3.ただ青いだけの空
「ほんとごめん。もう落ちないといけないから。明日にはギルド抜けとくよ。またね」
僕は逃げるようにマイルームへと移動した。そこでオンラインステータスをオフライン表示にしたから、皆からはログアウトしたように見えたはずだ。
マイルームはだいたい八畳くらいの狭い一室で設定上は集合住宅とされている。部屋は専有エリアだが同じ出入口を他のプレイヤーと共有する仕組みなので、外観上は十六部屋の建物だけども、実際の利用者は何万人といる。そのうちマイルームでログアウトして、そのまま戻らなかったユーザーはどれくらいいるのだろう。僕は動悸が治まるのを待ちながらそんなことを考えた。
虚無の空間に八畳一間の部屋が上下左右に何万と並び、そこには魂の抜けたキャラクターたちがいる。ある者は立ち尽くしたまま、ある者はベッドに寝かされ、ある者は椅子に座らされている。魂であるプレイヤーが帰還しないなら、彼らは死んだも同然。まるで孤独死だ。外の世界に見捨てられた哀れな残骸。現実世界の僕も同じ運命を辿るのか。
漫然としながら、ぽちぽちとプレイヤーキャラクター検索画面の更新ボタンを押していた。検索条件はギルド〈サルサ〉のメンバー。言っていたとおり最初にシナモンが消えて、残りの三人はしばらく別行動した後、まっつん、☆はるる☆、Yamaichiの順に消えていった。現実世界ではまだ十一時くらいだろうか。昔は平日でも夜中の一時頃までログインしているのが当たり前で、徹夜したこともあるが、現実世界の比重が大きくなった彼らはもうそんな遊び方はしない。
ギルド設定からギルド脱退を選択しようとして、はたと指を止める。ギルドを脱退すると通知メッセージがギルドチャットに流れる。もし僕と同じようにオフライン表示にしたままログインしているメンバーがいたら、なんだか気まずい。もう少し様子を見るか。
座椅子に身体を預けてがくんと上を向いた。スノーリはマイルームに移動したまま動かしていないから、三人称視点にすれば棒立ちのまま天井を見上げているだろう。VRメットの意味が薄れる三人称視点はもうずっと使っていない。このままボケっとしているのも時間の無駄だし、いったんログアウトして……いやだめだ、現実世界には戻れない。戻りたくない。ゲーム終了はキャンセル。キャンセルだ。昔見たアニメみたいにログアウトできなくなればいいのに。
マイルームの天井には小さな丸い窓がある。×字に枠がはまっていてガラスは外の空の色を映しているからだいたいの時間帯ならわかる。二十年もプレイしてきてその小さな窓をじっくり見るのは初めてだった。窓の外の空は青い。ゲーム内は昼間だということ。昼間から部屋で暇を持て余しても怒られず、迷惑にもならず、生活にも困らないのだからこの世界は最高だ。
ギルド脱退を選択して、『ギルドから脱退しますか? この操作は取り消せません。』に「はい」と答える。キャラクタープロフィールのギルド欄が無所属に変わる。僕はマイルームから外に出る。
「闇の魔王から世界を救った英雄だぁ!」
突然の声に思わずそちらを見た。マイルームがある建物のすぐ脇で露天商をしているノンプレイヤーキャラクターのおじさんが笑顔で両手を広げている。彼はここを通るたびに僕が成した最新の偉業について褒め称えてくれるのだが、ストーリーのアップデートは何年も前に終了し、今後追加されることはないと正式にアナウンスされているから、彼のセリフもずっと変わらない。なのに、まるで初めて聞いたかのように胸を打った。
「闇の魔王から世界を救った英雄だぁ!」
こんなにすぐ近くでずっと僕を認め続けてくれた彼を、どうして今まで無視できたのだろう。僕は感謝をこめて小さく頷き返し、手を振って街の中へと歩き出した。空は晴れて雲一つない。この世界の空は本当に青一色の平坦な空だけど、これこそ僕が二十年間見上げてきた空だから、きっと現実より本物のはずだ。
街並みは中世というよりも大航海時代に近い。凹凸を陰影で誤魔化した石畳の道を歩き、通りの左右に並ぶのっぺりしたコピーアンドペーストの家々を眺める。この住宅地にはクエスト関連のノンプレイヤーキャラクターが多いから僕に反応して感謝の言葉を述べる人もいる。全てのクエストをクリアした今となっては用の無いエリアだったから昨日まではただ走り抜けていた。彼らの声も環境音に過ぎなかった。
「あなたは娘の命の恩人です」と毎日言ってくれていただろう林檎売りのおばさんの声に立ち止まる。内容はもう覚えていないけれど、助けられたなら本当に良かった。
「娘さんは元気ですか」
「あなたは娘の命の恩人です」
「林檎を一つ、いただけますか」
「あなたは娘の命の恩人です」
何度も頭を下げるおばさんに手を振って、大通りに出た。ここまで来ると僕と同じ冒険者――つまりプレイヤーキャラクター――の姿が多い。冒険者間でアイテムの売買をするための競売所があるからだ。入場券売り場の窓口そっくりな小窓が並ぶレンガ造りの建物の前では誰もが忙しく走り回り、立ち止まっている人も鞄に手を突っ込んでガサゴソとやっている。この時間帯に活動しているプレイヤーは多くないが、それでも結構な人数がいた。走る速度が二倍になる魔法や瞬間移動までも駆使してすごいスピードで動き回っている。この世界の時間の流れを逸脱した闖入者のようだが、つい昨日までは僕もそうだった。マイルームから走って競売所を見て、旅の祠へ行って目的地にワープ移動する毎日だった。歩くことを忘れてしまっていた。
競売所の前を通り過ぎて噴水広場まで歩き、いつものように旅の祠へ向かおうとして足を止め、港方面へ方向転換する。町の中心部よりも低い位置にある港地区へと続く長い坂道の入口はとても見晴らしが良かった。環境音に小さく波音が入るようになり、ミャアミャアというウミネコの声もする。並ぶ倉庫と桟橋と、そこに停泊する立派な帆船四隻まで一望できた。蟻のように小さな影は港で荷運びするノンプレイヤーキャラクターたちだ。空はどこまでも青く、海はそれより少し濃い蒼。波打ち際のアニメーションはこの距離だと省略されてしまって動いているように見えない。定規で引いたような一直線の水平線にも今さら違和感なんてない。
突然、一人の冒険者がぴょんと僕を飛び越え、急な坂道に着地してそのまま走って行った。HPバーが少し減ったところを見ると落下ダメージを受けたらしいがすぐに自然回復する。こういう見晴らしのいい場所にくるとジャンプしたくなるのは何故なのか。現実と違って痛みを感じないせいか。それにしても旅の祠を使わずに船で移動しようとする冒険者がいるなんて珍しい。新規に作成したキャラクターでまだ旅の祠のワープ機能が使えないのかもしれない。歩いて坂道を下り、港で働く人たちや走り回るネズミを追いかける猫を見ているうちにその冒険者はさっさと目的地に向かったようだった。
「やあ船長」
手を上げて呼びかけ、さらに一歩踏み込んで反応範囲に入ると船長は突然こちらを向いて両手を広げた。
「やあ、あんたかい! あんたのおかげで〈イーグル号〉はまた航海できるようになったぜ! さあ、約束どおりどこへでも連れて行ってやるよ!」
世界地図が表示される。僕は港町マヤンを選択する。
「よぅし、すぐに出航だ! 野郎ども錨を上げろ! ヨーソロー」
一瞬視界が暗転して、僕は船の甲板上に移動した。他に誰もいないから、同じタイミングで乗船した冒険者はいないようだ。船は希望に満ちた軽快なBGMとともに蒼い海を疾走する。この曲を聞くのはとても久しぶりで、初めて船に乗った時のワクワク感が思い出された。遠くにぽつりぽつりと浮かぶ島や、海鳥や魚の群れ。時にはイルカも見られる。
船で移動した場合、目的地まで現実時間で十五分かかるから利用者はもうほとんどいなかった。昔はクエストで必要なレア魚が釣れて、競売所で高く売れたから、冒険者がぎっしり肩を寄せ合い釣り糸を垂らしていたものだ。いまやその魚も競売所に行けば安値で手に入る。そういえばYamaichiと出会ったのもこの船の上だった。お互いレア魚が釣れずに何往復も繰り返しているうちに何となく気心が知れて、「釣れませんね」と彼が声をかけてきたのだった。
その頃を思い出して僕は釣り糸を垂らす。やはりレア魚は釣れない。夜になって、再び朝日が昇ってくる頃にカンカンカンと半鐘の音が響いた。港町マヤンに到着したのだ。
マヤンはジャングルから突き出た岬にある港町で、半分は陸地、半分は浅瀬の上にあって、高床式住居のような建物を橋でつないだ構造をしている。建物は土台が木材、壁が葦材のようなもので作られ、住民たちは半裸に腰蓑という恰好だからきっと蒸し暑いに違いない。少しせつなげな民族音楽風BGMが異国情緒を醸し出している。橋の上を歩いていると泡立つビールジョッキの看板が目に入った。何か冷たい物でも、と思い立ち酒場に入る。
「いらっしゃい。ご注文は?」
商品リストにはトロピカルジュースなんてものもあって、アイコンの絵を見る限り現実世界にあるようなやつだった。ブルーハワイ色のジュースにカットフルーツとハイビスカスの花が飾られている。こんなものがあったなんて知らなかった。南国リゾート風ではあるが時代錯誤な感じがして少し可笑しい。
ふわぁ、とあくびが漏れる。少し眠たくなってきた。たくさん食べ過ぎたからかもしれない。コントローラーを手放して顎の下の留め具に触れて……いやだめだ。VRメットを外したらだめだ。僕は再びコントローラーを手にする。まるで身体の一部みたいによく馴染む。ほら、このほうがずっと落ち着く。
マヤンの町には確か宿屋があったはずだ。このゲームではHPもMPも自然回復するから宿屋に泊まる必要は全くない。宿屋の存在意義はこのゲームのプレイヤーなら誰しも一度は疑問に思うだろう。もちろん僕もそうだったが、特に追究するようなものでもないので忘れてしまっていた。それを今思い出したのには意味があるような気がする。町中を歩き回って宿屋を見つけた。店主に金を払うと部屋に入れるようになる仕組みで、部屋の内装はなんだか南国リゾートホテルのようだ。飲み食いできないが例のトロピカルジュースやフルーツの盛り合わせが葦材のテーブルの上に固定されている。開け放たれた窓からは町の様子が見え、波音と、たぶん潮の香が入ってくる。
ハンモックに仰向けになった。身体を楽にして天井を見上げる。ほとんどのプレイヤーはわざわざマイルームやギルドホールに戻ったり、ましてやこうして宿屋に入ったりはしない。ダンジョンの入口とか路上とかでログアウトするのが普通だ。でももし、そのままプレイヤーが戻らなかったとしたら。この世界のそこここに魂の無い冒険者たちが転がっているのだろうか。それは不気味な光景かもしれないが、でも現実と違ってこの世界の死体は臭ったりしないから――目を閉じる。ひと眠りしよう。
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