2日目

第6話.再婚候補の令嬢

 


 夢を見た。


 ずいぶんと昔の夢だ。

 まだ幼い頃。年端もいかぬ子どもだった頃。

 自分を呼ぶ母親らしき声。たくさんの笑い声。犬の鳴き声。小さな自分の手。


 庭を駆け回って、小石に躓いて転んで。

 泣いて、笑って、次の瞬間には覚めている。


 ぼんやりとした頭で、汗ばんだ手のひらを見つめて。

 それでようやく、現実を思い出して。


 ――ひどく、空虚な気持ちを味わう。




 ◇◇◇




「ああっ。今日も旦那さまは格好良いです……!」



 きゅんきゅんと胸をときめかせながら、ナターニアは植木鉢の後ろに隠れている。


 半透明の身体はお猫さま以外には見ることができないので、別に隠れる必要はないし、そもそもまったく隠れ切れていないのだが、そんな些細なことは気にしないナターニアだ。


 というのも視線の先にはアシェル・ロンド――ナターニアの夫だった彼の姿がある。

 ダイニングテーブルについたアシェルは、食後のコーヒーを飲み新聞を読んでいる。

 左手は吊ったままだが、足の上に広げた新聞を右手だけでめくっているのだ。


 幽霊はお腹が減らないようだが、そんなアシェルを物陰から見つめるだけでナターニアはお腹がいっぱいになる。


(新聞をめくる骨張った指、組んだ足の長さ、気怠げな眼差し、ちょこっと寝癖がついた後ろ髪……!)


 美しい夫に、ただただ見惚れるばかりのナターニア。

 頬を薔薇色に染め、うきうきと首を左右に振る彼女の姿は、まるで憧れの貴公子の姿をこっそりと覗き見る町娘のように可愛らしいのだが。


『は~~~ぁ』


 そこに、やたらと大仰な溜め息が聞こえてきた。

 溜め息の持ち主は、アシェルの顔の近くをくるくると旋回しては、首を捻り続けている。


 だが湯気の出るマグを傾けるアシェルは、目の前に浮かぶその姿にもまったく反応しない。

 というのもナターニアの姿も、旋回する子猫の姿も、彼の目には見えていないからだ。


『この男のどこがいいのか、ぼくにはさっぱり分からないんだけどなー』


 逆さまになったお猫さまが、アシェルのことをガン見している。


「何をおっしゃいます、お猫さまっ」


 お猫さまもスーザンも、アシェルへの採点が厳しいようだ。

 納得がいかないナターニアはすっくと立ち上がる。ナターニアにも譲れないことはある。


『じゃあさ、どのあたりが好きなの?』

「強いて言うならば、すべて……でしょうか」


 ぽぽぽっと頬を赤くするナターニア。

 彼女が全身から集めてきた迫力は一瞬で霧散している。


 なぜかノロケを喰らってしまいげんなりするお猫さまに、ナターニアは両手を絡めながら上目遣いで問う。


「そういえばお猫さま。わたくし、夢を見たのです」


 昨夜遅く、アシェルは侯爵邸に戻ってきた。

 そして屋敷中の明かりが消灯された頃、ナターニアの意識もふっと途切れてしまったのだ。

 夜更かしして探検でも楽しもうとわくわくしていたナターニアは、その代わりのように昔の夢を見た。


 ――気がついたときには、ひとりで屋敷の前に立っていた。

 どこからともなく『やあ』と現れたお猫さまと合流して、こうしてダイニングルームに足を運んだのが数十分前のこと。


『それ、夢じゃないよ。生前の記憶の整理をしているだけ』

「そうなのですか?」


 お猫さまが、流し目でナターニアを見やる。


『六日目の夜あたりに、自分が死んだ日あたりの記憶も見るんじゃないかな』

「そういうものなのですね!」


 ひたすら感心させられるナターニアだ。


(それに意識がなくなったのは、ちょうど……日付が変わる時間帯だったかしら)


 どちらにせよ、自分の身には常識を超越する出来事ばかりが起こっている。

 そういう仕組みだとしたら受け入れるしかない。日付がまたいで以降は活動できないと覚えておこう、とナターニアは思う。


 そのときだった。

 ナターニアは重要なものを発見した。


「あぁ! あちらをご覧くださいお猫さま!」

『ん?』


 お猫さまが、ナターニアの眺めるほうへと遅れて目を向ける。


 ひとりと一匹が注目する中。

 ダイニングルームの入り口に姿を現していたのは――、新緑色のドレスをまとった令嬢だった。


『誰、あれ? ここの使用人じゃなさそうだけど』


 アシェルの許しも得ず邸宅内に姿を見せた彼女を、お猫さまは不審げに見ている。

 どうやら博識なお猫さまにも知らないことはあるようだ。


 朝っぱらから一分の隙もなく施された濃いめの化粧に、ぽってりとした唇は艶めく紅色。

 焦げ茶色の髪に、同色のきらめく瞳。異性も同性も、彼女の容姿には目を引かれずにいられないだろう。


「彼女はマヤ・ケルヴィン令嬢ですわ」


 スタイル抜群のマヤは、大きな胸を揺らし、腰をぐいぐいくびれさせ、高いヒールを高圧的に鳴らし、ダンスホールの真中に躍り出るかのように堂々と歩いてくる。


 スーザンに事前に名前を聞いてはいたので、ナターニアは驚かない。

 もともとマヤとは顔見知りでもあるのだ。


 ちなみにナターニアに協力を約束してくれたスーザンだが、ダイニングルームに彼女の姿はない。

 アシェルは身の回りの世話を気の置けない側近に任せている。残念ながらスーザンをここに呼んでも、彼に警戒されてしまうだけだ。


 スーザンにはアシェル関連の情報を集めてもらいながら、いざというときに力を貸してもらう予定だ。


(それにしてもマヤ嬢、今日は一段と気合いが入っているみたい)


 マヤは、隣町に本邸を構えるケルヴィン男爵家の令嬢である。

 もともとは平民の出だが、マヤの祖父母の代で商売に成功し、男爵位を得たという経緯がある。


 しかしアシェルはマヤに気がついているだろうに、紙面から顔を上げないままだ。

 よっぽど気になるニュースでもあったのだろうか。見守るナターニアははらはらしてしまう。


(旦那さまはお優しい方だもの。無視したりはしないはず……)


 祈るような気持ちで、見つめていると。


「侯爵様、ごきげんよう」


 スカートの裾をつまみ、完璧な所作でマヤが挨拶してみせる。

 新聞に目を落とすアシェルが、ちらりと片目を上げた。


「……ああ」


 果たして、返答はあった。

 短い呟きのようなものだったが、マヤは嬉しそうに破顔している。


 ちなみにナターニアも破顔している。


『なんでナターニアまで笑ってるの?』

「旦那さまのお声、久々に聞いたなと思いまして……」


 昨日も従者と二言三言交わしていたが、外だったしよく聞き取れなかったのだ。


「旦那さまはお声まで、格好良いです。素敵です」

『そう……』


 もうちょっと長く喋ってほしいな、と期待するナターニアである。

 きゅんっとしているナターニアのことなど知る由もなく、マヤが手を叩いた。


「ちょっと! 椅子の位置を動かしてくれます?」


 ダイニングルームに従者が入ってくる。


 若い従者は、一瞬だけアシェルに物言いたげな目を向けたが、アシェルはそちらに見向きもしない。

 結局、彼はマヤの要望通りに椅子を動かして去って行った。


 アシェルのすぐ隣席に着席するマヤはご満悦だ。


「さっさとあたしの分の料理も運んできて!」


 厨房にまで聞こえるように声を張り上げるマヤに、アシェルは注意もしない。


 夫婦よりもよっぽど近い距離にある二人。

 それを眺めていると、お猫さまが声をかけてくる。


『ナターニア、どうかした?』

「いえ……。実はわたくし、旦那さまと食事の時間を過ごしたことがなくて、ですね」


 実はダイニングルームに入ったのも今日が初めてだ。

 いつもナターニアは、自室に運び込まれた簡素な食事を、ひとりで食べるだけだった。


「少し、マヤ嬢が羨ましいな、なんて……思ってしまいました」


 もう痛みを感じないはずの胸が、なぜか苦しい。


 目の前の光景ひとつを取るだけで。

 本当にアシェルに相応しかったのがどんな女性だったのか、思い知らされるようで。


『ナターニア……』

「――なんて、そんなことを言っている場合ではありませんわね」

『………………へ?』


 お猫さまの労るような目が、一気に丸くなる。


「わたくし、決めましたもの。死ぬ気で旦那さまの再婚を応援すると」


 ぎらぎらぎら、とナターニアの瞳は決意に燃え上がる。


『死ぬ気で応援って、もう君、死んじゃってるけど……』

「死んだ上に死ぬ気でがんばれば、とんでもない力が発揮できますわ!」

『よく分からない理論を持ち出してくるね!?』


 そう、落ち込んでいる暇なんてありはしない。


 マヤ・ケルヴィン。

 彼女こそがスーザンが名を告げた、アシェルと懇意にしている令嬢であり。



 ――アシェルの再婚相手、その最有力候補者なのだから。



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