引き継がれた呪い(3)

「ライ!」


「うわ! ね、姉さん!? どうしてここが」


 古城が学校になってから増築された建物には、興味のある分野をより専門的に学び、研究するための施設が揃っている。


 その一室をひっそり我が城と化しているのはサヤヒリアの弟、ライドル。


 赤茶色の頭を震わせ、顔半分を隠す長い前髪の間から焦茶色の瞳が覗く。


 備え付けの洗面台で筒状の透明な容器を洗っているところだった。袖を捲っている腕が振り返ったせいで洗面台からはみ出て、泡がぽたりと床に落ちる。


 机の上に散らばる菓子箱。棚から溢れる物語系の書物。入り口から隠れるように棚の影に置かれたベッド。ほとんど私室と変わらない有様。とても勉学に勤しむ部屋とは思えない。メイドたちが定期的に掃除してくれる実家よりもひどいのではないだろうか。


 まさか寮の部屋もこんな風にしてるんじゃないでしょうね。


 サヤヒリアは小さな本の山を跨いだ。


「貴方の隠れ場所なんてお見通しよ。そんなことより、聞きたいことがあるんだけど」


「き、聞きたいこと?」


「貴方、メロール嬢のことは知ってる?」


 ぽかーんと口を開けたあと、間をたっぷり置いて「ああ」と今思い出したかのような声が出る。


「最近殿下と噂になってる女か」


「それだけ?」


「他に何が? ……そういえば、ちょっと前に話したことはあるけど」


「好きになった? 彼女にしたい?」


「は!?」


 ライドルの手から割れ物の容器が滑る。洗面台の底に落下する前にもう片方の手でしっかり受け止めた。


「一度話しただけだぞ!?」


「貴方が望むならくっつけようと思ったんだけど」


「なぜに!?」


 どうやら弟とはそれほど親交を深めていないようだ。


 ライドルもまた攻略キャラのうちの一人なのである。


 この数日、サヤヒリアが目撃したアイリスと他の絡みは、どれも好感度を上げて発生するイベントだった。特にお姫様抱っこのシーンは前世の友人が興奮気味に見せてくれたので覚えている。あれは、それなりに進行した状態で見れるものだったはずだ。


 満遍に七人全員、いえ、ライを除いて六人の好感度を上げてるってことよね。


 ゲームではなく現実だからこそ可能なことだろう。しかしこのままいくとどうなるのだろうか。


「逆ハー、ってやつかしら」


「なにそれ」


「男女を逆転させたハーレムって意味。なによその顔」


 あからさまに引いた顔で姉を見る弟の額を指で弾く。


「いてっ……姉さん、そんなのやりたいの?」


「そんなわけないでしょ」


「だよな」


 ライドルは泡を流した容器の中に、別の器に入っていた水を注ぎながら、


「姉さんさ、やっぱり婚約解消した方がいいんじゃないか」


 彼がそんなことを言うのは意外で、サヤヒリアはイスに座り、続きを促す。


「もし、もしもの話だぞ。父様に愛人がいたらどう思う」


「切る。いえ、ダメね。それはお母様の役目だわ」


「母様はそんな短絡的じゃないから。でも、姉さんはそういう人だ。後継が重要視され、公的に側室を認められている王族の伴侶なんて、どう考えても性に合わないだろ」


「…………そうね。でもお父様が娘のわがままで王族との契約を破棄すると思う? それに私だって公私はちゃんと切り離せます」


「公私、ね」


 ほんとは不安だ。将来的に破綻するとわかってて受け入れた婚約。けれど王子ルートを阻止しなければならなくなった今、それは難しい。アイリスではなく、婚約破棄の方が呪いのトリガーだった場合、サヤヒリアは嫌でもレイシオンと結婚しなければならない。


 あの不良王子と。


 胃が不安を感じたようにキュッと締め付けられる。


 ぽちゃん、と音がした。


 サヤヒリアが見ると水が満たされた筒の中にふよふよと上下に揺れる透明な袋のようなモノが。


「少し見ないうちに小さくなったわね」


 入学時にライドルが荷物に忍ばせていたのを見たときには、両手に溢れるほどの大きさでもっと大きな水槽に入っていた。今はサヤヒリアの手の半分もない。


「持ち運びしやすいように縮んでくれたんだ」


 ライドルは両手で筒を持ち、蓋を閉める。


 傘の部分に四片の花模様のある『魔クラゲ』は水の中で気持ちよさそうに浮遊していた。それを愛おしげにライドルは見つめる。


 彼だけアイリスと親交が深まらなかったのは、このせいかもしれない。


 『フラワーシロップ』での彼は、こうして魔クラゲを愛でることも、『サヤヒリア』とこんなに親しげにする仲でもなかった。


 生来気弱な彼は、その性格が気に食わなかった姉にイビられ、引きこもりがちになる。学園内でもほとんど人前に現れず、一人で隠れているような人間だった。


 ヒロインと親しくなるうちに、彼女を守るため恐れている姉にも立ち向かう勇気を得るのだ。


 『サヤヒリア』がサヤヒリアにな時点で、そもそもが大きく変わる。


 まずサヤヒリアは彼をいじめなかった。


 子どもの頃は、引きごもりがちの弟の手を引いて、外でよく一緒に遊んだものだ。


 海に遊びに行ったとき、幼いライドルとサヤヒリアは浜に打ち上げられていた魔クラゲを見つけたのである。


 魔クラゲ――魔力持ちのクラゲ。『魔力持ち』とは、突然変異の一種。魔力を持って生まれる生物のことをいう。彼らは通常の生態と異なり、簡単に飼い慣らされるものでもないが、ライドルはもう十年近く魔クラゲと共に過ごし、その環境が気に入っているのか魔クラゲも逃げ出すことなく共にいる。


 その存在に癒やされているおかげか、ライドルは原作ほど鬱々としていない。気弱なところや、友だちも作らずこうして隠れ家にこもっているところは同じだけれど、ずっと健全だ。


「ねえ、ライ」


「なに?」


「私のこと好きよね」


「……はあ!?」


 茹で上がったタコのような反応をからかいもせず見据えていると、すぐに落ち着きを取り戻し口を噤む。


「………………き、聞かなくても、わかる、だろ」


 魔クラゲの筒を掲げて顔を隠してしまったけれど、サヤヒリアは満足した。


「ふふ」


「な、なんだよ。なんで近づい、ちょ」


「よしよし」


 思いっきり頭を撫で回すと髪が指に絡みついた。魔クラゲの世話は熱心にして、きっと自分のことは疎かにしているのだろう。


「まったくしょうがない子ね。髪といてあげるから、こっちいらっしゃい」


「は、い、いいよ! いいから、ちょ、姉さん! 強っ、え、ま、姉さんなんか力強くなってない!?」


 まったく大げさな反応だ。力でサヤヒリアにまさったことなど、子どもの頃から一度だってないというのに。


 身長だけは抜かされてしまい、立たれたままでは上手くできない。来客用のイスもないので、しかたなくベッドに座らせて手櫛で髪をとく。


 私のもこの色だったら、そもそも婚約話なんてなかったでしょうね。


 両親や弟と異なる、金の髪に碧の瞳。サヤヒリアとレイシオンの婚約は、かつて公爵家に嫁いだ王家の血がサヤヒリアの髪と瞳に濃く現れたことがきっかけだった。


 長いこと外の血を受け入れてきた王家は、これはいい機会だと考えたのだ。薄まった血を取り戻す。この婚約はそのためのものであった。

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