第76話 這いよる(終盤)
冒険者ギルドの受付嬢パイ・トレランスは神聖騎士団長のスーシー・フォーサイトの右腕を取りながら、
「スーシーちゃん?」
と、小さく声をかけた。その声音は怯えで震えてさえいた……
これは仕方のないことだろう。何せ、遠くにいる聖女、もとい
「もしかして……あれが魔獣?」
「気をしっかりもって、姉さん。あれでも一応は人よ」
「でも、これほどに禍々しい
「そうね。まあ、危ないのは否定しないわ」
しかも、スーシーがうっかり肯定したものだから、パイはぶらりと気を失いかけた。
これまでパイは受付嬢として、幾人かのBランク冒険者たちに魔獣の討伐依頼を出してきた。
だが、凶悪な
まさか魔獣があれほどに
そうはいっても、
パイとしては、今、ここで、眼前の獣を早期に討たなくては王国を揺るがしかねない事態に発展するやもしれないと――そんな悲壮な覚悟でもってスーシーの右手を弱々しく握り直した。
「団長……」
「お姉様……」
一方で、スーシーの部下たる女騎士メイ・ゴーガッツやミツキ・マーチとて、パイと同じ思いだった。
もしかしたら魔の眷属が誕生する瞬間に立ち会ってしまったのかもしれない……
これまで魔族は奈落から生じると教えられてきたものだが……人族の脳ミソがあまりにぱーになったことで、原初の魔族は生まれたのかもしれないと、二人はそんな事実を信じるまでになっていた。
さて、そんな淫獣はというと――
自らの背後、少し離れた木陰のあたりにじっと視線をやった。
そこに誰がいるのか、すでに分かっていた。ダークエルフの錬成士チャルに加えて、元Aランク冒険者のオーラ・コンナー水郷長まで現れたのだ。だとしたら、もう一人――肝心の人物が出てこないはずがない。
だからこそ、淫獣スーシーは雄叫びを上げた。
「がる! がるるるううう!」
(意訳:分かっているわ! そこに隠れているってことくらい!)
その猛き咆哮を耳にして、スーシーも左拳をギュっと固く握った。
最早、不倶戴天の覚悟だった――
親友をこの手で討たなくてはいけない……
あるいはもっと早く諌めていれば、こんな事態には陥らなかったのかもしれない……
だが、今となってはそんな仮定の話など無意味だ。しかも、最悪なことに、眼前の淫獣はスーシーの実力をすでに超えている。
「刺し違えても……止めてみせる」
スーシーはそう呟いて、血が滲むほどに下唇を噛みしめると、すぐ隣にいたパイに伝えた。
「姉さん。私がやられたときには……素直に
「え? やられるって……どういうこと?」
「もう行くわ。姉さんの弟分だったこと――いえ、妹だったことを今でも誇りに思っている」
スーシーはそこまで告げて、パイの手を振りほどくと、ついに一歩を踏み出す――
そう。踏み出そうとしたところで、暗闇の中から、すうっ、と。一本の腕がスーシーを制するかのように伸びてきた。
「だ、誰……?」
こんな間近に迫られるまで気づくことも出来なかったのかと、スーシーはさすがにギョっとしたものだが……
片手で制してきた人物を見て、スーシーも「ああ」と納得した。
元Aランク冒険者のオーラ水郷長がやられた今、イナカーンの街であの淫獣を止められる者がいるとしたら――リンム・ゼロガードを除いては、たしかにこの人物しかいないだろう。
「お待ちください、スーシー神聖騎士団長。どうやら彼女が呼んでいるのは……むしろ僕のようですよ」
その人物は――冒険者ギルドのギルドマスター、ウーゴ・フィフライアーだった。
ともあれ、ウーゴからすれば、ちょっくら夜飯のご相伴にあずかろうといった程度の気分でふらふらとここまでやって来た。
つい先ほど、オーラ水郷長にリンムの家を教えたことで、もしかしたら今頃、リンムはオーラに手料理でも振る舞っているかもしれない。
それはそれで……何だかオーラだけズルいな、と。そんな軽い
それがまさか……法国の第七聖女に、神聖騎士団の団長と幹部二人、さらには部下の受付嬢に加えて、見知らぬ女性冒険者までいるとは思ってもいなかった。
しかも、仲良く食事をしているどころか、リンムの自宅付近で凄惨な事件にまで発展しているではないか……
「さすがにこの街のギルドをあずかる者として……看過は出来ませんね」
以前にも記したが、冒険者ギルドはちょっとした公共施設だ。
領都から派遣される衛士たちとは別に、冒険者に
「ここは、僕に任せてください」
ウーゴはスーシーに代わって一歩を踏み出した。
すると、淫獣スーシーはまた激しく猛ってみせた――
「がるるるる! (意訳:隠れていたのはやはり貴方だったのね!)」
「だとしたら、どうするのです?」
「がる? がるう? (なぜ? おじ様の家に?)
「いやね。ちょっとしたご相伴にあずかろうと思いまして」
なぜウーゴが
「がるっう? (ご相伴?)」
「ええ。何せ、美味しいですから」
「が、が、ががががるるるる? (た、た、食べたことがあるの?)」
「はい。幾度か」
このとき、ウーゴは淫語をそれなりに分かってはいたものの、さすがに細かなニュアンスまでは把握していなかった。
だから、なぜ淫獣がそこまで動揺しているのか、いまいち理解が覚束なかった……
「がるるるうううううううううう!」
(意訳:
結果、これである。
さて、少しだけ話が逸れるが――ギルマスのウーゴ・フィフライアーは当然のことながら強者だ。
近衛騎士団の副団長として、王国最強を誇るジャスティ・ライトセイバーの片腕を務めあげてきた実力は伊達ではないし、それに若くして天才と謳われたスーシー・フォーサイトからも「まだ届かない」と評価されている。
そもそも、オーラ・コンナー水郷長がAランク冒険者を退いときも、「この地方にはウーゴの野郎がいるからゆっくりしていてもいいよな」と任せきっていたし、またリンムからしても「俺では遠く及ばない」と、ウーゴを見て自らが弱者であることを認めたほどだ。
そんな強者のウーゴだったにもかかわらず、
「うっ……ごおおお」
腹部へのワンパンのみで、ウーゴは地に伏していった。
これにはスーシーも、パイも、女騎士のメイやミツキたちも、「ひいいっ!」と悲鳴を上げるしかなかった。
「が! るるる、おおおおお!」
(意訳:さあ! 心置きなく、
こうしてついに第三の被害者まで誕生して、どうしようもないエピソードの幕は一応閉じようとしていたのだった。
―――――
スローライフ編……?
次話で一気にスローっぽくなります!
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