「    」

 高校へ入学したばかりの春。まだ袖丈が長いブレザーと真新しいスカートを揺らしながら、淡々とした気持ちで校舎を歩いた。

 いくらか話せる子はいるけど、友達と呼べるかは怪しい。彼女は違うクラスメイトとも仲が良く、そのうちグループができあがってしまった。

 輪に入るため、嫌われないため、人に合わせて行動して。したくないことを飲み込んで、自分の感情を後回しにした。

 靴底を鳴らす分だけ偽りの笑顔を作り、みんなの表情がわからないように、脳内で顔を塗り潰す。


 そんな日々が続いた四月の終わり。

 見慣れない蜂蜜色の髪に惹きつけられて、私は屋上の階段を上がった。それほど背は高くなくて、男子にしては華奢な方。

 壊れたノブを起用に回して、彼は屋上のドアを開けた。

 派手な髪色が太陽の光を浴びて、きらきらしている。人が輝く場面を、初めて見た。

「あんた、何しに来たの?」

 見惚れていたのだろうか。気付くと目の前に、私を覗き込む鋭い目があった。

 どくん。心臓が大きく動いて、妙な音を鳴らす。


「別に。ただ、なんとなく」

 さすがに付けて来たとは言えず、うやむやに答えて視線を外した。

 同じ学校だとしても、知り合いでもないのに気味が悪いだろう。

「……俺のこと知ってる?」

「知らない」

「そう。ならいい」

 何かを守るようにしっかり囲われたフェンス。砂埃で薄汚れた床と、風に乗って漂ってくる自然の匂い。そこに立つ儚げな少年は、何もしなくても絵になる。

 じっと遠くを見つめる目も、この世のものではないようで美しい。


 夕霧ゆうぎり。それが彼の名前らしい。夕方に立ち込める霧とは、良くできた名だ。思いながら、それさえも惹かれた。


 次の日、その次の日も授業を抜け出して夕霧くんと会った。

 青い空の下へ出ると、いつも彼が笑顔で迎えてくれて。待っていたと言うような目をして、肩より伸びた私の髪に触れる。指先が器用で、よく編み込みをしてくれた。

 妹にもしているんだろうか。それとも、髪を結うほどの近しい関係の人がいるのか。私から聞くことはしなかった。


「光璃の髪って、さらさらすぎてやりにく」

「なんか、ごめん」

「……褒めてんだけど」

「えっ、そうなの? 分かりづらい」

 形の整った唇から笑みが溢れるたびに、胸の小さな花が弾けて。いつの間にか、花びらが舞い散っている。

 屋上から見える桜の木も、気付けば色を落としていた。


 陽のあたる日は、二人並んで横になって空を見上げる。

 この瞬間だけは、なにも考えなくていい。ただ、目を閉じていたら時間は過ぎて行く。

「なあ、死んだらどうなるとか、全部を投げ出して死にたいとか、考えたことある?」

 真っ暗な世界に染み込む声。

 ゆるりと瞼を開けると、蒼天が飛び込んで来た。あまりの眩しさに、目が細くなる。

「……質問が物騒過ぎない? そういう夕霧くんはあるの?」

「そりゃあ、生きてたら多少はあるよな」

 ははっと笑う横顔は、何かを秘めた色をしていた。

 抱えている事情を、お互いさらけ出したことはない。何も知らない方が、一緒にいられることもあるから。


 群青、紅掛空べにかけそら瞑色めいしょく。彼はどんな空色にも溶け込めそうで、ずっと隣で見ていられる。

「もし幽霊になるとしたら、一番最初に会いに行くから」

 愛の告白でもしているかのように、夕霧くんはじっと私を見た。その瞳の中には、落ち着いた私がいる。

 死なないで、生きてよ。そんなことは言わなかった。夕霧くんの心情を忖度そんたくできるほど、私は彼を知らない。

「なにもないの?」

「なにが?」

「……願望とか」


 寝そべって向き合ったまま、ぽつりと吐く。

 触れそうな距離にある指先がぴくりと動くけど、決して交わることはない。

 この世界はキライだけど、この人といる空間は違う。

 たとえ、単なるまやかしだとしても、もう少しそばで感じていられたら。

「どうかなぁ。生きることに期待もないし、特に重要だとも思わないんだよな」

 そんなふうに言われたら、頷くしかなくなる。私だって、他になにかを求めるほど期待などしていない。


 少し間を開けて、でもさ、と綺麗な唇が動く。むくりと上半身を起こして、仰向けの私に影が重なる。近付く顔に、小さく心臓が揺れた。



「      」



 囁くほどの甘い声が耳に落ちる。

 重なる指先はほんのり冷たくて、春の終わりを告げているようだ。

 さらさらと風に揺れる夕霧くんの髪。私を見下ろす薄命な美しさと、自分の熱とに酔いしれるなか、私たちは唇を重ねた。

 瞑った目を開けたくなくて、離れそうになる彼をそっと繋ぎ止める。

 ほんのりと甘酸っぱい香り。いくら触れていても、不安はずっと隣にいて消えてくれない。


 ーー大事なことを、忘れていた。一瞬でも幸せを味わうと、時として絶望を見るはめになること。



 翌朝、学校にパトカーが止まっていた。教室へ入る前から騒然とした空気が立ち込めていて、クラスメイトの震える声が胸を刺す。

「……どうして、うちの学校であんなこと」

「怖すぎるよ。血、凄かったらしい」

「話したことなかったけど、やっぱり原因って……」

 引っ掻くような胸騒ぎがした。ぞわぞわと気味の悪い心臓の音と、頭をかち割るようなノイズ。

 もつれそうになる足を走らせて、屋上の扉を開けた。

 そこには、見慣れた靴の片割れが落ちていて、探していた背中は見当たらず。


 ーーその日以降、夕霧くんが屋上に現れることはなかった。




 風が吹いて、髪が天へ舞い上がる。

 何から話したらいいのか、急に分からなくなった。

「ユウって、夕霧くんだったんだね」

「全然、気付いてくれないから。いつ言い出そうかと思ってた」


 ーーもし幽霊になるとしたら、一番最初に会いに行くから。

「あの約束、守ってくれたんだね」

 伸ばした指先が、夕霧くんの手を掴む。キュッと握り返された温度は、心なしか温もりを感じた。

「……入学してからずっと、光璃のこと見てたんだけど。全然気付かなかったもんな」

「ストーカーだったの?」

「言い方。密かに追っかけてただけ」

「それをストーカーって言うのよ」

「好きだったんだよ」


 最後の日。軽く触れただけのキスには、そんな意味が詰まっていたの。

 孤独から産まれる淡い想いと込み上げる熱。そして、また孤独に戻る連鎖。束の間の幸せは、絶望を再確認する時間でもある。

「ずっと聞きたかった。あの時、どんな気持ちでいたのか」

 繋がったままの指先に、くっと力が入る。


「……幸せだった。私も、好きだったから」




 一年の教室は今日も騒がしい。

 隣にいる私になど目もくれず、言葉は弧を描いて通り過ぎていく。

「ねえねえ、知ってる? この学校の噂」

「ほんとに出るのかな。ずっと昔、ここの屋上から飛び降りたっていう、の霊」

「男の子だけ生き延びちゃうなんて、運命って残酷だよね」


「おーい、授業始まるぞ。早く席に着けー」



 開いた窓から、ひらりと桜の花びらが舞い落ちた。もうこんな季節になったのか。


「その子、自分が死んだことに気付いてないんだって」



 幽霊なんて存在しない。私は知っている。

 だって、もう何年も前から、私は屋上に通っているから。

 一年の教室を出て、誰もいない階段を上がる。少し開けたドアから、春の香りが入り込んで来た。

「ノート持って来たぞ」

 靴音を鳴らしながら、白シャツにカーディガンを着た彼が現れる。優しくて力強い瞳の中で、私はにこりと微笑んだ。


「先生、いつもありがとう」

「じゃあ、昨日の続きからな」

 隣に腰を下ろす彼に、そっと近づいて。

「その前に、あのセリフもっかい言って」

 見つめる私の耳元で、甘く囁く音がする。




「死んでからも、俺と一緒に生きない?」




                   fin.

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誰もいない屋上で、きみを待つ 月都七綺 @ynj_honey_b

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