イベントは進行する(1)

「レイシオン様、調理実習でクッキーを作ったんです。よかったらどうぞ」


「ほう。ならば茶も入れてもらおうか」


「はい! 今回はちゃんと勉強してきましたから、この間みたいに不味いなんて言わせませんよ」


 バルコニーに設けられた一席で二人だけのささやかなお茶会を楽しむ為、アイリスは室内に戻った。このイベントの為に磨いたお茶入れ技能を存分に発揮することだろう。


 ただしレイシオンは、今回も「美味しい」とは言わないのだが。




 バルコニーから見渡せる庭園の中で、罪なき一輪の薔薇が燃え尽きた。


「はあ……」


 剪定された木の影に隠れていたサヤヒリアは、血の気の引いた顔で喉元を抑えながらしゃがみ込む。


 迂闊だった。まさかこんな場面に出くわすなんて。


 教室に向かう近道をするつもりだっただけなのに、とんだ事故だ。しかも予期できたはずの。


 ええっと、確か小説にもあったわね。男子が剣術訓練をしている間、女子は調理実習でクッキーを作る――ここで気づくべきだったわ。


 そして物語の流れ通り、アイリスはレイシオンに手作りクッキーを渡す。


 あんな小さな小袋に収まる程度だったかしら? もっとたくさんあったと思うけど。えっと、このあとアイリスが紅茶を持って戻ってきて、レイシオンはクッキーを食べる。そこにサヤヒリアが来て……。


「ああ……」


 これが物語の矯正力とでもいうのか。『サヤヒリア』がここにいるのは当たり前のことなのだ。


 出ていけるわけがないんだけどね。


 恐ろしいことに最近は火力が上がり、堪えていると喉が焼けそうになるので人目と火事に気をつけて吐くようにしていた。今はまだ目の前にあった花が一輪燃える程度で済んでいる。


 爆発物のような状態のせいでまだアイリスともまともに顔を合わせておらず、ときおり遠くから様子を見ているだけだった。


 六人も相手にしているからどうなっているのかと思っていたけれど、レイシオンとも順調にいっているようだ。悪役サヤヒリアがいない分、進みが早いのだろうか。


 こちらはバッドエンド回避の方法も思いつかないというのに。


 レイシオン以外のルートを進ませようと思っていたのに、すでにアイリス自身が他の攻略も同時進行している状態である。ならばレイシオンだけ引き離そうにも、ああしてがっしり掴んでいる状態でサヤヒリアがつけいる隙がない。『サヤヒリア』はよくもまあ、あの二人の間に割り込もうと考えたものだ。


「アリッシュベル嬢?」


 ハッと見上げるとリクスが立っていた。


「大丈夫ですか?」


「え、ええ」


 目の前の彼と言葉を交えながらも、アイリスたちに気づかれないかとつい後ろを気にしてしまう。


「少しよろしいでしょうか」


「はい?」


 流れるようなエスコートで、サヤヒリアはその場を離れてバルコニーが見えなくなる日陰のベンチへ誘導された。


「怪我の方はもう大丈夫ですか?」


「怪我? ……あ! ええ、もう平気です」


 ほら、となんの痕も残っていない手のひらを掲げる。


「よかった」


 ぱちぱちとサヤヒリアは瞬きをした。


 まさか、ずっと心配してくれていたのだろうか。


 クラスが違うこともあってリクスとはほとんど接点がない。たまに合同授業で見かけるだけで、話したのは最初に「発作」を起こして隠れていたときの一回のみ。


 思わず、目の前の顔をまじまじと見つめた。リクスは、そんなサヤヒリアの少々はしたない行為を気にすることも、照れることもなく、「それでは」と頬笑みを浮かべて実にスマートに立ち去った。


 それなりに女性に見られることに慣れているとみた。あれほどの容貌であれば当然か。


「メロール嬢も大変ね」


「あれって確か、いつもアリッシュベル嬢と一緒にいる――」


「ん?」


 自分の名前が耳に入り、そちらを向けば、物陰で休んでいるサヤヒリアには気づかず、二人の少女が歩いていた。


「あの方と親しくしているから、しょうがないとは思うけれど、責め立てられるほど悪い方でもないのよねメロール嬢って」


「ええ。私、この間大切なブローチを落としてしまったのですけど、メロール嬢が日が沈むまで一緒に探して、見つけてくれたんです。制服が泥だらけになってしまったというのに、『たいしたことありませんよ。それより見つかってよかったです』って、笑顔で親しくもない他人にあんなことが言える人、なかなかいないと思いますわ」


「そうですわね」


 それが正しいヒロイン像だ。サヤヒリアの周りは、彼女を悪女のように語ってばかりだけれど実際の彼女は善良で律儀。「サヤヒリア派」というわけでもない人は、アイリスが誰と交友を深めようと気にすることなく親しくしている。


「けれどクオリア嬢も可哀想だわ。あの方に真正面から睨まれてましたもの」


 クオリア――ニナミエル・クオリア。教室でサヤヒリアの隣の席に並ぶこともある少女の名だ。


 サヤヒリアはすぐに立ち上がった。


 いつもお茶会のために使っている部屋に彼女たちはいた。ソファに座り、囲んでいる少女たちに慰められて、泣いているのがニナミエル。


「サヤヒリア様……」


 少女たちは道を開き、サヤヒリアはニナミエルの隣に座って訊いた。


「いったい、何があったの?」




 レイシオンが手に取ったクッキーをアイリスの口に入れたそのとき、ニナミエルは堪らず声をかけた。


「ごきげんよう、メロール嬢」


 恥ずかしそうにクッキーを飲み込んだあと、「あなたがたは……」とアイリスは急に現れた令嬢たちに驚いた。


 これが友人なら気にしなかっただろうが、彼女たちは普段、アイリスとは距離を置いている者たちだ。


 一人一人がレイシオンに向けて礼をするが、彼は黙ったままアイリスの入れた紅茶に口をつけた。


「何か御用でしょうか?」


「お楽しみのところ邪魔をしてしまったかしら? 礼儀作法を知らないようだったからつい声をかけてしまったの」


「……はい?」


 きょとんと首を傾げるアイリスにニナミエルは目を細める。


「いったいどなたをその席に座らせているか、わかっているのかしら? そして殿方に対する過度な接触。貴方の態度はとても目に余ります。仮にも、貴方はもう貴族なのですから、平民のような振る舞いはやめて、少しは慎みを持って行動してくださらないかしら」


 無意識に言葉の流れは強くなり、ニナミエルはもう隠すことなくブラウンの眼差しから敵意を滲ませていた。背後にいる少女たちの目も鋭くアイリスに向けられている。


「貴族……平民……」


 アイリスは怯むどころか、立ち上がりニナミエルと真正面から向き合った。


「あなたはここで、このミノワールで、身分を持ち出すというのですね」


 じっと己を映す瞳に、ニナミエルは奇妙な威圧感を感じた。


「『学ぶ心に身分無し』。それがミノワールの、いえ、このアロヴェイオン国の理念のはず。あなたはそれを蔑ろにして、権威を振り翳す気ですか!」


「な、今はそのようなこと――」


「――ニナミエル・クオリア」


 静かに、けれど肩が重くなるほど厚く響いた男の声。彼は、自分に向けられたものでなければ静観する人間だった。


 だからニナミエルは無礼を承知でこの場でアイリスを責め立てた。アイリスだけでなく、レイシオンにも気づかせるために。


「これは、サヤヒリア・スヴァル・アリッシュベルの意向か」


 レイシオンは視線をカップの中に向けたまま。


「それとも、お前の独断か」


「ッ……ええ、そうです。私の意志で忠告しているのです。あの方は何も仰いません。――殿下、お願いがございます。どうかもう少し、あの方のことをお考えください。あの方は――」


「黙れ」


 ただの一言が重かった。冷え切った新緑に睨まれて完全に臆したニナミエルは、それ以上口を開くことができなくなった。


 それをつまらなさそうに一瞥したレイシオンは、席を立ってその場を後にする。


「……あ、待って、レイシオン様!」


 それを追いかけていったアイリス。


 気が抜けたニナミエルは、竦んだ体を友人たちに支えられていたおかげで腰を抜かさずにすんだのであった。

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