第3話.格好良すぎる旦那さま
正門の先にある庭園を抜けると、侯爵家の邸宅の玄関前へと到着する。
格式高い煉瓦造りの邸宅は、ナターニアが一年間を過ごした場所だ。
思いも新たに見上げると、何やら感慨深い気持ちになる。
(わたくしが初めてここに来た日も、空は晴れ晴れしかった)
一年前の春の日、青く澄んだ空には数羽の白鳩が羽ばたいていた。
二人の婚姻が祝福されているようだと、嬉しく思ったものだった。
邸宅の横には小さな教会も設置されている。
ナターニアが嫁入りする際に、彼女の夫となる人が建設してくれたものだ。
王都や街中の教会で挙式を挙げるにも、ナターニアは絶望的に体力がない。
だから彼は妻に配慮して、こうして家の傍で式が行えるよう整えてくれたのだ。
邸宅のダンスホールで行われた披露宴に、式で疲労困憊となったナターニアは顔を見せることもできなかったのに、それを責めたりもしなかった。
(旦那さまは本当に、お優しい方でした)
笑みを浮かべて、大切な思い出を振り返る。
彼に嫁げたことは、ナターニアにとってこれ以上なく幸せなことだった。
『あ、ナターニア』
ふと、お猫さまがナターニアを呼ぶ。
慌てて教会から視線を戻したナターニアは、そこで目を見開いた。
玄関ホールが見える。つまり、玄関の扉が開け放たれていたのだ。
従者を連れ、そこから姿を見せたのは邸宅の主だった。
艶めいたストレートの黒髪に、長い前髪の間から覗く、切れ長の赤い瞳。
目鼻立ちは人並み外れて整っており、どこか彫刻めいた印象を与えるが、ときどきの瞬きが、彼が間違いなく呼吸をする人間であることを他者に認識させる。
引き締まった体躯は、オーダーメイドの裾の長いコートが包んでいる。
左の袖だけが揺れているのは、左手をギプスで吊っているからだ。しかし痛々しさはなく、むしろ手負いの獣のような凶暴さを秘めている。
アシェル・ロンド。
記憶にあるよりもどこか痩せて見えるが、見間違うことはない。
まさに自身の夫であるその人を目にして、ナターニアが口にしたのは――。
「か…………格好良いっ!!」
きゅんきゅんきゅーん、と高鳴る胸を、ナターニアは服の上から押さえる。
(あまりにも、あまりにもあまりにも格好良いですっ!)
アシェルという人の、高貴さがにじむ美貌。
長い手足、洗練された立ち振る舞い、物憂げに頭上を見やる視線ひとつにさえ、ナターニアはときめきを覚えてしまう。
……しかしそこで。
はてとナターニアは小首を傾げた。
「今、格好良いと叫んだのはどなたでしょう?」
『君以外に誰が居るのさ』
呆れた半目でお猫さまに呟かれ、ナターニアははっとして喉に触れる。
よくよく考えると、確かに先ほど叫んだ声は自分の声と似ている気がしたのだ。
「お猫さま、すごいです。こんなに大声を出しても咳が出ない。興奮しているのに身体のどこも痛くない」
『そ、そうかい。ちょっと落ち着いて』
こんなことは、物心ついてから初めてのこと。
だが現実だ。確かにナターニアは今、自分の口で喋っているのだ。
「死んでいるって無敵なのですね! 今ならなんでもできる気がします!」
『いろいろおかしいこと言ってるんだけど!?』
「ちょっとわたくし、庭を駆け回ってまいります! 止めないでくださいましね!」
『と、止めないけど――ああもうっ、転ばないようにね!?』
ぴゅーん、と風のように石畳を走り抜けるナターニア。
実際は幼児のあんよがじょうず並みの速度だったのだが、ナターニアにとっては風も同然だった。
足をがむしゃらに動かす。両手で長いスカートの裾を持ち上げて、どこまでも自由に。
生まれてからずっと、こんな風に走る日を夢見ていた。
日射しの下を、なんにも囚われることなく駆けてみたいと。
(ああもう、すごいっ、すごいです……!)
興奮しすぎて、感動しすぎて、もう、うまく言葉にまとまらない。
ぱたぱたぱた、とスカートをはためかせながら、邸宅の外周を回ってきたナターニアは再び玄関前へと戻ってくる。
紅潮した頬を押さえ、にまにまと口元を緩ませるナターニアのことを、お猫さまは呆れたような、それでいてどこか温かい眼差しで見つめている。
「お猫さま。わたくし感激いたしました。このご恩をどうお返ししたらいいのか……」
『いや。返さなくて平気だから』
「お猫さまは欲のないお方なのですね」
(わたくしは旦那さまの再婚を応援したい、なんて言ってしまったのに)
そんなナターニアに力を貸してくれて、七日間も付き合ってくれる。
お猫さまは聖人君子か何かだろうか? ナターニアは本気でそんなことを考える。
「あ、お猫さま。旦那さまが出発されるようです」
立派な二頭立ての馬車がやって来る。
アシェルはやはりどこまでも格好良いのだが、左手が不自由なせいか乗り込むときに少し手間取っていた。
(左手、どうされたのかしら?)
ギプスで吊っているということは、骨折しているのか。
ナターニアが亡くなる前日は、怪我をしていた覚えはないが……。
(それに旦那さま、少し痩せられた?)
不思議に思いつつも、ナターニアは深く頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ、旦那さま」
だがアシェルはこちらに見向きもせず、御者に指示を出す。
出発した馬車はゆっくりと遠ざかっていった。
『君の声、聞こえてないよ』
振り返ると、どこか気遣わしげな表情でお猫さまが宙に浮いている。
黒猫だから表情が分かりにくいかと思いきや、お猫さまの顔は意外に雄弁だとナターニアは思う。
『だから、返事がないからってショックを受けることはないからね』
「え? ああ、気にしていませんわ」
『そうなの? どうして?』
「お見送りをお許しいただいたのは、はじめてですもの。むしろ嬉しくて仕方ないくらいです!」
一瞬、お猫さまが口を噤む。
(いえ、許されたのではなく、勝手にお見送りしただけですがっ)
だとしても嬉しいのだ。これもまたナターニアの後悔だった。
仕事に向かう夫を見送るのは、妻の役割のひとつ。それを果たせない自分を、ずっと情けなく思っていた。
『……そうなんだ』
暗い顔で呟くお猫さまの声は、はしゃぐナターニアには届かなかった。
気を取り直すように、お猫さまは溜め息を吐くと。
『それにしても妻が夭折して数日だっていうのに、もう領地の視察に出ていくとは……とんだ冷血漢も居たもんだ』
「お猫さま、難しい言葉をたくさんご存じなのですね」
ところでナターニアには、気になったことがあった。
「あの、お猫さま。旦那さまはわたくしの姿を見たり、声を聞いたりはできないのですね?」
『うん、そうだよ。追加すると、君が生きている人に触れたり、逆に誰かが君に触れることもできないね」
アシェルや従者、御者たちは一度もこちらを見なかったから、そうだろうとは思っていた。
それに死んだナターニアがわーわー言いながら庭を駆けていたら、さすがにあのアシェルも顔を引きつらせていたのではなかろうか。
(ちょっと、見てみたいかも)
引きつったアシェルだって、きっと格好良い。
思い浮かべて、くすりと微笑むナターニア。
(でもそれだと、どうやって旦那さまの再婚を応援すればいいのでしょう?)
地上で生活する様子を見守ることしかできないとなると、アシェルの再婚のために打てる手がないということになるが。
『ただ――ひとりだけ、例外を作ることができるんだよ』
満を持して発されたという具合のお猫さまの言葉に、ナターニアはごくりと息を呑んだ。
「例外、ですか?」
『そう。たったひとりだけ、君の願いを叶えるための助っ人を選ぶことができる。その人物には君の声が届くよ。ただし、君の後悔と直結するあの男だけは駄目なんだけどね』
一瞬、ナターニアは落胆を覚えて、そんな自分を嫌悪する。
(いやだわ、わたくしったら)
心のどこかで、アシェルと会話ができる、ナターニアがここに居ることをアシェルに知ってもらえる――そんな期待をしていたのだろうか?
だとしたら、そんな未練は一刻も早く捨てるべきだ。
(こうしてもう一度、旦那さまの御姿を見られただけでありがたいもの)
お猫さまはたくさんの奇跡をプレゼントしてくれたが、限界はあるのだ。
多くを望みすぎてはいけない。開放的な気分になったからと、自分を律することを忘れてはいけない。
『それじゃあ君の後悔を解消するために、最も役立つ人物を指定してもら』
「では侍女のスーザンでお願いします」
『早いよ! 熟考っていう言葉を知らないのかなー!?』
お猫さまは怒鳴る声も可愛らしい。
その声が自分にしか聞こえないのが、少し残念だとナターニアは思った。
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