第4話.侍女との再会
アシェルを見送ったナターニアとお猫さまが、次に向かうのは邸宅の中だった。
しかし扉はすでに固く閉ざされている。
これでは内部に入れないが、どうしたらいいのか。
「お猫さま、空いている窓から侵入しましょうか」
『君、病弱な侯爵夫人だったんだよね?』
「鍵を壊したほうがいいでしょうか?」
『発想をどんどん物騒なほうに振らないで!』
ではどうするのかと思いきや、お猫さまは目の前で実践してみせた。
――なんと、ふわっと扉をすり抜けてみせたのだ。
『ほら、君もやってみてよ』
衝撃を受けたナターニアは、慌てて自分も扉の前に立つと。
「すごいっ、すごいですお猫さま! 見てみて、わたくしの頭が扉に生えたかのよう!」
『だいぶ怖いんだけど! こっち見ないで!』
そんな一悶着もあったが、難なく邸宅内に侵入することができた。
もともと自分が住んでいた邸宅を、ナターニアはきょろきょろと見回す。
(わたくしが暮らしていた頃と、変わりないわね)
分かりやすい変化は、廊下に置いてある花瓶の中身が取り替えられたことくらいか。
『ナターニアが亡くなったのが、春月の十三日。今日は、同月の二十七日だよ』
疑問を口にする前に、お猫さまは気になることを教えてくれる。
ではとっくに遺体は埋葬されているだろう。教会の裏手の墓所に、ナターニアの身体は眠っているはずだ。
「ちょうど二週間ほど経っているのですね」
その十四日間の空白には、何か意味があるのかもしれない。
けれど、そんなことを気にしている場合ではないとナターニアは思い直す。
(さて、スーザンはどこかしら?)
協力者としてナターニアが選んだのが、侍女のスーザンである。
ナターニアの両親はとても優しい人だったが、今は遠く離れた王都に住んでいるし、年老いた二人に死後も迷惑はかけられない。
そうなると頼れる人物として、ナターニアがいちばんに思いついたのがスーザンだった。
今年で三十歳となるスーザンは、ナターニアが子どもの頃から面倒を見てくれていた侍女だ。
スーザンの家系は薬草の扱いに長けていて、ナターニアのためにと両親が優れた薬師を探して雇い入れたという経緯がある。
ナターニアにとっては、スーザンの作る薬も重宝すべきものだが、それ以上に彼女の実直な人柄を好んでいる。
侯爵家に嫁ぐときも、スーザンだけは連れていきたいと両親に嘆願したのだが、スーザンは最初からついていく気満々で、手早く荷物をまとめていたものだった。
スーザンにだけはナターニアの声が聞こえるように設定したと、お猫さまは言っていた。
それならば目的達成のために、一刻も早くスーザンに再会したい。
(スーザンはいつも、わたくしの傍についていてくれたけれど)
スーザンの主な役割は、ナターニアの身の回りの世話と薬の調合だった。これはナターニアが実家に居た頃から変わらない。
アシェルや他の使用人たちも納得して、スーザンにすべてを任せてくれていたのだ。
しかしナターニア亡き今、スーザンは他の侍女と同じように働いているのだろうか。
「お猫さま。とりあえずわたくしの部屋に行ってもいいでしょうか?」
『もちろん。ぼくはついていくだけさ』
ふよふよ浮かんでいたお猫さまが方向転換して、ナターニアの後ろに続く。
部屋は一階の角にある。一般的な貴族の邸宅では、家主や家族の部屋は上階にあることが多いが、病弱なナターニアが行き来に苦労しないようにと特別に配慮してもらったのだ。
(旦那さまは、本当にお優しい)
彼の気遣いをそこかしこに感じながら、ナターニアは角部屋の前に到着する。
深呼吸をするが、ノックする必要はない。ここはナターニアの部屋だったし、第一、今のナターニアではドアに触れることはできないからだ。
それでもどこか緊張しながら、ドアをすり抜けて部屋へと入る。
広々とした、寒々しい部屋。
置かれたのは最低限の家具と調度品のみ。そんな中、大きなベッドだけが目を引く。
体力のないナターニアだから、寝室は別に用意されていない。
だからこの部屋こそが、ナターニアが人生の大半を過ごしてきた場所だ。
白いシーツに蹲るようにして、嗚咽を漏らす人が居た。
その姿を前に、お猫さまは驚いて黙り込んでいる。
(…………スーザン?)
まさか、という思いがナターニアの胸に込み上げる。
ナターニアの前では、スーザンはいつも明るかった。
笑顔を絶やさなかったし、ナターニアの体調が悪いときは大丈夫だと励ましてくれた。
身体の痛みがひどくて寝つけない夜は、手を握って温めてくれた。そんな優しさに、どれほど救われたことだろう。
だから目の前の光景が、なかなか信じられなかった。
「スーザン、泣いているの?」
口を突いて出た問いには、果たして反応があった。
びくりっ、とスーザンの肩が揺れる。
赤茶色の短い髪の毛が持ち上がる。振り返った双眸は痛々しく腫れていて、そこから幾筋もの涙が伝っていた。
皺ができたお仕着せにも、大量の黒い点が散っている。
「……この、声……ナターニア奥様?」
掠れた声音で口にしてから、スーザンは首を横に振る。
「……あたしったら。奥様が恋しくて幻聴まで聞こえるなんてね」
「幻聴じゃないわ。わたくしよ、わたくし」
『ちょっと詐欺っぽいなー』とお猫さまが嘯いている。
スーザンは自嘲気味な笑みをこぼしている。
「奥様のお荷物をまとめたら、こんな家さっさと出て行くのに。馬鹿みたいだわ」
「待ってスーザン。それは困るわ。あなたに頼みたいことがあるのに」
「――さっきから、なんなの?」
立ち上がろうとするスーザン。
ふらふらと危なっかしい侍女に、ナターニアは手を貸そうとしたが、差し出した手は呆気なくスーザンの身体をすり抜けた。
(あ――、)
分かっていたはずなのに。
それでも、静かな衝撃に胸を貫かれた気がした。
「悪魔が囁いているなら、やめてちょうだい。奥様の声を使ってあたしを誘惑しないで」
スーザンの身体は震えている。
支えてあげたいのに、とナターニアは、半透明の自分の手のひらを見つめる。
この身に余る奇跡ばかりが、起きたりはしない。
声は届いても、見えない幽霊からの呼びかけをスーザンは信じてくれない。
「ナターニア奥様はもう居ない。あたしは光を失ったの。分かっているから、放っておいて」
「放っておけないわ、スーザン」
「やめてよ!」
これ以上聞きたくないというように、スーザンは両耳を塞いでしまう。
そんなスーザンとナターニアを、お猫さまは交互に見ている。どこか困ったように、何度も。
(スーザンを協力者に選んだのは、わたくし)
うまく説得しなければ、アシェルの再婚に向けて力を貸してもらえない。
けれど――それだけではなくて。
(スーザンに、前を向いてもらいたい)
主の居なくなった部屋で、泣き続けていたスーザン。
きっと昨日も、一昨日も、その前だって同じだ。スーザンは延々と、目を泣き腫らしている。
彼女の涙を拭ってやれないのが、口惜しいし。
そんな彼女を、これ以上泣かせてはいけないのだと強く思う。
「ねぇスーザン、後悔ってひとつじゃないわね。旦那さまだけじゃなくて、あなたのこともとっても心配だもの」
スーザンの頭が揺れる。
手のかかるナターニアの看病のために、いつだって自分の幸せは後回し。
三十歳になるまで結婚もせず、文句のひとつも言わず、スーザンは傍に居てくれた。
「わたくしとあなたしか知らないとっておきの思い出話を、一から五十まで披露することもできるけれど……でも、そんなんじゃスーザンは納得しないわよね。人の大事な思い出を踏みにじるな、この悪魔め! なんて叫んで、暴れちゃうかもしれないわ」
「…………」
「スーザン。あなたが辺境までついてきてくれて、どれだけ嬉しかったか分かる? わたくしあのとき、小躍りして感謝を伝えたかったのだけど、身体が弱いからそういうわけにもいかなかったのよね。でも今ならどんなダンスだって踊れるわ」
『それ、ぼくしか見られないけど大丈夫?』
顔を上げたスーザンが、辺りも見回している。
表情からして、どうやらお猫さまの声も聞こえたようだ。邪気のない少年の声が聞こえたためか、固く張り詰めた表情がわずかに緩み始めている。
「スーザン、これはお猫さまの声よ。お猫さまというのは、わたくしをここまで案内してくれたとても親切な黒い子猫さまなの」
ふっ、とスーザンの口元が、笑みの形に歪む。
「スーザン?」
「……猫をさま付けで呼ぶ人なんて、他に居ません」
涙を拭ったスーザンが、正面を見つめる。
スーザンには、見えていないはずだ。
それでも確かに、二人は視線を交わしていた。
「…………奥様、なんですね?」
「ええ。久しぶりね、スーザン」
そう笑顔で答えれば。
最後に残った一筋の涙が、静かにスーザンの頬を流れていった。
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