第164話 口づけを交わす
これまで『初心者の森』内で幾つか舞台が分かれていたので、タイトルにそれぞれサブで明示してきましたが、今回にてやっとそれがなくなります――つまり、ついに主人公とヒロインの再登場で終盤突入です。
―――――
「ちい……屈辱だな。法国の聖女を前にして逃げ出さなくてはいけないとは……」
エルフの女将軍ジウク・ナインエバーは舌打ちしつつ樹々の間を颯爽と駆けていた。
さすがに『森の民』だけあって、月明りがろくに届かない暗闇の中でも、木の根に足を取られず、また枝々や草花にも邪魔されずに難なく走っている。
むしろ、草木が意思を持ってジウクを避けていくほどだ。この点だけをみても、エルフ種がいかに森に愛されているか分かるというものだ。
ところが、そんなジウクが今度は「はあ」とため息をつく――
「老いたとはいえ、あれが噂に聞く近衛騎士ローヤル・リミッツブレイキンか。なるほど。先帝が警戒しただけのことはある」
相手が聖女とその守護騎士だけならば、リンム・ゼロガードの義理の娘たちと一緒にまとめて相手をして、その力量を見定めてもよいと考えていた。
だが、『初心者の森』の入口広場には老騎士ローヤルとその手勢まで押し寄せてきた。
たとえ多勢に無勢ではあっても、有象無象の騎士たちはジウクにとって敵ではない。そもそも、ここは森だ。地の利はジウクにある。
ただ、そんな利を得ていても、ローヤルを敵に回すのは厄介だなと感じた。一目見ただけで、リンムと同等の――いや、それ以上に老練な相手だとみなせた。
「生に限りある人族で、あの
ジウクは駆けながら、また「はあ」と大きな息をついた。
ダークエルフの錬成士チャルが得意の認識阻害でもって、ジウクを
結局、逃げきる為に、チャルには
帝国の三将の地位にいるのに財産がないとはこれいかに? ――と思われるかもしれないが、ジウクは回避特化型の魔剣士なので装備は損傷しないし、エルフ種なので小食だし、それに住まいも官舎で質素な生活を送っていて、その俸給のほとんどを帝国内の教育機関に施してきた。
それに帝国では質実剛健が好まれ、王国のように華美な風土を持たない。
おかげで、
「まあ、肩叩きでもして恩を返すさ」
子供ではあるまいし……はてさて、チャルがそれで本当に許してくれるかどうか。
何にしても、森をずいぶんと駆けて、ジウクは「ん?」と感づいた。ついにリンムとその
森の囁きが、虫の音が、あるいはささやかな風なりが――あと数十メートル先に二人がじっと立ち尽くしていると教えてくれた。わざわざジウクを待ってくれているのだろうか?
「まあ、いい。さっさと合流して帝国に帰るとするか」
ジウクは闇を掻き分けて、二人のもとに一気に駆け抜けたのだった。
繰り返すが、法国の第七聖女ティナ・セプタオラクルは――
いやいや、聖女だろうというツッコミは――いっそ、野暮だろうか。
本来、これほどに暗闇が下りたとあっては、たとえ『初心者の森』を最もよく知っていると自負するリンムだってろくに前に進めないものだが……ティナはひょいとリンムを肩に担ぎ、さながらターザンよろしく、
「あー、あああーっ!」
と、雄叫びもとい
これにはリンムが「んな……馬鹿な」と青ざめたくらいだ。
先の入口広場でジウクから「とりあえず、山々の方に向かって進め」と教えられていたので、ティナは素直にそれに従った格好だが……途中でふと足を止めて、月明りがよく映る川べりに下りた。
たしかにこの川を越えて、先にある山々を上っていけば帝国にたどり着くものの……
「さすがに帝国に逃げるのは……マズいんじゃないかしら」
ティナは今さらになってまともなことを呟いた。
たとえジウクが匿ってくれたとしても、帝国にはティナの命を狙った一派がいるのだ。
第三聖女のサンスリイ・トリオミラクルムに会いたくない一心でここまでやって来たとはいえ、そんな危険な帝国に果たして逃れていいものか。
もちろん、ティナ一人が狙われるのなら構わないのだが、そのたびに守護騎士のリンムが
「やっぱり……ここは川沿いに進んで、ムラヤダ水郷の方に落ち延びるべきかしら?」
すると、そんなタイミングで「ん-んんん」と、担がれていたリンムが声を上げた。
猿轡をされていたのでろくに声が出なかったのだが、ティナはここまで来たならもういいだろうと判断して、四肢の拘束も含めて全てを外してあげる。
リンムも若くはないので、さすがに血の巡りでも悪くなったのか、こき、こき、と幾つか関節を伸ばしたりしながら「ふう」と息を吐いてから、やっとティナのもとに進み出た。
「ティナ。イナカーンの街に帰ろう。こんなことは馬鹿げている」
「馬鹿げてはいません。それほどに、私はお姉さまに――第三聖女サンスリイ様にお会いしたくないのです」
「だからといって地の果てまで逃げられるわけではなかろう?」
「地だろうが、海だろうが、空だろうが……何なら天であろうとも、別世界だろうとも、私は逃げてみせます。いっそ、これこそが神が私にお与えになった試練に違いありません」
ティナはそう言って、いかにも敬虔っぽく胸の前で祈りを切った。
そんな様子には、変なところで信心深いもんだなと、リンムもやれやれと肩をすくめたものだが、
「逃げることが君にとって、本当に試練になるのか?」
「…………」
リンムの問いかけにティナは沈黙をもって返した。
そもそもからして、ティナはもともと勝気な性分だ。貴族子女の頃は気に喰わない第四王子フーリン・ファースティルを社交界で殴って、また法国の神学生時代はスーシー・フォーサイトを好敵手としてみなして突っかかった。
たとえ聖女見習い時に散々に
だからこそ、リンムはティナの両肩をがっしりと掴んだ。
「立ち向かうことこそ、俺たちが今、なすべきことではないのか?」
「……おじ様?」
「さっきだって森の入口広場で話したばかりだろう。俺はもう覚悟を決めた。君の守護騎士になる。つまり、それは――君にはっきりと向き合うということでもある」
リンムはそう断言して、ティナを真っ直ぐに見つめた。
その瞬間だ。月明りが木漏れ日となって、川に乱反射して二人を煌々と照らした。
「でしたら、おじ様――いえ、我が騎士、リンム・ゼロガードよ」
「何だい?」
「私にキスをしてくださいますか」
「…………」
「勇気がほしいのです。力がほしいのです。貴方がほしいのです」
「俺を――?」
「はい。私にいただけませんか? 貴方の全て――とは言いません。せめて立ち向かっていけるだけの望みと想いを」
今度はリンムがわずかに沈黙をもって返す番だった。
とはいえ、リンムはとうに心を決めていた。いつだって姫を目覚めさせるのは王子様の役割なのだ。もっとも、姫というにはティナはお転婆に過ぎたし……リンムだって王子様ではなくおじ様ではあったが……
「ティナ……分かった。じゃあ、いくよ」
「はい」
こうして二人が唇を交わそうとした――
その瞬間だった。がさっ、と。すぐそばの草木が大きく揺れたのだ。
もしや野獣か、と。リンムがとっさにティナを守るように背中に隠すと、眼前に現れたのはエルフの女将軍ジウク・ナインエバーだった。
「待たせたな」
「全くもって待っていないですわ!」
このとき、ティナが地団太を踏んだのは言うまでもない。
何はともあれ、こうして三人はついに森の奥地で合流したのだった。
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