第三者の連鎖

nkd34

少年はなぜそれを選んだのか。

 弁護士の久志は、晩酌のつまみの冷ややっこを口に運んで、「うん、これだ」と会心の笑みを浮かべた。

 妻の絹江は、彼のグラスに冷えたビールを注いだ後、黙って台所に下がった。

「お母さんの冷ややっこが一番だ。これに限るよ」

「どう違うの? 冷ややっこなんて、切って器に乗せるだけじゃん」

娘のマリが尋ねた。彼女は夕食の途中、食べ残したハンバーグを皿の上にそのままにして、スマホをいじくっていた。

「それが違うんだよ。いいか。この切り方。小さ過ぎず、大き過ぎず。まずこの、ちょうどいい大きさというのが難しい。それから、ネギの按配。ネギってのは、扱い方次第で辛くなったり、甘くなったりする。お母さんの切り方は、甘からず辛からず、実にちょうどいい。そして鰹節。これも、多すぎてもよくないし、少ないと味気ない。これとおろし生姜の絶妙なハーモニーが、豆腐のうま味を引き出すんだよ」

「でもそれ、今日はアタシが作ったんだよ?」

マリは声を上げてバカ笑いした。久志は顔から笑みを消してマリを睨んだ。

 絹江が席に着いた。マリはスマホをしまい、残りのハンバーグに取り掛かった。

「久志さん」

「うん?」

「第三者委員会って、何をするものなの?」

「何って、ナニさ」

「何?」

「つまり、なんていうか、あれだな」

久志は、所属する弁護士事務所の指示で、市の教育委員会から依頼された、第三者委員に就任することになった。彼は今年四〇の坂を越したが、弁護士としてのキャリアはまだ一〇年に満たない。こういう公共機関からの依頼を経験するのは意義があり、また、名誉でもあった。

 近隣の中学校で、梅雨入り前に自殺騒ぎがあった。放課後、部活も終わった夜の校舎で、三年男子が五階の窓から飛び降りた。遺書はなく、動機は不明。彼の教室の黒板に、『グッドバイ』とアルファベットの筆記体で書かれ、その下にローマ字で名前が記してあった。学校の調査では、いじめの形跡はないという。警察の捜査も入り、遺族や学校関係者、友人知人らの聴取は済んでいた。事件からひと月余り過ぎたころ、遺族から教育委員会へ、第三者委員会の設置が求められた。

「学校の調査だけでは、動機が特定できなかった。対応に不備があったかどうかは分からないけれども、改めて、当時本人がどういう状況に置かれ、どういう心境で自殺を決意したか、調べようというわけだな」

「それはいいんだけど、」

絹江は空いたグラスにビールを注いだ。

「その仕事で、一体いくらもらえるの?」

久志はビールにむせた。

 第三者委員会とは、当事者以外の専門家からなる調査機関のことだ。企業などで不祥事があった時、社長や株主など、企業内に利害関係を持つ者がその調査をしても、身内をかばって正しい判断ができなくなる恐れがある。その弊害を防ぐため、企業経営に利害を持たない外部の人間に調査を委ね、不祥事の発生原因を特定し、今後の対処法を検討してもらうのだ。満州事変における、リットン調査団のようなものだ。近頃は企業だけでなく、公共団体や、政党などもこれを設置することがある。また、不祥事ばかりでなく、いじめ事件などでも設置される。

「報酬は、たいしたことないんだよ。公共団体の仕事だからね」

久志は上目づかいで絹江を見た。

「ただね、こういう仕事で名前を売ると、次の仕事が入りやすくなるんだな。ほら、区役所のホームページにあるだろ? 会議の議事録。ああいうものに、名前と、実際の発言が載ったりするんだよ。そうすると、ボクの弁護士としてのキャリアに、箔が付くんだな」

「すごいジャン。パパ、有名人になるの?」

久志は笑い声を上げた。

「だから。それはいいけど、いくらなの?」

「え? 五千円」

もう一杯もらおうとしてグラスを絹江に差し出したが、絹江はビール瓶を遠ざけた。

「五千円って! 全部で、それだけ?」

「そんなわけないだろう。日当だよ」

「一日五千円! 今時、そんなのあり得る?」

「アタシだって、一万円もらってるよ」

この春大学に進学したマリは、近所の塾で講師のアルバイトをしていた。

 マリが生まれて、久志と絹江は結婚した。当時久志は司法浪人で、両家の親に反対され、駆け落ち同然の入籍だった。絹江が勤めていたので、どうにか生計が成り立ったのだった。マリが小学校に上がる頃、ようやく司法試験に通り、研修を経て今の弁護士事務所に籍を置くようになった。弁護士活動を開始したが、いまだ嘱託の身で、収入は一般会社員より少なかった。

 事務所としては、今後、企業からの依頼が増えると見込まれる、第三者委員会での活動実績を手に入れたいのだった。報酬は少なくても、公共団体の依頼を無難にこなせば信用が増す。信用を積み上げて、企業からの依頼を誘致しようというわけだ。企業の依頼なら、報酬の桁が上がる。経験を積んだ弁護士なら、さらに多くの報酬を要求できる。

「つまりこれは、布石なんだよ」

憤慨して台所に下がる絹江の背中を眺め、手酌でビールを入れながら、マリに向かって言い訳した。

「役所の仕事をするとさ、周りの見る目が変わってくるんだよ。あいつ、すげえな、ってね。それに、役所は案件をいっぱい抱えているからね。今回うまくやれば、次も、また次もって、仕事が来るようになるんだな」

「食べて」

マリは食べ残したハンバーグを冷ややっこの器に突っ込んだ。


 市立N中学校は、坂の上にあった。隣は、県内有数の進学校であるK高校。近隣の子供は、N中からK高校に進み、東大、あるいは早慶に進むのが憧れの進学経路だった。

「お亡くなりになった生徒さんは、ソフトテニス部の部長だったそうですね」

委員長の、某大学の男性教授が発言した。

 第三者委員会の第一回の会合が、教育委員会の借りているテナントビルの会議室で開催された。メンバーは、委員長を入れて六人。これに教育委員会の担当者が一人加わって、二列になってテーブルを囲んだ。久志は入口に近い、右側の隅に座を占めた。

 委員の名簿を見て、久志は頭を抱えた。他のメンバーは、元教員や大学講師などの教育関係者や、医師、臨床心理士などの医療関係者、変わったところでは会計士などもいて、多士済々だ。ところが、誰も彼もが七〇過ぎで、八〇を越しているご老人もいた。四〇代の久志が一番若い。現役世代が彼しかいなかった。すでに関係者の聴取は済んでおり、調書を精査して可否を問うのが主な仕事だから、経験豊富な人材が適任、というわけだ。

 しかし、と久志は思った。膨大な量の調書(データファイルでギガバイトに及んでいた)を読み解くだけでも重労働だ。この老人たちに、こなせるだろうか。

「クラスでは人気者で、学級委員を務めたこともあったそうです。生徒たちの調書からも分かるように、いじめられるようなタイプではなかったようですね」

臨床心理士という、女性の委員が発言した。委員たちは一斉に俯き、手元の調書の、生徒対象のページを読み始めた。

 久志はさらに暗然となった。会合に先立って、調書は委員全員に配られていた。彼はデータファイルでもらったが、委員の中には紙ベースでもらった者が多く、その厚さは少年ジャンプ二冊分を優に超えた。画面スクロールを駆使して読んだ久志ですら、完読に丸一日かかった調書だ。老眼の進行した委員たちは、一体どこまで読めているだろう。

 というより、そもそも読んでいないのだ。だから今、この場において、虫メガネみたいな老眼鏡を取り出して、紙の文書を眺めているのだ。

「いじめではない。学業不振でもない。校内や家庭における人間関係のトラブルもない。なぜ、この少年は自殺したのでしょう?」

臨床心理士は、謎かけのように言い放った。

 座は沈黙した。誰にも答えが浮かばなかった。死を決意するに至る動機が、まるで分からなかった。成績優秀、スポーツ万能で、クラスの人気者。加えて近頃、部活仲間の女子生徒との交際が始まり、まさに順風満帆な中学校生活を過ごしていた様子が、調書から読み取れた。

「こういう生徒こそ、危険なんです!」

元教員という老婦人が、唐突に断言した。

「魔に魅入られるとでも申しましょうか。ふと、自分の置かれた場所に違和感を覚える。ここが自分の居場所かどうか、不安になる。その小さな不安が彼の中で少しずつ育って、やがて大きな重圧になるんです」

座はますます沈黙した。実に抽象的な意見だ。科学的分析の欠片もない。だが、そうとでも考えなければ結論が出そうもなかった。重苦しい空気が、明るい会議室を支配した。

「未成年者の死は不条理です。だが、不合理ではない。この世に不合理な死はない。それは、オカルトの世界にしかない。オカルトは幻想です。虚無です」

比較的若い(といっても六〇過ぎだ)会計士の男が、灰色の瞳を光らせて言った。

「この調書に全て書かれているはずです。彼がなぜ、死を決意したか。なぜ、死に場所に学校を選んだのか。なぜ、この晩でなければならなかったのか」

「どこに書いてあるんですか」

元教員が尋ねた。

「それが、専門家ならざる私には、読み取れないのです」

会計士は眉一つ動かさなかった。

「ただ、どんな死にも、合理的な理由がある、ということだけは申し上げておきたい。それは、どんな債務にも、合理的な理由があることと同様です」

また、全員が調書に目を落とした。

「しかし、何ですな」

小柄で太った隻眼の医師が、赤ら顔を起こして発言した。

「随分多くの人が、証言していますな」

当日、少年と接触した人物は全部で九人。だが証人の数は、非接触者も含め、三桁に及んでいた。

「この日は定期テストの返却日でして、」

教育委員会の担当官の女性が説明した。

「生徒は、数学の採点に異議があって、担当教師に訂正を申し入れたそうです。ですが、受け入れられなかった」

「なるほど。それを気に病んで死を決意したわけですね」

臨床心理士が身を乗り出した。

「成績不振に悩んでの自決ですか。しかし、それはあまりに短絡的ではありませんか」

大学教授がため息交じりに言った。

「得点を見る限り、死にたくなるほど悪いわけではない。修正箇所が正解になれば満点ですよ」

「その点については、担当教師だけでなく、この日授業を受け持ったすべての教師が指摘していますね」

調書には、少年の一年一学期からの内申点と、定期テストの得点も付録されていた。学校でも、放課後に通っていた学習塾でもトップの成績だった少年は、内申点が毎回オール五だった。

 担当教師の狙いは、彼の悪筆を直すことだった。彼は、Xを筆記体で書く癖があった。それ自体悪いことではないが、急いで書こうとする時、XがZに見えることがあった。英語の答案ではないので許容範囲だ。だが担当教師は、入試の本番でその癖が出ることを危惧して、敢えて注意喚起したのだった。

「指導としては、全く適当かと思われますが」

元教員がため息をついた。

 議論はまた停滞した。医師が茶をすすり、他のメンバーは漫然と調書を捲った。

「これは、自殺ではありませんね」

久志が発言した。

他のメンバーが、一斉に彼に注目した。

「君、それは、どういうことかね?」

大学教授が、ドスの聞いた声を出した。

 しまった。余計なことを言ったか。

 第三者委員会などは所詮、言い訳だ。自殺者は痛ましいが、すでに起こってしまったことだ。神ならぬ人間は、死者を生き返らせることはできない。しかし遺族は、それでは納得しない。たとえ真実が一つであろうとも、他の可能性を模索するために、この機関の設置を要望する。

 だから、というわけでもないが、委員会の活動は、一つの様式の範囲内に収まっていれば十分なのだった。すなわち、当事者及び警察の捜査に不備なし。この最終結論に到達すればいいのだ。だが、あまりに結論が早いと、何もしていないのではないかという批判を被る恐れがある。また、逆に遅いと、何をしているんだと叱られる。その按配が、委員らの悩みの種なのだ。

 ところが久志の発言は、年配の委員らのこうした思惑を軽く一蹴した。年寄りの冷や水とはこのことだ。

 険悪な十一の視線が、彼を睨んでいた。

「つまりですね、」

久志は慌てて立ち上がり、手振りを加えて説明した。

「証人の多さが不自然に見えますが、少年が人気者であり、事件現場が人の集まる学校であることから、必ずしも不自然とは言えないと思います。むしろ、大勢の証人が、一様に発言していることが異様なのです」

クエスチョンマークが空中に浮かびそうだった。全員の視線は、冷たいまま、久志に突き刺さった。


 マリは、夕食のトンカツを持て余していた。

「殺人なら、犯人がいるわけだよね?」

「そうだよ」

久志は自分でグラスにビールを注いだ。

「ここまでの話で、材料は出尽くした。さあ、犯人は誰だろう?」

マリはスマホから顔を上げた。

 絹江が台所から現れて、つまみのもつ煮を久志の前に置いた。

「うん、これだ」

例の如く妻の料理を褒めようとしたが、絹江は取り合わず、また台所へ引っ込んだ。

「そんなに成績のいい子なら、当然県内のトップ校を狙っていたわけだよね?」

「ご明察」

「だとしたら、まだ中三の一学期だけど、テストの点数が、入試に必要な内申点に影響するわけジャン」

「その通り」

「今回、得点を下げたせいで数学の内申点がワンランク落ちたら、トップ校を逃す可能性もあった」

「そうなんだよ」

「でも、それだけで死ぬかなあ」

マリは背もたれに寄り掛かって、頭の後ろで手を組んだ。

 二年まで常に一番だった少年は、三年になっても当然一番であることを期待されていた。二番に落ちることは、彼自身の主体性を失うことを意味した。

 しかし、実際にそういう状況だったとしても、それが自殺に至る動機になり得るか。

「人間の意志はね、自分一人の考えだけで成り立つわけじゃないんだよ」

もつ煮に七味を掛けながら久志は言った。

「周りの人間に考えを肯定され、補強されて、改めて成立する。個人の意志なんて、そんなものなんだよ。この子は、自分の優秀さを自覚していただろう。でもそれ以上に、周りの人間が、彼の優秀さを認めていたんだな」

マリはトンカツを一口かじった。

「そんな彼が、彼特有の悪筆のために失点した。これは、周りの人間、先生や両親、親しい友人たちにとって、一つのクライシスだった。完璧に見えた少年の、唯一の弱点だ。彼はこれを、この日会ったすべての人に指摘され、同情されたんだよ」

この日、会う人ごとに同情された少年は、自分の悪筆が招いた事態の重大さに戦慄した。同情の連鎖。誰もが彼を慰めるという異様な事態。世界が彼を慰めたのだ。他人からの同情が重なるにつれ、彼は、自分の存在の軽さに絶望した。

 マリはバカ笑いした。絹江が席に着いた。

「ウン! お母さんのもつ煮が一番だ!」

「何でも一番だったら、結局、何を食べても同じってことだよね?」

久志は、にわかに砂を噛んでいるような気分になった。

(了)

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