1日目
第2話.幽霊になりまして
お猫さまがふわふわと、宙を漂っている。
脳天気に逆さまになって毛繕いをしていたお猫さまは、ナターニアの視線に気づいてか口を開いた。
『気分はどう?』
ナターニアは、お猫さまを見上げたままこくりと頷く。
「大変、良好ですわ」
首を動かすと、結っていない髪の毛が揺れて肩にこぼれる。
それだけのことを、ナターニアはひどく嬉しく感じてしまう。
(自分自身の虚弱な体質に、いろいろと言いたいことはあったけれど……やっぱり身体があるとないでは大違いですね)
それに今は、ちっとも呼吸が苦しくないのだ。
死んでしまった今となっては、焼けつくような全身の痛みや、掻き毟りたくなるほどの胸の苦しみとは無縁なのだろう。
光を透かすピンクブロンドの髪が、ふわりと揺れる。
色白の肌と、痩せた凹凸の少ない体つきも、間違いなくナターニア本人のものだ。
あのままでは不便だろうと、お猫さまはナターニアを生前の姿に戻してくれたのだ。
ただし以前と違うのは、ナターニアの身体が透けているということ。
手のひらを見つめれば、その下の石畳の路まで難なく見透かすことができる。
手のひら越しに、景色を物珍しげに見つめるナターニア。
そんな彼女を見下ろして、お猫さまは溜め息を吐く。
『外見だけなら、君こそ天使のように美しいね』
「まぁ、ありがとうございます。お猫さまもとてもお可愛らしいですわ」
にこにこしながら本心を伝えるナターニア。
侯爵夫人ナターニア・ロンド。
彼女は一年前まで、公爵令嬢ナターニア・フリティと呼ばれていた。
(そして今の私は、ただのナターニア)
身体が身軽なのは、もしかしてそのせいなのだろうか。
『それじゃ、行こうか』
「はいっ」
宙を優雅に進み出すお猫さまに従って、ナターニアは歩き出す。
ナターニアの生前の後悔を解消するためにと、お猫さまは地上にナターニアを連れてきてくれた。
半透明にはなったが身体まで返してくれたので、至れり尽くせりだ。
先ほどの暗闇から、どういう原理で地上に戻ってきたのか、お猫さまは仕組みについて説明してくれたが、ナターニアには何度聞いてもうまく理解できなかった。
ひとつだけ分かっているのは、今から心残りである人に再会できるということだけ。
「うふふ、うふふふ……!」
それを考えるとナターニアは嬉しくて堪らなくなり、足取りまで弾んでしまう。
だがその隣には、ふよふよと浮かぶ黒猫の姿があって。
「お猫さま。お猫さまのように、わたくしは身体を宙に浮かせられないのでしょうか?」
『もう少ししたら、自然と浮いてくるんじゃないかなぁ』
(自然と浮いてくる……そういうものなのですね!)
納得したナターニアは、生きていた頃と同じように石畳を踏んでいく。
――否。
正しくはナターニアが生前こんな風に、侯爵家の庭を散策したことはほとんどない。
庭師が丹精込めて世話をしている美しい庭園を、ナターニアは窓の向こうに見つめるばかりで、その中に自分が入っていくことはできなかったし、馨しい花の香りを味わうことすら許されなかった。
だから死んでしまった今、こんな形で願いが叶っているのを、ナターニアは不思議に思う。
『ナターニア、分かっているね。期限は今日を入れて七日間だよ。それが、君に与えられた猶予だからね』
前を進むお猫さまが、振り返らずに念押しする。
はい、とナターニアは笑顔で頷く。この話は、何回もお猫さまから聞かされていた。
時は少々遡る。
「――わたくし、旦那さまに再婚してほしいのです!」
そう言い放ったナターニアに、お猫さまはしばらく唖然としていた。
丸っこい口の端から、ちらりと白い牙が覗く。
(ううっ、爪の先でかしかしと擦ってさしあげたいわ……!)
きゅん、と胸をときめかせるナターニアだったが、やっぱりそのとき、まだ彼女の身体は戻ってきていなかった。
『……ええっと。旦那と離婚したいって?』
「違います。旦那さまに恋をしてほしいのです。もちろん、わたくし以外の人と」
お猫さまが、眉間をぎゅっとしている。
全身の毛まで逆立っているようだ。どうしてだろう、とナターニアは首を傾げる。
『そんなのそいつの勝手だろう? 君が気にするようなことじゃない』
「いいえ。だってわたくし、あの方の妻ですもの!」
えへんと胸を張るナターニア。
身体はどこにも見当たらずとも、そういうポージングを取れているつもりである。
「旦那さまのお考えは分かっています。わたくしが居なくなり、きっと今後は妻を娶らないおつもりでしょう。でもそんなの勿体ないですわ」
『…………』
「わたくしのせいで消費されてしまったあの方の人生を、輝かせることができる……そんな方を見つけられたら、わたくしも安心して空の国に旅立つことができると思うのです」
それはナターニアの、本心からの言葉だった。
お猫さまにも本気度が伝わったのか、やがて渋々と返事が返ってきた。
『……分かった。付き合うよ』
「えっ! まさかお猫さまも手伝ってくださるのですか?」
『手伝うわけじゃない、君を見張るだけ。目を離して、悪霊にでもなったら困るからさ』
お猫さまが放置すると、どうやら自分は悪霊になってしまうらしいとナターニアは知った。
ならばお目付役にお猫さまがついてくれるのは、何よりもありがたい。
きっとナターニアはいつまでも、残してきた人たちが心配すぎて地上に留まろうとしてしまうから。
(旦那さまに、死後もご迷惑をかけたりしたくありませんから)
与えられた期間はたったの七日間。
されどナターニアにとってかけがえのない七日間が、始まる。
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