第7話.愛した花
新聞を読み終えたアシェルが立ち上がる。
そんなアシェルの腕にマヤが蛇のように絡みついた。
ナターニアはその大胆さに仰天し、慌てて顔を覆う。
「ま、まぁああ……っ! あれではお胸が旦那さまに当たってしまいますわ!」
『当ててんのよ、ってやつだね』
前足をぺろぺろと舐めているお猫さまから、合いの手が入る。
「は、はしたない。いけませんわー! 破廉恥ですわー!」
『とか言いながら、指の隙間からいろいろ見てるよね?』
そんな外野のやり取りが交わされているとも知らず、マヤは甘えた声を出している。
「侯爵様、どこに行かれるの?」
「領地の視察だ」
(旦那さま、マヤ嬢を振り払わない……)
赤い顔のまま、ナターニアは心にメモを取る。見る限り、アシェルはマヤを尊重しているようだ。
名残惜しそうにするマヤに対し、やや素っ気ない態度ではあるが。
(でもこれは、ダイニングルームだからかもです)
二人きりの空間であれば、アシェルも相好を崩すに違いない。
ダイニングルームを出たアシェルとマヤを、ナターニアは廊下の影、柱、花瓶、観葉植物などに隠れつつ追いかける。お猫さまもナターニアの隣をついてくる。
玄関ホールを出て行くアシェルを、マヤが見送る。
「あたくし、あたくし、お帰りをお待ちしてますからぁっ」
今生の別れのように、マヤが瞳をにじませている。
それに対し、アシェルは――。
「今日も遅くなるから、早めに帰ってくれて問題ない」
……かっぽかっぽ、と二頭立ての馬車は去って行く。
馬車が見えなくなるまで見送るマヤ。その後ろに立ったナターニアは、感動のあまり瞳を潤ませていた。
「さすがですわ、旦那さまっ! ぶらぼーですっ!」
スタンディングオベーションばりに感極まって手を叩くナターニアの横で、お猫さまはぽかんとしている。
『えっ、どのあたりが?』
「今のお言葉です。マヤ嬢への気遣いに満ち満ちておりましたでしょう!」
『気遣い……には聞こえなかったけど』
ぼやく声は、興奮するナターニアの耳には届かない。
「わたくし、驚きました。あのお二方、とても良い感じではありませんか!」
考えていた以上に、アシェルとマヤは親密な関係のようだ。
「これではもはや、わたくしの出る幕はないかもしれません。七日目には旦那さまは再婚していらっしゃるやも!」
『ナターニア、なんか無理してない?』
「――ちょっと!」
ナターニアとお猫さまの身体が、同時に跳ねる。
誰かが自分たちに話しかけてきた――そう思うのも無理はないほど、その声の音量が大きかったからだ。
しかし、玄関前には他に誰の姿もない。
ナターニアたちは慌ててドアをすり抜け、邸宅の中へと戻ってくる。
すると腰に手を当てたマヤが、侍女相手に声を上げていた。
「この花、地味なんだけど! 薔薇か何かと取り替えてちょうだい!」
取り沙汰されているのは、玄関前に活けられた花の件らしい。
真っ青な顔をした侍女は、腰を低くしながら小声で訴える。
「で、ですが、アネモネは奥様がお好きな花でしたから……」
その言葉に、ナターニアは目を見開く。
ナターニアは確かにアネモネの花が好きだ。でも、それを誰かに話したことはない。
(スーザンが言ったのかしら)
付き合いの長いスーザン以外は知りようのないことだ。
昨日は単なる偶然なのかと思っていたが、屋敷中に飾られた花はナターニアへの手向けだったのか。
驚くナターニアの前で、マヤはぷっと噴き出している。
「奥様? 侯爵夫人の座はとっくに空いているわよね? 今さら誰のことを言っているの?」
「……っ」
侍女は言い返さず、唇を噛み締めている。
「こんなセンスの悪い花、侯爵邸に相応しくないわ。今すぐ捨ててきなさい」
「…………はい」
気弱そうな侍女は小さな花瓶ごと手に取り、とぼとぼと去って行った。
マヤは勝利を誇るかのように、髪をなびかせる。
「それじゃ、あたくしは侯爵様がお戻りになるまで庭を散歩するから!」
その姿が庭に消えていくと同時、ダイニングルームを掃除していた侍女たちがひょっこりと顔を出した。
マヤの大声は邸宅中に響き渡っていたようだ。侍女たちはうざったそうな顔をしている。
「何あれ。部外者のくせに奥様気取りで振る舞って、鬱陶しいわ」
「自分が侯爵夫人になれたとでも思ってるのよ、馬鹿みたい」
「旦那様がもっと毅然と対応すれば済む話なのに……」
『分かるぅ。アシェルもマヤも超むかつくぅ』
侍女たちの会話に、自然とお猫さまが紛れ込んでいる。
言葉通り、かなり不機嫌そうに尻尾がぶんぶんと揺れている。
(ああ。お尻尾さまが!)
もっふりした長い尻尾の先端に、ナターニアは夢中になってしまう。
はぁはぁしつつ、指先で触れようとしたが、気がついたお猫さまは素早く天井に逃げてしまった。
『もう! 油断も隙もないな!』
「そんな。いけずですわ……」
よよよと泣き崩れるナターニア。
『それはいいとして。ナターニアさ、あの女とはどういう関係だったの?』
「マヤ嬢は、わたくしの生前もよくここに遊びに来ていて……わたくしの話し相手になってくれた方ですの」
『話し相手? どんな話をしたの?』
「そうですわね……」
ナターニアは回想する。
マヤがわざわざナターニアの部屋を訪ねてきて、明るく投げかけてくれた言葉の数々を……。
『ごきげんよう、公爵令嬢。……ああ失礼、今は侯爵夫人だったかしらぁ?』
『今日は外の天気が良いわよ。侯爵様とお散歩でもしたらどう? ううん、あなたには難しいわよね。あたくしが代わりに行ってきてあげる』
『侯爵様がおっしゃってたわ。寝たきりのお飾り妻を持つと苦労するって。おかわいそうなあの方を、今日もあたくしが慰めてさしあげたの。感謝してよね?』
「……などなどなど……」
他にも数多の思い出が、と回想していくナターニア。
『クソ女じゃん』
しかしそんな回想をぶち破る勢いでお猫さまが悪口を言う。
「お猫さま。お言葉が乱れていらっしゃいますわ」
『乱れもするよ。ていうかナターニアはなんで怒らないわけ?』
「だって、本当のことですもの」
けろっとしているナターニアに、お猫さまはぷんすかしている。
『事実であれば、何を言ってもいいってわけじゃないだろ!』
「それは一理ありますが」
『というか君の旦那ってそんなこと言ってたの? クソ男じゃん』
青い硝子玉のような瞳に、強い怒りがにじんでいる。
お猫さまのそんな目を見ると、ナターニアは堪らない気持ちになる。
今すぐにでもお猫さまを抱きしめたくなってしまう。でも、残念ながらそれは本人が許してくれない。
(本人というか、本猫が、でしょうか……)
『ナターニア?』
ぽやぽやと別のことを考えているのに気がついたらしく、お猫さまが名前を呼んでくる。
「そうですわね。真偽は分かりませんけれど、もし本当におっしゃっていたなら」
『なら?』
「嬉しいです」
お猫さまは開いた口が塞がらなくなっている。
「だってそれほど、旦那さまがマヤ嬢に心を開いているということになりますもの」
そもそもマヤは、ナターニアが嫁ぐずっと前からアシェルのことが好きだったそうなのだ。
あんなに可愛らしい令嬢から長年慕われていたなら、アシェルも少なからず意識していただろう。
(好き合う二人の間に割って入ってしまったようで、ずっと心苦しかった)
ナターニアに対してマヤが必要以上に攻撃的だったのは、侯爵夫人としての務めを果たせないナターニアが気に食わなかったからだろう。
自分ならもっとうまくできるのに、と思っていたのかもしれない。それは事実でもある。
(それにわたくし、マヤ嬢が何度も会いに来てくれて、けっこう嬉しかったのです)
幼い頃から病弱だったナターニアには、気の知れた友人はほとんど居なかった。
アシェルに会うついでだったとしても、マヤと話す時間はナターニアにとって色づいていた。
流行っているドレスや装飾品の話、新しい歌劇の話、カフェの話……ナターニアの知らないことを、マヤはたくさん教えてくれた。
それに両親はナターニアを見ると、いつも辛そうな顔をしていた。
けれどマヤはそうではないから、ナターニアも気が楽だったのだ。
(むしろ、『よっしゃ』って感じでしたわね)
ナターニアの具合が悪ければ悪いほど、マヤのテンションはガンガンに上がっていた気がする。
早く死ね、と思われていたとしても別にナターニアは驚かないが。
「社交的なマヤ嬢であれば、旦那さまのことを社交界でも引っ張ってくれるでしょうし……わたくしと違って、きっと旦那さまを明るいほうに導いてくれるかと」
『性格に難ありだと思うけどね』
楽天家なナターニアに、お猫さまはしっかりと釘を刺してくる。
確かに、立場の弱い従者や侍女に対して、マヤは無駄に高圧的だった。
こほん、とナターニアは咳払いをする。
「とりあえず、最有力候補ということで」
『……まぁ、君がそれでいいなら』
釘は一本で抑えてくれるらしい。
くすりと微笑んだナターニアは、空っぽになった花瓶台を見やる。
花瓶に活けられていた三種のアネモネは、赤と白とピンクだった。
マヤは気に食わないようだったが、春らしい彩りだったからよく覚えている。
(ええと、ええと)
ナターニアは記憶を辿ってみる。
薬師の家に生まれたスーザンは、花言葉にとても詳しい。
よく寝物語の代わりに、いろんな種類の花言葉についてナターニアに教えてくれたものだった。
確か、赤のアネモネは愛。
白のアネモネは期待や希望。
(そして、ピンクのアネモネは……)
――あなたを、待ち望む。
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