第152話 等価交換
リンム・ゼロガードが人生で一番驚いたのはまさにこのときだったろうか……
「
すぐそばにいた義娘のスーシー・フォーサイトが唐突にそう言ったときには、リンムもまだ冷静だった。
そもそもからして第三聖女ティナ・セプタオラクルが関わる事件では、まともな人物ほど、まともでない言動を取りがちになる。
これまでの数々の経験から、リンムは心中でこれを『ティナ効果』と呼んでいたわけだが――
またそれが発揮されてしまったのか、と。
リンムはやや項垂れつつも、まあスーシーならばもとに戻ってくれるはずだと信じ切っていた。
が。
そのスーシーはというと、急にしなを作って、リンムに体を預けて絡みついてくる……
「さあ、領主チャカ様の縄を解いて、私と一緒にイナカーンの街に戻って来て! そうしないと――義父さんの頬に
がーん、と。
リンムの受けた衝撃たるや計り知れなかった。頭頂部がわずかに後退したほどだ。
何せストレスは毛根の敵だ。ティナのやらかしに迅速に対応しなくてはいけないというのに……リンムの敵が無駄に増えてしまった格好である。
もっとも、そんなリンムにスーシーはこっそりと耳打ちした。
「義父さん……ごめん。でも、これは作戦なの。お願い。乗ってくれないかしら?」
「さ、さ、さ、作戦?」
「ええ。そうよ。名付けて『ちゅーしちゃうぞ大作戦』」
「…………」
リンムは育ての親ながらにして、またもやちょっとした衝撃を受けたわけだが――それはともかく、リンムは
「そ、それは……いったいどういう作戦なんだ?」
「しいっ。今は少しだけ黙っていて。相手に気づかれるわ。それに、ティナの様子を見てくれれば本作戦の効果はすぐに分かるはず」
リンムは「う、うむ」とわずかに首肯してティナへと向いた。
さて、当のティナはというと――見事に顎がカポーンと外れていた。せっかくの美少女が台無しである。
もっとも、そのままだと発声も
直後だ。
「ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅううううううううううううううううううううう?」
どうやら、ティナの受けた衝撃はリンム以上だったようだ。
それもそうだろう。ティナからすればスーシーはリンムの義娘で、完全に安全牌だとみなしていた。
さらに言えば、神学校時代からの親友で、守護騎士の件も、恋愛も、応援してくれているものと思い込んでいた。
もちろん、その認識は正しい。それにリンムの義娘たちは全員、ファザコン気味ではあるものの、少なくともスーシーに限って言えば、一番早く孤児院から巣立ったこともあって比較的自立していた。
そんなスーシーが蛇みたいにリンムに絡みついて、その片頬に「ふっ」と、いかにも悩ましげな吐息をかけているものだから――ティナの驚きたるやかくやといったところだ。
とはいえ、さすがにジウクはこの場にいる誰よりも冷静だった。
「ティナよ。ちゅーぐらいで何をそんなに動揺しているのだ?」
「だ、だ、だって……ちゅーですよ!」
「夫婦ならば幾らでもしているだろう? それに頬へのちゅーぐらい挨拶みたいなものだぞ」
「そりゃあ、エルフ種にとってはそうなのかもしれませんが……私からすればあれは完全な不倫です。しかも、これみよがしな絶対にやっちゃいけない不純です」
この言葉にはリンムも、スーシーも、そもそも「不倫どころか結婚もまだしていないだろ」とツッコミたかったわけだが……
何はともあれ、頬にちゅーを不純とも言い切るあたり、意外なところで聖女っぽいんだなと、二人はティナの新たな側面を見つけた思いだった。
もっとも、おかげで効果はてきめんだ。
ティナはあわあわして、「し、仕方ありません……こうなったら熊さんを解放するしか……」と呟き始める。
そんな様子にスーシーは「ほら」と、リンムに視線をやった。リンムも「なるほど」と呻った。
当初はスーシーの気でも狂ったのかと驚いたものだが、今では完全にこの状況を冷静に捉えられるまでになっていた。
ただ、さすがに相手のジウクはそれ以上に落ち着き払っていた。
いかにもやれやれと、「はあ」と小さく息をついて、樹に吊るされていた領主チャカ・オリバー・カーンのもとに歩んでいく。
その様子にティナも、「人質を返してあげてください」と観念したものだが……
「何を言っているんだ? あちらがリンムを盾に取るのだから、こちらも人質に同じことするだけだ。もっとも、そちらはちゅーだけらしいが――こちらはこの熊みたいな男の命を貰い受けるがな」
ジウクはそう言って、領主チャカの首筋に短剣を立てた。
がびーん、と。
このとき、領主チャカの衝撃もまた計り知れなかった。
何せ、冴えない
ちなみに後世、チャカは心を入れ替えて第四王子フーリンに仕え、領民にも尽くしてイナカーン地方の発展に貢献するわけだが――
「私の改心は全て、聖女様のお教えによるものです」
と、後に語ったものの、歴史家は誰一人として、愚物と称されたチャカがどのようにして善政を敷く人物へと変貌したのか、全くもって読み解くことができなかったらしい……
何にしても、こうして『初心者の森』の入口広場は一時、あまりにも不毛なにらみ合いが続いたのだった。
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