落ち着いた本能寺

「んー! 本能寺もやっと落ち着いたみたいだし、久々の晴ればれした日だなあ」


 本能寺の変が落ち着いた五ヵ月後のこと。奴良野ぬらの山にひとつの人影があった。

 彼こそ、奴良野の頭領、水埜辺みずのべであった。この男、この山では珍しく人間という人間が大好きで、人山に下りてはしょっちゅう人間と遊ぶような変わり者。奴良野の民からは少し飽きられている情けない頭領なのである。そして変わり者がゆえに、これが奴良野を統べる者だとはよく思っていない者も少なからずいるそうな。


「……どうかされたのですか、兄様?」

「紀里」


 彼のことを兄上と慕うのは水埜辺の妹、水紀里みずきりである。彼女は奴良野一の美人と謳われており、あの故人である織田信長も心を奪われたという話があるとかないとか。また、水紀里には“触れたものを凍らせる力”があるという噂があった。

 そもそも、この奴良野という集落に住む者は皆すべて、不思議な力を持っているというが、中でも彼女の能力は稀な力だった。


 あくまでも、噂だが。


「どうしたんだい? 何かあった?」

「いえ。ただ兄様のお姿が見えたものですから」

「そう?」

「ご迷惑でしたでしょうか……?」

「誰がそう思うものか。構わないよ」

「ありがとうございます、兄様」


 水紀里は水埜辺の隣にゆっくりと腰を下ろした。

 本能寺が業火を上げ、焼け落ちた日から水埜辺はよくこの奴良野山の丘に来ては遠くを見るようになった。人間のことが好きだった、信長のことを気に入っていた彼にとって、信長の死とは思っていたよりも心に大きな穴を空けたのかもしれない。水紀里はそんな寂しそうにしている兄の背中を見ていられず、少しでも近くにいることでその穴を埋めようとしていた。


「――紀里はさ、人間は嫌い?」


 不意に問われて、水紀里は一瞬目をぱちぱちと二回瞬いた。


「何故そのようなことをお聞きになるのですか?」

「なんか聞きたいなーって」


 水紀里はハッキリと“嫌い”だと言い切ってしまいたかった。だが、それでは彼の心が傷ついてしまうのではないかと感じた水紀里は言葉を探した。


「……そう、ですね。好きでも嫌いでもありません」

「ははっ、言うね~」

「ただ、興味がない……とは言い切れないのも、また事実ですわ」

「……うん。紀里らしい答えだね」

「私は、兄様の言っていることも理解ができます。人間のことを信じているということも。でも、だからと言って、何故兄様はあんな低級種族の御身おんみを売らなければならないのですか?」

「売っている、とは……言ってないんだけどな~。それに兄様は悪いことされてないぞ?」

「ですが! 私たちはその……人とは違うのですから」


“人とは違う”という言葉に水埜辺は一瞬だけ反応する。水埜辺は一息いてから、彼女を諭すように話し始めた。


「……そうだね。でも、人間の領土でもあるこの山に我々は住まわせてもらっているのだから、人の為に働くのはどおりだろう? 誰かが奉公に行かなければ、怪しまれ、この山は終わっていた。それがたまたま俺だったというだけの話さ」

「まったくもって気に入りませんわ。人間も、一体兄様のことを何だと思っているの」

「うんうん。そうだね。一族のことを誇りに思う紀里の意見も分かるけれど、でも俺は彼らのおかげでいろんなものや出来事を知ることができている。それに、楽しいからいいんだよ。お前たちが俺の帰る場所になっていてくれるしな」


 よしよし、と彼は水紀里の頭を撫でてやる。少しだけ怒りを見せていた彼女だったが、段々と落ち着いてきたのか「申し訳ございません、取り乱しました」と肩を落とした。


「……ですが、やはり奉公に行くのはもうお控えになられた方が宜しいのではないでしょうか? 我々の言い伝えを信じる者も少なくないと聞きますし……」


『奴良野を攻め落とした者が、この国を統べる権利を有する。』


 今は亡きあの信長公でさえ落とすこと叶わなかったとされているこの山を、いつ次の天下人になろうと、奴良野山に大名や武将たちが攻めに来るとも限らない。

 この山に住む者たちがそう簡単に他の土地の者たちを入山させるとも思えないが、確かにそうかもしれないと思う部分もある。


「人間という生き物は不思議と力を欲するものです。欲望に忠実……だから汚く恐ろしい」

「……うん。でもこれは俺が俺の意志で続けると決めたこと。今、やめるわけにはいかないんだ。すまないな水紀里、聞き分けておくれ」

「……はい」


 しおらしくしている妹の機嫌を取ろうと、もう一度水埜辺は彼女の頭を撫でてやろうとした。しかし水紀里はそっぽを向いてしまった。伸ばしかけた手をそっと戻したのだった。


「――さて。そろそろ仕事に行かなくては。少しの間、奴良野を頼んだね、水紀里」

「はい。お気をつけて、いってらっしゃいませ」

「うん。あ、あと今日は天気だから洗濯物を一気に干すこと! こういうときに干しておかないと溜まっていく一方だからね。そうだ、この間掘り出した芋も干しておこう! この時期の干し芋は格別だからね~。それから、そろそろお米の収穫ができると思うんだ。帰ったらすぐにできるようにじゅ――」

「はい。すべてお任せください」


 出て行くまでの数分。この時間が一番長いと言われ続けている理由がこれである。しかし水紀里は慣れている為、会話をすぐに打ち切った。


「う、うん……。あ、それから!」

「いってらっしゃいませ、兄様」

「…………はい、いってきます」


 先ほどまで行くなと言っていた可愛い妹に、ものの数刻で今度は行って来いと言われる始末。仕事というものは背に腹は代えられない。彼はとても微妙に変な気持ちになりながら下山するのだった。


 ❀


 水埜辺を見送ると、水紀里は山の中にある集落へと向かった。


「兄上! どこだ、兄上!」


 ひとり、声を張り上げて誰かを探している男がいた。水紀里はその男が何者なのかを知っているので、あえて無視してやろうかと迷ったが、その深刻そうな表情を見て半ば呆れつつ彼に話しかけることにした。


水伊佐みずいさ……うるさいですよ。近所迷惑ですわ」

「水紀里、兄上はどこだ」

「……兄様なら、今しがたふもとへと向かわれましたけれど?」

「遅かったか……!」

「何か急ぎの用でもあったのですか?」

「あったもなにもっ……いや」

「何もないなら良かったではありませんか。さあ、兄様から沢山頼まれましたので早速取り掛かりましょう。あなたも手伝ってください、水伊佐」


 水伊佐は歯切れの悪い顔をして不満げにしていたが、双子の姉である紀里に言いくるめられ「分かった」と彼女の後を追ったのだった。

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