3日目
第9話.王都に向かいます
ひとりきりの部屋は、明かりをつけていても妙に薄暗く感じられる。
夢も希望もない毎日。
ただ命じられたことに頷いて、繰り返されるだけの日々は記憶にも刻まれない。
きっと大人になっても、こんな風に無為な時間を自分は過ごし、やがて死んでいくのだろう。
たまに庭を眺めると。
青空のほうをまっすぐに向いている花々の姿だけが目に入った。
そんな風に生きられたら、どんなにか良かったか。
◇◇◇
――幽霊生活、三日目である。
その日は朝から、ナターニアは馬車に揺られていた。
「ああ、どうしましょう……どうしましょうお猫さまっ」
ナターニアは高鳴る心臓を服の上から抑えながら、ふるふると首を横に振っていた。
「興奮しすぎて、わたくし、そろそろ心臓が止まってしまいそうです!」
『もう止まってるよ』
お猫さまはいつだって冷静だ。
『そんなにどぎまぎして、どうしたのさ』
「今が、なんだか幸せすぎて怖くって」
『……幽霊なのに?』
珍妙なものを見る目を向けられる。
幽霊が幸せを語るのは、なかなか珍しいらしいようだ。
「幽霊になってから、幸せすぎるなと思いまして」
ひいふうみい、とナターニアは指折り数えてみせる。
「一日目は、お仕事に向かわれる旦那さまのお見送りができました。二日目は朝食をとられる旦那さまを眺められました。そして今日はこうやって――、なんと、旦那さまと向かい合って馬車に乗っています!」
ばばん、と指し示す先には、ぼんやりと馬車に揺られるアシェルの姿がある。
そう、ここは侯爵邸ではない。王都へと向かう馬車の中だ。
彼が王都に行こうとしているのを従者たちの会話で聞きつけたナターニアは、もちろんついていくことに決めた。
スーザンも別の馬車に乗っている。馬を休憩させる際に、一度彼女にも話しかけに行こうと思っている。
(お猫さまは、スーザンが何かを隠していると言っていた……)
でも、実はナターニアはそのことはあまり気にしていない。
誰にだって隠し事はある。聡明なスーザンが隠すのであれば、きっと何か理由がある。むやみに探る必要はないと思っていた。
アシェルはといえば、朝早くから支度していた。
王都には馬車で片道五時間もかかるのだが、使用人に言いつける内容を聞いた限り、用事を済ませたらとんぼ返りする予定のようだ。
(お仕事熱心な旦那さまらしいです)
せっかく王都に行くのならば、観光や食事を楽しんでもいいはずなのに、アシェルは自分を甘やかす術を知らない。そんなところもナターニアには愛おしく感じられる。
「って、大変ですわ!」
ナターニアの隣で丸くなっていたお猫さまが、慌てて顔を上げる。
『ど、どうしたの!?』
「旦那さまとお互いの膝同士が当たってしまいそうなのです。破廉恥ですわっ」
『……いや、透けてるから当たらないよ』
「お猫さまったら、意地悪!」
きゃあきゃあと、やっぱり町娘のようにはしゃぐナターニアを、お猫さまは生温かく見守っている。
(幽霊になってから、あんまり楽しくない夢を見たりもするけれど……)
だがそんなのは綺麗さっぱり忘れてしまうくらいに、現実のほうが最高で、ナターニアの気持ちは弾むばかりだ。
病弱なナターニアは、アシェルに嫁いでからもずっと邸宅で療養していた。
新婚旅行どころか、二人きりでデートに行ったり、庭園を散歩することすらできなかった。致し方ないと分かっていても、どれほど心残りだったことか。
アシェルは何を見るでもなく、ぼぅっとしている。
ナターニアは熱心に、そんなアシェルを見つめる。宝石のように赤い瞳が、何かの奇跡で自分のことを見出してくれるかもしれないと――期待をほんのりと抱いて。
だけど。
こんなに近くに居ても、どんなに見つめても、アシェルと視線が交わることはない。
(旦那さまとお話しできたら、もっと素敵なのに……)
アシェルはあまり口数の多いほうではないから、会話は弾まないかもしれない。
でも二人で窓の外に目をやって、木々に止まった小鳥たちを、野に咲く花を眺める時間は、きっとかけがえのないものになったはずだ。
そんな風に、二人で時間を刻んでいきたかった。
否。
もっと言うならば、本当は――。
『ナターニア、訊いてもいい?』
我に返ったナターニアは、「なんでしょう?」とお猫さまに返す。
お猫さまは耳をぴくぴくと動かしながら、ナターニアではなくアシェルを見ている。
『アシェルって、どういう人なの?』
お猫さまは、アシェルの人となりを気にしているようだ。
しかしそれも無理はない。アシェルは無口な人だし、ひとりきりの馬車だからと気を抜いて独り言を喋る人でもない。
懇意にしているマヤが現れたときさえ、口数は少なかった。
そんなアシェルを、どう語ったものだろうとナターニアは首を傾げる。
「一言で言うなら、優しすぎる方ですわ」
『それは聞いたけど……具体的には?』
具体的に語るのであれば、この一言に尽きる。
ナターニアは微笑みを形作った。
「優しすぎて、
――ナターニアは、公爵家の長女として生まれた。
長年、子どもに恵まれなかったフリティ公爵夫妻にとって、年老いてようやく授かったナターニアは待望の初子であった。
だが、ナターニアは健康な子ではなかった。
呼吸器と心臓に疾患があって、どんな名医を呼んでも、症状をわずかに和らげることしかできなかった。
ナターニアの記憶の中では、両親はいつも笑っている。
しかしそれは、自分の前でだけ努力して作られたものだと、ナターニアはよく知っていた。
そして成人するまで生きられないと医者が告げたとき、ナターニアの両親は岐路に立たされた。
両親は隠し通すつもりだったろうが、スーザンに密かに教えてもらった。
母は娘を我が家で看取るのが自分たちの義務だと言ったそうだが、父の意見は違っていた。
結婚せずに死ぬのは不幸だとされる社会だ。ナターニアが不幸な娘として死んでいくのが、父は心苦しかったのだろう。
(もう少し早く死んでいれば、両親の悩みの種にもならなかっただろうけど)
しかし、誰もナターニアをほしがりはしない。
病弱だが美しいと評判の娘。だが、美しいだけで手が出せない娘に価値はない。
公爵家は甥が継ぐことが決まっていたし、公爵家に恩を売れる以外にはなんの得もない。
そこで白羽の矢が立ったのが、アシェル・ロンド侯爵だった。
彼の他界した両親は、公爵夫妻と親交があった。口約束だったが、いずれ自分たちの家に子どもが生まれたら、結婚させようと何度か話していたらしい。
その約束を思い出した公爵は、長年連絡を取っていなかった侯爵家に手紙を送った。
何度かのやり取りのあと、アシェルからは了承の返事があった。
「お父様たちを悪く言いたいわけではありませんが、結婚の契約条件はひどいものだったようです」
『どんな内容だったの?』
「わたくしに、妻として、女主人としての責務を一切求めないように、と」
邸宅を仕切ることも、使用人を采配することも、領地の運営を手伝うことも。
貴族の家の女主人となる以上、必要となるそれらの役割を、ナターニアは果たせない。
また寝室も必ず別にするように、と契約条項にあったようだ。
「寝たきりの女と結婚しろと言われて、あの方は頷いたのです。……ね、優しい方でしょう?」
(会ったこともないわたくしを娶ってくれた、たったひとりの男の人)
どんな気持ちでアシェルがその決断に至ったのか、ナターニアは知らない。
彼なりに、王都での影響力が強い公爵家を味方につけるという思惑があったのかもしれない。
だとしても、アシェルによってナターニアが救われたことに変わりはないのだ。
『でも。でもさナターニア。アシェルは、あの男は……』
お猫さまが何かを言いかけたとき、馬車が停まる。
「着いたようですわね」
外を眺めずとも、ここがどこなのかは想像がついていた。
アシェルに続いて、ナターニアは踏み台を使って地面へと降り立った。
どこか懐かしく感じる屋敷。目を細めて見上げるナターニアの後ろで、お猫さまが呟く。
『ここは?』
――この家をずっと、真綿で包まれた牢獄のようだと、そう思っていた。
だからナターニアは、この場所から連れ出してくれた人に感謝している。
「ここは、フリティ公爵家……わたくしの生まれた家です」
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