誰もいない屋上で、きみを待つ

月都七綺

ウワサの幽霊

 この学校には幽霊が出る。そう噂で聞いたことがある。

 実際に見たことはないし、信じてはいないけれど。もし本当にいるのなら、少し会ってみたいと思うことはあった。これは単なる好奇心で、決して願いではない。


 だって、幽霊なんて存在しないもの。私は知っている。



「ねえねえ、知ってる? うちの学校ってほんとに出るらしいよ」

「なにが?」

「幽霊〜! 屋上階段に」

「誰か来るのを待ってるんだって」

 キャア、怖い。なんて可愛らしい声をあげて、クラスの女子が盛り上がっている。その甲高い声は、とても怯えているようには思えない。

 そんな雑音を聞き流しながら、私は一人で教室を出た。



 高校一年の夏休み明け。クラスの輪に入りづらくなった私は、いわゆる不登校とやらになった。

 人と話していてもひとり浮いている気がして、気付いたら居場所がなくなっていて。

 と言っても、教室にいたくないだけで登校はしている。保健室にいたり、たまに屋上階段で勉強をしたり。

 だから知っている。幽霊なんて、一度も見たことがない。自分に霊感がないだけなのかもしれないけれど。

 噂のおかけで屋上へは誰も寄り付かないから、私にとっては好都合なの。


 筆記用具とノートを抱えて、いつものように階段を上る。トン、トン、トン……と来て、ふわりと髪がなびいた。


 屋上の扉前に、誰かいる。


 少し空いたドアから爽やかな風が吹き込んで、その隙間の向こうを眺めて腰を下ろしている男の子。差し込む光がきらきらしていて、透き通るような肌がキレイ。

 その男子生徒はゆっくりとこちらを見ると、小さく口を開いた。


「あんた、俺のこと見えるの?」


 数秒経って「……はい」と返す。

 だって、明らかに変な質問だ。どうして見えていない前提なのか。

「あの噂、知らないのか?」

「屋上階段に、幽霊が出るってやつでしょ」

 ふっと笑って、私は髪を耳にかけた。

「いてもいなくても、私には関係ないから」

「なんで?」

「だって見えなかったら、どっちでも構わないでしょ」

「ふーん。変な人」


 あなたに言われたくない。

 ふんっとした態度を取って、離れた隣に腰を下ろした。

 彼に構わず、出ていない分の授業がまとめられたノートを広げて、問題を解く。数回に分けて、いつも先生が用意してくれるから助かっている。

「もしかして、あんた不登校生徒?」

 人のノートを覗くだけでなく、触れられたくない部分をストレートに言う。デリカシーのない人。

「だったら、なんなの」

 少しぶっきらぼうに返したら、彼は似たような低めのトーンで。

 俺も、とつぶやいた。



 彼は、ユウと名乗った。苗字の一部なのか、名前なのかは定かではない。

 屋上へ向かうと必ずユウが座っていて、なんとなく同じ時間を過ごすようになった。

「お前、またこの問題分かんねーのかよ」

「うるさい。ユウと一緒にしないでよ。授業聞いてないんだから、仕方ないでしょ」

「俺だって聞いてねーよ」

「それ声張って言うことじゃないよ」

「まあ、確かに」


 屋上階段に響く笑い声。他の生徒が教室で授業を受けるなか、私たちは空に近い場所で肩を並べる。

 不思議と、居心地は悪くなかった。それどころか、最近はよく笑っている気がする。

 人の目とか空気とか、そんなものを意識し過ぎていたのか、上手く表情を作れなくなっていたから。


光璃ひかりって、字上手いよな」

 とつぜん降ってきた言葉に、一瞬だけ動きが止まる。褒められ慣れてないから、反応に困った。

「中学上がるまで、習字と硬筆習ってたから」

 緩みそうな口をぐっと抑えて、なんでもないような顔で勉強を続ける。

 ふーんとだけ返して、ユウも自分のノートへ視線を戻したらしい。あとは、なにを話すわけでもなく、ただひたすらに問題を解いた。

 この人といると、心がふわっと軽くなって楽だ。面倒な人間といる感じじゃなくて、そう、なにか別の空気感がある。


 まるで存在していないような、空気みたいな感じ。



 学年がひとつ上のユウが勉強を教えてくれるようになって、二週間が過ぎた。

 ユウは、私が不登校になった理由を聞いてこない。暗黙の了解で、私も聞かない。

 それは、バレンタインに誰が誰にチョコをあげるとか、数学の教師が生徒と不倫していたとか、昨日の晩御飯は何を食べたと同じで、私たちにとってはどうでもいいことだから。


 屋上階段の窓から見える桜の葉が、そよそよと揺れている。

 薄く色づいた花。知らないはずの映像が脳裏を掠めるけど、すぐ消えた。

 今のはなんだったのか。浮かんだ疑問は、しばらくすると泡のようになくなっていた。

 止まっていた手に気づいたのか、となりでユウが立ち上がって背筋を伸ばす。大きなあくびを一回して、こちらへ視線を落とした。

「なあ、少し屋上に出ない?」

「いいけど。ここ出られるの?」


 ドアには鍵が掛かっている。それは、ここを使う時に試したから認知済み。

 それなのに、荒っぽくノブを回すから止めようとした。

 ーーガチャと重い音を鳴らして、ドアが向こう側へ動く。正直驚いた。鍵は掛かっていると思い込んでいたから。

 どこからか木や花の匂いが混ざって、外の空気はおいしい。

 なにか衝撃を受けたようにぐわんと曲がる錆びれたフェンス。それと空の青さが交わって、アンバランスな背景が出来上がっている。

 あきらかに見晴らしを邪魔しているけど、その不完全さにどこか惹かれた。


 はじめに、ユウ。続けて、私がノートを抱えたまま、冷たいコンクリートに寝そべり空を仰ぐ。

「……気持ちいい」

 ほどよく熱を帯びる背中と手足。胸の奥から、ふつふつと湧き上がる欲望。

 目を閉じれば、なんでも思い通りだ。クラスメイトとも普通に話して、それなりに恋愛して。空を飛ぶことだって、できる。


 けれど現実は残酷で、瞼を上げれば自分の立ち位置が確立されているのだ。悲しいくらいに、つまらない。

 同じように仰向けになっているユウの手が、私の右手に当たった。

 とっさに、自分の方へ引っ込める。いきなりだったから、少し驚いた。

「これ、やる」

 カーディガンの袖から少し出た指が、私の手のひらに黄色の包み紙を乗せる。


「……なに?」

 リボンの形をしたキャンディだった。

「もうすぐハロウィンだろ」

「まだ10月入ったばかりじゃない。それに、ユウってそうゆうイベント事に興味ないんだと思ってた」

「ない。悪いか」

 矛盾している。そう思いながら、

「別に。ありがとう」と返した。


 なんの風の吹き回しだろう。リア充は爆発しろだの、日本にカップルの行事なんていらねぇんだと、つい最近まで散々言っていたのに。

 取り出した小さなキャンディを舌の上で転がすと、ほんのり甘酸っぱい味がした。


 となりで、むくっと立ち上がったユウが歩きながら、

「ここ来て、何か思い出さない?」

 白い鉄格子を握りしめて、ぽつりとつぶやいた。

「……何を?」

「もう気付いてるだろ? ほんとは俺が誰なのか」

 振り向いた顔が寂しそうで、心臓がどくんと揺れる。

 この空に溶けてしまいそうな瞳の色。透明の中に、どこか深い色を持つ声と面持ち。それから、鼻孔を埋め尽くすレモンの香り。

 頭の中を彷徨う記憶のピースが、少しずつはめられていく。


 ーー思い出した。

 私たちは、もっと前に出会っていた。まだ桜の咲く時期、この空の下で。

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