第六章 事件発生
第48話 リタ失踪事件
木曜日の朝、九時三十分。
リタは街の広場に来ていた。エルとの約束は十時だ。いつものベンチに腰掛け、本を開いた。
「リタさんですか?」
「はい……。私に何か?」
「これ……」
本を読み始めて数分後、自分を呼ぶ高めの声がしてリタは顔を上げた。そこには十歳くらいの男の子が立っていた。彼はリタに手紙を差し出す。
「ありがとう」
「エルさんからです。それじゃ」
「あ、待って!」
リタは手紙を渡してその場を去ろうとした男の子に、「お礼よ」と言って千エールの紙幣を渡した。彼はにっこり微笑んで「ありがとう!」と言い、走っていった。
「エルからか……」
折り畳まれた手紙を見つめ、リタは呟いた。中身を見るのが不安だった。
先週エルは気にしなくていいと言ってくれたが、自分のせいで彼に不快な思いをさせてしまった。もしかすると、もう会いたくないと書いてあるのかもしれない。
リタは手紙を両手で胸元に押さえつけ、何度か深呼吸を繰り返した。そして、ゆっくりと手紙を開いた。
「ほっ……」
小さな声とともに安堵の息が漏れる。エルからの手紙にはこう書いてあった。
『リタさんへ
お待たせしてすみません。
急用でどうしても約束の時間に間に合いません。
夕方には街に出られるので、十七時頃に広場で会いましょう。
ぜひ夕食をご馳走させてください。
早くあなたに会いたいです。
エルより』
「よかった……」
リタは手紙を折りたたみカバンにしまった。そして、夕方エルに会うのを楽しみにしながら、笑顔で広場を離れた。
一方、オリビアはいつもの木曜日同様に自分で身支度を済ませ、ジョージとともに登校する。
「おはよっす。あれ、今日はそうきましたか」
「まあね、私も学習したのよ」
眉をわずかに上げ意表をつかれた様子のジョージに、オリビアは得意げに口角を上げ、笑みを見せた。いつもは髪を結おうとして失敗し、ジョージにお直しさせていたが、今日は結うのをやめた。できるかぎり丁寧にブラッシングした銀髪が風に乗ってふわりと揺れる。
「いや、ないでしょう」
「え?」
「髪結わないとか、裸みたいなもんでしょう。ちょっとこっち来てください」
「嫌よ、みんなに見られながら髪結うのなんて!」
「だから、こっちの人通りが少ないところでやるから早く着いてきてください」
「わかったわよ……」
オリビアはその後、人通りの少ない木陰に隠れながらジョージに髪を結ってもらい、校舎に入った。
教室に入りクラスメイトたちと挨拶をして、オリビアはジョージと並んで席についた。ふと、反対側の隣に気配を感じ首を左に捻ると、木曜はいないはずのレオンが座っている。
「レオン殿下、おはようございます」
「おはよう、オリビア嬢、ヘマタイト君も」
「おはようございます、殿下」
「珍しいですね、木曜日にいらっしゃるなんて。いつもはご公務でお休みですから……」
オリビアは単純に好奇心でレオンに質問した。彼は視線をやや下に向け、控えめに口元だけで笑みを浮かべた。
「実は、木曜にある体術の授業に参加しないといけなくてね。さすがに一度も出ないと成績がつけられないそうだ」
「なるほど……そうだったのですね」
「ああ、わからないことがあったらぜひ教えてよ」
「はい、もちろんです」
「ありがとう、オリビア嬢」
話している間もレオンが微笑みを絶やすことはなかった。しかし、彼は機嫌が悪いのではないかと、何かを押し殺すような声のトーンを聞いてオリビアは違和感を覚える。こういうときは気づかないフリが一番だ。今日一日を平和に過ごすために、オリビアはレオンに必要以上に近づかないでおこうと心に誓った。
十三時。街で昼食を済ませたリタは、市場の近くにあるソーダの屋台にやってきた。
休日にオリビアとよく立ち寄るところで、気分や好みに合わせたフルーツなどをフレーバーに加えて振舞ってくれる店だった。
「リタさん、いらっしゃい! 今日はおひとりですか?」
「こんにちは、リビー様は学校です。何かさっぱりするものがいいのですが……お願いできますか?」
「かしこまりました!」
店主は笑顔でレモンなどの柑橘類をカットし、ハーブと一緒にソーダの入ったコップに入れ渡してきた。リタは受け取り対価の紙幣を支払う。
「ありがとうございます。ああ、柑橘とハーブのおかげですっきりしておいしいです」
「よかったです! また来てくださいね!」
「はい、ごちそうさまでした」
リタはソーダを飲み切ると店主に空いたコップを返し、丁寧に頭を下げ市場の方へ歩き出した。
それから市場などを見回って三十分ほど経過した頃、リタは自分の体に異変を感じ始めた。
(なんだ? 頭がぼうっとしてくる……)
次に襲ってきたのは体の倦怠感だった。どこかで休もうと市場の出口を目指す。しかし、体はほとんど動かない。
(体が重い……。まずい、誰かに助けを……)
リタは市場の出口付近で倒れ込んだ。周りがざわついているが何を言っているかまでは聞こえない。
(オリビア様……エル……)
リタの視界は暗転し、意識が途切れた。
十五時、貴族学院Aクラス。
終業のベルが鳴り、担任のジョン・トルマリンの合図で生徒たちは各々帰宅の準備をしていた。
「では皆さん、明日もよろしくお願いします。さようなら」
ジョンがいつも通りレオンにそっと礼をしていたが、すでに彼は教室を出るところだった。オリビアはレオンの背中に挨拶を投げかける。
「レオン殿下、ごきげんよう!」
「オリビア嬢、また明日!」
珍しくこちらを振り向くこともせず、雑な挨拶とともに教室を出ていったレオンを、オリビアはぽかんと口を開けて見送った。
「ずいぶん急いでいるのね、いつもの優雅さが皆無だったわ」
「そうっすね」
「ジョージ、私たちはどうする?」
「う〜ん、談話室でカードでもどうですか?」
ジョージが胸ポケットからトランプの束を出してニヤリと笑った。オリビアは息を吐き、口角を上げる。
「最初からそのつもりだったのね、やってもいいけど賭けないわよ?」
「ええ〜それじゃこないだの出費をどうやって取り戻したらいいんすか〜?」
がっくりと肩を落とすジョージ。先日の百万エールを取り戻すべく必死だ。
「働くしかないわね、さあリタが戻るまでしっかりね!」
「へいへい……」
うなだれ、しょぼくれるジョージを連れ、オリビアは談話室に向かった。
十七時。街の広場。
辺りは仕事終わりの男女が増え、特に銅像付近は待ち合わせでがやがやと活気付いてきていた。
「リタさん……」
エルは急いで自分の用事を済ませ、二十分前に広場に到着していた。いつものように走ったせいで初めは乱れていた呼吸も、今はずいぶん落ち着いている。
リタがいつも座っているベンチに腰掛けているが、彼女はまだ現れていなかった。立ち上がって周りを見渡すが、やはりそれらしい姿は視界に入らない。
「こんばんは、エルさん」
「こんばんは、君は……」
自分の名を呼ぶ声に反応してエルは下を向いた。そこには朝、自分が手紙の配達を頼んだ少年が立っている。
「今朝はどうも。実はリタさんから伝言がありまして……」
「リタさんから? なんて?」
エルは膝を曲げ少年の肩を両手で掴んだ。彼は驚きの表情で顎を引く。
「え、ええと……用事ができて少し遅れるので、店で待っていてくださいと言っていました」
「店って、僕の?」
「はい、そうです。エルさんの店です」
「わかった、ありがとう。これはお礼だよ」
「ありがとうございます!」
エルは少年に一万エール渡し、自分の店に走った。
人で混雑している広場を抜け、飲み屋や飲食店を何軒も通り過ぎ、繁華街の端にある自分の店が視界に入る。
「はあっ……もうすぐ……あれ?」
今日は一度も店に立ち寄っていないので、看板は出していない。しかし、エルは店の前に何かがあるのを確認し、足を止め、野暮ったい前髪を上げて目を凝らした。
そして、すぐに走り出す——。
「リタさんっ!」
二十時、貴族学院の談話室。
消灯一時間前だというのにオリビアはジョージとカードをして過ごしていた。この間に一度食堂へ行き、夕食も済ませている。
「ねえ、ジョージ。飽きたわ」
「俺だってそうですよ、リタ遅くないですか?」
ジョージが手持ちのカードを机に散らす。賭けていないとはいえ負け込んでいたのが気に食わなかったようだ。いつもならここで文句を言うオリビアも、ため息まじりにカードを置くに留めた。
「そうね……。いつもなら十九時には戻っているのにおかしいわ」
「エルといい感じなんすかね〜」
「だとしても、リタは黙って遅くなったりしないわ」
「ま、そうっすね。どうします?」
オリビアは時計を眺めながら唇を尖らせる。
「そうねえ、あと三十分だけ待つわ。さ、もう一勝負よ」
「ええ〜しゃあないっすね」
その後、三十分過ぎてもリタは戻らなかった。こんなことは彼女が侍女として勤めるようになってから初めてのことだった。オリビアは何やら不穏な空気が流れ始めた気がして、カードをまとめてジョージに渡す。
「ジョージ、侍女控え棟に行きましょう。もしかしたらリタが戻っているか、なにか伝言があるかも」
「了解です」
ジョージが一度静かに瞬きをして、席を立った。オリビアは彼と談話室を出て侍女控え棟に向かう。
「えーと、クリスタルさんの侍女のリタさん……」
「はい、何か伝言はないでしょうか?」
「……いいえ。帰宅もしていないし、伝言もないわ。帰宅予定時間は十九時になっていますね」
「そうですか」
オリビアは先ほどまで予感だったものが大きな不安になり、心の中に影が広がってくような感覚に俯いて唇を結び、必死に耐えた。ジョージが肩に手を置き、控え棟と女子寮の管理人に話し始める。
「あの〜、俺お嬢様に仕えている護衛なんすけど、女子寮の部屋か談話室で待っていてもいいですか?」
「談話室は二十一時で閉まりますし、女子寮に男子生徒を入れるのはちょっと……」
「なんとかなりませんかね?」
「う〜ん、どなたか教師の方に聞いてみないと……」
「どうしました?」
控え棟の前で話していて目についたのか、誰かが会話に混ざってきた。オリビアが顔を上げ振り向くと、そこには体術教師のシルベスタが立っていた。
「シルベスタ先生!」
「やあ、君たち。何かあったのかい?」
「実は、私の侍女がまだ外出から戻っていないのです」
「クリスタルさんの侍女が?」
「はい。それで、俺がお嬢様の部屋に同行できないかお願いしてたんですが……」
話を聞いたシルベスタが「なるほど……」と言って頷いた。そして、管理人に提案する。
「では、私が許可しましょう。同時に騎士団の人間にも話を通して何か事件がなかったか聞いてみます。これでどうでしょう?」
「そういうことでしたらかまいませんわ」
「ありがとうございます。さあ、女子寮に行こう」
「はい! ありがとうございます」
オリビアはジョージ、シルベスタと女子寮に入っていった。頼もしい二人がついていてくれるものの、リタを心配する気持ちや胸に巣食った大きな不安は深まっていくばかりだった。
>>続く
不穏な感じで新章スタートです!
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