りができなかったのかもしれないが。
唾を飛ばす勢いでマヤが叫ぶ。
「し、死んだ女は、もう妻ではないでしょう!?」
「――――、」
すぅ、とアシェルの目が細められる。
全身から立ち上るのは、憤怒と呼んでは不足する明確な殺意だった。
薄い唇に冷笑が浮かぶ。
ぞくりと全身の肌が粟立つほどの迫力に、ナターニアは身体を震わせた。
「……貴様、よほど命が惜しくないと見える」
アシェルの手は、すでに剣の柄に添えられている。
マヤは震えたまま硬直している。彼女もここまでアシェルが怒り出すなんて予想外だったのだ。
もちろん、ナターニアにとっても予想外なのだが――だからこそ、冷静さも取り戻す。
(いけない……!)
おそらく、アシェルはマヤを斬る気だ。
殺しはしないだろう。だが未婚の令嬢に傷をつけたとあれば、アシェルへの非難の声は続出するはず。
もはや考えている暇はない。なんとしてでも、アシェルが剣を抜く前に止めなければならない。
(で、でも。どうしたら。どうしたら旦那さまをっ……!)
今からスーザンを呼びに行っても間に合わない。
だからといってナターニアが叫んでも、触れようとしても、アシェルには届かない。
それでも、ナターニアにできることがあるとしたら。
アシェルを止める方法があるとしたら。
「お、お、お猫さまぁっ」
『っうん!?』
ひっくり返った声でその名を呼びながら、ナターニアはお猫さまに駆け寄ると。
「本当に、あの、申し訳ございませんんんんっっ!」
『え?! な、なに――』
裏返った悲鳴を上げながら、ナターニアはお猫さまの首根っこをむんずと掴む。
その初めて触れる柔らかさ、温かさを味わう暇もないまま、ナターニアは投擲していた。
『んにゃあああああッ!?』
お猫さまの軽い身体が吹っ飛んでいく。
それは、ナターニアの考えが当たっていたことを意味している。
――『君が生きている人に触れたり、逆に誰かが君に触れることもできないね』
お猫さまはそう言っていた。
だがナターニアの吐息はお猫さまの耳を揺らしていた。お猫さまになら、問題なく触ることができるのだ。
それと同時に。
ナターニアを監視する立場のお猫さまであれば、実は物質に触れられるのではないかと思っていた。
期待を背負って、きれいな放物線を描いて飛んでいくお猫さま。
本当はアシェルの背中にぶつかってもらって、彼を冷静にさせるつもりだった。
しかし何かを投擲するなど、今までやったこともないナターニアである。
コントロールがうまくいくはずもなく、お猫さまの身体はその勢いのまま――マヤの横っ面へと激突していた。
「ぎゃふむっ!?」
丸まったお猫さまを喰らったマヤが、素っ頓狂な悲鳴を上げる。
そのまま彼女の身体は勢いよく、小川の中へ落ちていき――、
――ざっばーん、と嘘のような水しぶきが上がる。
「まぁ、虹……」
手で庇を作るナターニアの傍で、アシェルは顔に水滴を喰らって水浸しになっている。
川の中で尻餅をついたマヤはといえば、しばらく俯いたままだった。
「……おい、マヤ・ケルヴィン嬢?」
さすがに放っておくのは忍びなかったのか、アシェルが声をかける。
が、手は差し出そうとしない。それに気がついたマヤが、厚い唇を震わせる。
濡れ鼠になったマヤは、ひとりでふらふらと立ち上がる。
『きゅう……』
「お、お猫さまっ」
彼女のスカートの中で目を回していたお猫さまが、ぼしゃんと川に落ちたので、ナターニアは駆け寄った。
しかし抱き上げようとする前にお猫さまは目を覚まし、慌てて宙に浮き上がる。
『ちょっと! ぼくを投げるとか、信じられな――』
「……信じられない」
そのとき。
お猫さまの文句に被せるようにして、マヤが地を這うように低く呟いた。
きれいに巻かれていた髪の毛はすっかり乱れ、休まず水滴がこぼれ落ちている。
マヤは、メイクがどろどろに溶けた顔を上げると。
「よくもっ、このあたくしを虚仮にしてくれたわねえ――――っ!」
ぎろり、と血走った目でアシェルを睨みつけたマヤ。
その口から、弾丸のように言葉が発射される。
「こっちは侯爵だから相手にしてやったっていうのに! そうじゃなきゃ誰があんたみたいな陰気で根暗でなんのおもしろみもない男やもめに近づくもんですか! バッカじゃないのこっちからお断りよ! 二度とあたくしの視界に入り込むんじゃないわよクズ男ッ!」
長い捨て台詞を吐きながら、水を吸って重そうなドレスを引きずりマヤが全力で逃げていく。
階段を下りつつも、遠くのほうからありとあらゆる罵詈雑言が聞こえてきたが……やがて、それも聞こえなくなった。
ぽかんとしていたアシェルが、口元に手をやる。
その長身が、ぷるぷると震えていた。
「……っく」
最初は耐えきれないように、一息分だけがこぼれる。
だが、三秒後には疑いようもなく。
「……く、はは。はははは」
アシェルが、喉を震わせて、背中を丸めて笑っていた。
濡れそぼって顔に髪が張りついたせいか、その笑顔はずいぶんと幼く見える。
「はは。ははは……」
「だ、旦那さまったら。もう、マヤ嬢に失礼ですわよ。そんなに笑っ……」
アシェルがあんまりにも楽しそうだから。
止めようとしたナターニアまで、途中で噴き出してしまう。
「うふふ。うふふっ、ふふっ……」
マヤに悪いと思うのだが、お腹の底から込み上げてくる笑いがどうにも抑えられない。
『ナ、ナターニア? アシェル?』
笑い続ける二人を、お猫さまは困ったような顔で見つめている。
「な、なんなんだ。いきなり触ってきたかと思えば、自分で川の中に吹っ飛んでいって」
「ち、違いますの。あれはわたくしのせいでして、っふ、マヤ嬢が自分から飛び込んだわけでは」
「痴女の奇行というのは、凄まじい。はは、常人が想像もつかないようなことを平気でやってのける」
「いけません、旦那さまったら。嫁入り前のご令嬢を、痴女、などと……っ」
笑いすぎて、二人とも苦しくなって蹲る。
マヤは今まで、たくさんの自慢話をしてきた。
ナターニアの知らないアシェルのこと。ナターニアが見たことのないアシェルのこと。
(そのたび、心のどこかが、すり切れていたのかもしれない)
だけど、とナターニアは思う。
こんな風に顔を思いきり歪ませて、声を上げて笑うアシェルのことだけは……きっとマヤも、他の誰も知らないはずだって。
――アシェルに、ナターニアの声が聞こえていないとしても。
二人分の笑い声はいつまでも重なって、丘の上をたゆたっている。
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