第51話 世界と本妻と魔女は懸念する(後編)
この大陸のへりのほとんどは断崖で、いわゆるフィヨルドなので海外からの侵入者を阻んでいる。
その為、遊泳や航海技術があまり発達しなかったことについては以前にも述べた通りだが、それでも過去に最果ての海域を抜けて入植者がやって来たように峡湾は存在する。今ではこの大陸唯一の港湾都市――
地理的には王国の辺境ことイナカーンの街の北北東で、『初心者の森』の奥にある険しい山々を超えると帝国領となる。そもそも帝国は東の海を除いて三方を丘や山で囲まれた自然の要害をもとにした軍事国家だ。
大陸中央の平野にあって様々な物が流れ込んでくる王国が文化国家を自称して、どちらかと言えば奢侈や華美を好むのとは対照的に、帝国においては質実剛健が重んじられて、出自や種族に関係なく、力や知識ある者が出世する傾向にある。
また、以前にもちらりと記したように、この大陸はもともと
つまり、帝都ヘーロス・シティとは英雄ヘーロスが最初にキャンプを張った土地であって、この大陸の文明は全てここから始まって、方々に流れたといっても過言ではない。王国も、公国も、法国も、もとはというと帝国の一部でしかなかったわけだ。
さて、そんな質実剛健かつ実力主義を掲げる帝国にあって唯一の例外がいわゆる帝王だ――
「それでは釈明せよ、リィリック。これはいったい、如何なることだ?」
簡素な煉瓦造りの堂で、これまた静かな声音がよく響いた。
それだけで問われたリィリック・フィフライアーはびくりと肩を震わせる。彼女ほどの実力をもってしても、恐怖や畏怖を一時とも忘れさせることがない――眼前にて廟堂の正椅子に座している人物こそ、帝王ヘーロスその人だ。
ただし、かつての英雄ヘーロスの面影はすでにない。これで
エルフ種を
今も、法国の第七聖女捕縛の報を知らようと跪いたリィリックの後に、魔族サラこと魔王アスモデウスが討伐されて、なおかつ奈落まで奪われたとの急報が届くや否や、
「ば、馬鹿な……」
と、リィリック・フィフライアーが絶句する間もなく、帝王ヘーロスは椅子の肘掛けを、トン、と人差し指で叩き、
「つまり、リィリックよ。
そう詰問した。リィリックは咄嗟に返事をする。
「め、滅相もございません!」
「王国でお尋ね者となっていた貴様を拾ってやったのは朕の慈悲では決してない。貴様なら王国を堕とせると考えたからだ」
「は! ありがとうございます!」
「よい。だからこそ、繰り返す――朕を騙すつもりだったのか?」
リィリック・フィフライアーはごくりと唾を飲み込んだ。気づけば胃酸が逆流していて、「くっ」と、一瞬だけ表情が歪んだ。
とにもかくにも、ここが分岐点だと考えた。帝王ヘーロスの望まぬ答えをした瞬間、魔核はこの場で否応なく潰されることだろう。
帝王ヘーロスももちろん強いが、それ以上に今、朝議を行っているこの廟堂には大陸でも指折りの実力者が立ち並んでいる。リィリック単独では逃げることすら
だからこそ、リィリックは必死で考え抜いた。
なぜ魔族サラこと魔王アスモデウスほどの実力者が敗れたのか?
大妖精ラナンシーが動いたのか? いや、それはないはずだ。そもそも、公国を滅ぼした際もラナンシーは微動だにしなかった。いわば、ラナンシーはこの大陸の覇権に興味を持ち合わせていない。彼女の関心は『妖精の森』にしかなく、邪魔をしない限りは不干渉を貫くものと認識していた。
実際に、公国に奈落を設置して、次いで『初心者の森』に顕現させたときも、妖精たちを通じてラナンシーは気づいていたはずなのにリィリックたちの動向を無視した。
となると、原因は一つしか考えられなかった。
いわば、リィリックは
「そうか……リンム・ゼロガードか」
リィリック・フィフライアーは無意識のうちに呟いた。
そして、すぐに自らの口もとに「はっ」と片手をやった。それで正解かどうか確信を持てなかったからだが、
「ほう。その名前……どこかで聞いたことがあるな」
どうやら帝王ヘーロスは関心を抱いたようだ。その身をわざわざ前に乗り出してきた。
「はてさて、いかほどの人物だったか?」
帝王ヘーロスがそう問いかけて顎に片手をやったものの、その御前に二列に分かれて立ち並んでいる幹部たちは無言になった。
それも仕方のないことだろう。王国のFランク冒険者を知っている者など、この質素な廟堂には
どこかでその名を耳にした帝王ヘーロスと、
王国辺境における陰の実力者として注視していたリィリック・フィフライアーと、そして何より、
「リンム・ゼロガードとは王国の冒険者で、以前と変わりがなければ、イナカーンの街に住んでいる人族の男性です。年齢は四十ほど。片手剣を扱って、大妖精ラナンシーに師事した実力者でもあります」
「ほう。そうか。思い出したぞ。そのリンムなる者は、たしか……」
「はい。私の
それだけ答えて、列の先頭に立っていたエルフの女性は立礼を尽くした。
帝国の三将の一人で、帝王ヘーロスの指南役も務める重鎮――エルフのジウク・ナインエバーだ。片眼は深い傷と共に潰れている。そんな隻眼ながらも、エルフ種としての美しさは一切損なわれていない。
かえって将軍としての慇懃さ、あるいは軍人らしく金髪を耳もとまで短く切った実直さも含めて、世界にはこのような険しい美しさも存在するのかと、見た者全てを改めて魅了するといった危うさまで持ち合わせている。実のところ、帝王ヘーロスの初恋の人物でもある。
もっとも、帝国を長らく支えてきたにもかかわらず、その夫たるリンム・ゼロガードの名前を幹部たちが知らなかったことから察するに、誰もエルフの女将軍ジウクのプライベートについては詳しくないらしい……
すると、帝王ヘーロスは「かか」と高々と笑った。
「そうか。貴様の
「いえ、全く。今日この日までその名を忘れかけていたほどです」
「ふん。貴様らしいな。さて――」
そこまで言って、帝王ヘーロスはその掌に片頬を乗せた。逆の手の人差し指で、トン、トン、と肘掛け叩いて思案を始める。それに合わせて、エルフの将軍ジウクは尋ねた。
「迎えますか? それとも――斬りますか?」
その声音には、帝国に仇名する者ならば内縁関係にある者でも斬って捨てるという苛烈さが滲んでいたが、帝王ヘーロスは鷹揚に肯いてみせた。
「任せる。好きにせよ」
エルフの将軍ジウクは「はっ!」と、再度立礼を尽くすと、
「ところで、そこのリィリック・フィフライアー殿を案内役としてお借りしてもよろしいでしょうか?」
もっとも、帝王ヘーロスはすでに興味を失ったかのように、いかにもどうでもいいといったふうに掌をひらひらとさせた。
「では行くぞ、リィリック殿」
「畏まりました」
こうして帝国の幹部二人は王国の辺境の街ことイナカーンに向かった。
もちろん、リンムはまだ知らない――この後の再会を機にして、大陸を分かつほどの戦乱が起こってしまうことなど。そう。リンム自身はこのエルフの女将軍と内縁関係にあったなど、これっぽっちも、欠片ほども、微塵も思っていなかったのだ。
「くそっ……ここまでか」
王国の西の端にある丘陵にて、その者は膝を屈していた。
今となっては黒い大剣に寄りかかるようにして、「はあ、はあ」と短い息を整えるばかりだ。
その者は王国最強の一角、暗黒騎士団長のイワン・ストレートブレイド――まさに絵物語に出てきそうな堂々とした好男子だ。ヘビー級の大きな体格に、よく焼けた浅黒い肌。高い鼻梁に涼やかな目で、いかにも誇り高い自信家だが、それだけの実力を備えているので人望もとても厚い。
そんな暗黒騎士イワンはというと、黒鋼の
対峙しているのは――
「…………」
青い炎のような
どうやら言葉を発する知能すら持たないらしい。ガス状の実体を持たない魔族で、公国に設置された奈落から湧いて出てきた。
内包する魔力量からさほど強なくないとみなされたが、これが『王国の剣』と謳われる暗黒騎士団とは最悪の相性だった。剣で斬れば、斬るほど、増殖していくのだ。今となっては戦場である丘陵を埋め尽くすほどになっていて、さらに敗れた暗黒騎士たちを飲み込んで強くなっていった。
おそらく
「魔術書を読むしか能がない連中は……戦場になぞ出てこないか」
暗黒騎士イワンも嘆くしかなかった。
そもそも、魔導騎士団は法国の神学校に対抗して作られた王国の魔術学校の出先機関に過ぎない。騎士団とは名ばかりで、その実態は研究集団だ。当然、猛々しく戦う者など皆無に等しい……
「王国最強の剣豪と言われたこの俺が……剣すら持たない渦野郎に敗れるなど、そんな屈辱あってたまるかよ!」
暗黒騎士イワンはよろよろと立ち上がると、大剣を振りかざした。
自爆覚悟の最期の大技を放つつもりだった。おそらくここが死地になるだろう。それでもイワンに迷いはなかった。戦って果てることこそ誉れ――この騎士は眼前の渦よりもよほど、
「いくぞ……渦野郎め!」
そして、悲壮な咆哮が丘陵に放たれた。
が。
その遠吠えとほぼ同時だった。
「ねえねえ。大陸の西の果てってさあ。こっちで合ってるー?」
大剣をかざした暗黒騎士イワンのすぐ横から飄々とした声が上がったのだ。
イワンは「ん?」として顔を向けると、そこにはハーフリングの少女がいた――魔女のモタだ。どうやらすらこらさっさと大陸の逆まで逃げ切るつもり満々らしい。
もっとも、イワンは深いため息をついてから、意外にもやさしい声音で答えてあげた。
「逃げろ……もうこの公国はどうにもならねえよ」
つまり、逃げ遅れた公国民だとみなしたわけだ。
当然、モタは可愛らしくちょこんと首を傾げてみせると、
「んー……なぜなぜー?」
「なぜって……そりゃあ見りゃ分かるだろ。この渦野郎どもがここまで侵略してきやがったんだ」
「そかー。いっぱいいるもんね。じゃあ、邪魔だから消すね」
「……は?」
刹那。
魔女モタの周囲に三十六もの魔術の円が描かれた。
ちなみに、一般的に魔術陣は一つの円で形成される。六円で最高級の魔術であって、王国の魔術学校ではこれ以上の術式は世界の
それがよりにもよって……何とまあ六円の六倍だ。このとき、イワンの顎がかぽーんと外れたのは言うまでもない。
「じゃ、いくぜい。世の理も飲み込み、全てを創世する為に顕現せよ――『ブラックホール』!」
実のところ、暴発したらこの大陸そのものが消失するところだったのだが――
さいころを六億回振って、その全てで六が出るようなビッグバンもかくやと思しき奇跡的な確率でもって、モタはこの超特究闇魔術を大成功させた。結果、雨粒ほどの小さな黒い雫が宙に浮いたとたん、暗黒騎士イワンの眼前にいた全ての渦たちが飲み込まれて消えていった。
「…………」
当然、暗黒騎士イワンは絶句した。
はてさて、隣で「にしし」と他愛なく笑っているハーフリングの少女は神の御使いか何かだろうか……
「ほいじゃ、わたしは行くねー。ばばーい」
「ま、ま、待ってくれ……いや、お待ちください!」
「ん? なにー? わたし、すげー急いでいるんだけどー?」
「どこに赴かれるつもりなのでしょうか?」
「えーと、とりあえず遠くに。今さあ、超絶ヤバい
「だ、大魔王……ですか?」
これほどに強い魔女よりもさらにヤバい存在がいるのか、と。
暗黒騎士イワンは呆けた表情を浮かべるしかなかったが、何にせよ命を助けてもらった恩義は返さなくてはいけないと考えた。意外と義理堅い性格なのだ。
「この先にもまだ魔族はいるはずです。俺はその討伐を命じられています。俺如きが貴方様の役に立てるどうかは分かりかねますが……どうか、お願いします。お供をさせてください!」
魔女モタはまたちょこんと首を傾げた。
正直なところ、逃げるなら独りきりの方が都合がいい。
だが、地獄でやらかした件で逃げ出したモタとしては、大魔王に捕まったときの言い訳も探していた。その際、困っている現地民を助けていたという言い分はわりと説得力があるように思えた。要は、良いことをしてやらかしを帳消しにしようと考えついたわけだ。
「んー。いいよ。じゃあ、その討伐とやらに付き合ってあげる。そんかわり、大魔王に捕まったら助けてね? お願いだよ?」
魔女モタはそう言ってウィンクした。
暗黒騎士イワンは果たして助けられるものだろうかと不安になったが――何にせよ、こうして大陸西では魔女モタと暗黒騎士イワンによる快進撃が始まったのだった。
―――――
これにて第一章終了となります。あとは第一章の外伝で、イナカーンの街でのほのぼの生活が幾話か展開されます。
さて、第8話で出していた、エルフ種について「リンムとて前者、それも一人にしか出会ったことがない」という伏線がやっと活かせました。はてさて、なぜエルフの女将軍ジウク・ナインエバーから内縁関係になったと(一方的に)思われているのか。それについては第二章で語られます。
また、魔女モタと暗黒騎士イワン・ストレートブレイドもろくなことにならなそうですが……こちらも第二章で展開していきます。とはいえ、残念ながらしばらく『トマト畑』の第二巻作業で十万字ほどの加筆があるので(ほぼ新作じゃん)、ちょいとそちらが優先となることもあって、今後の『おっさん』の更新は月曜と金曜、最悪、金曜だけの週一になるやもしれません。その旨、ご了承くださいませ。
最後に、本日中に限定近況ノートにて『おっさん』の限定SS「血反吐のバレンタイン」を公開予定です。もうバレンタインから一週間過ぎたじゃん! と言われるかもしれませんが……おっさん大陸では今日がバレンタインなのです。本当です。
はい。嘘です。そんな設定ありません。何はともあれ、限定近況ノートにアップした掌編も少しずつ溜まってきたので、気になった方は一か月だけでもサポーターになっていただけると何かとお得です。よろしくお願いいたします。
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