第44話 奈落
魔王アスモデウスはふつふつと込み上げてくる感情を何とか抑えながら言った。
「
魔杖に彫られた牛と羊と人の頭のうち、牛はいまにも突進しそうなほどに怒り狂っている。逆に羊はそんな牛の様子を蔑むかのようにけたけたと嘲笑う。
今、リンムに対して平静に話しかけているのは――人の頭だ。木彫りのせいか、老人なのか、若人なのか、いまいち分かりづらいが、少なくとも魔族サラみたいに女性ではない。ただ、魔術師特有の傲慢さに満ちた顔つきではある。
どうやら先ほどまでダークエルフの錬成士チャルたちにいかにも慇懃無礼に話しかけていたのは羊頭だったらしい。牛はいまだ怒りに震えていて、人もそんな牛にやれやれと頭を横に振りながら話を続ける。
「リンム・ゼロガードよ。この通り、
「はあああ? 何を言う! 俺様の可愛らしい
「おやおや、いつも通りに意見が合わないようですね。こういう場合は、私の考えが最優先されるということでよろしいか?」
「ふん。どさくさに紛れて何を言っている? 意見のすり合わせは必要だ。そもそも、貴様に任せると大抵ろくなことにならないではないか。そもそも、こんなふうに三人合わせて杖になった原因を作ったのも貴様だったろう? あのとき悪魔の囁きに唆されなければ、こんな見目にならなかったのだ」
「そうだぞおおお!
直後、リンムは無言で剣を横薙ぎに振るった。
魔王アスモデウスは心外だとばかりに、今度はきちんと声を揃える。
「おい、ゴラあああ!
「いきなり斬ってくるとは野蛮人ですか? 脳みそが付いているのかどうか調べたいものですよ」
「しかしながら、良い剣術ではあった。スピードも申し分ない。やはりサラに変わって新しい依り代はこの男にするべきではないか?」
「いや、お前さんら……さっきから何を言っているのか、さっぱり分からん。とりあえず、さっさと倒させてもらうぞ」
リンムはそう言って、正眼の構えを取った。
当然だ。リンムは騎士でもなければ貴族でもない。あくまでも
そもそも、魔杖の牛ほどではないが、リンムとて怒り心頭なのだ。オーラ・コンナー水郷長とは数年ほどの短い付き合いでしかないが、それでもムラヤダ水郷を訪れたときには
何より、
その娘が血反吐を垂らして、全身を傷だらけにして、己の不甲斐なさに涙まで流して、壊れかけの聖盾にすがって何とか膝立ちして抗しようとしている姿を見て――
リンムが怒りを抑えられずはずもなかった。
「勘違いしないでほしいのだが――」
すると、意外にも穏やかな口ぶりで魔杖の人頭が言ってきた。
「最早、貴様に攻撃するという選択肢はない」
「つまり、私たちは人質を取っているから攻撃を許さないと言いたいわけですね?」
「待てよおおお! ぶち殺させろよおおお! 俺様はこいつを絶対に許さねえぞおおお!」
その瞬間、先ほどよりも遥かに多くの魔獣が贓物のプールから立ち上がった。
リンムが瞬殺したと思われていた魔獣さえも蘇って、オーラ水郷長や女騎士スーシーだけでなく、ダークエルフのチャル、
「こんちくしょう……無敵か、こいつら」
オーラ水郷長が片膝を突きながら呟くと、
「
そのそばにいた女騎士スーシーは涙と共に声をこぼした。
ダークエルフのチャルは終始無言で、また巨狼は伏せながらも健気に聖女ティナを守っている。そして、当のティナはというと、
「おじ様……思うがままに剣を振るってください。私は……これから聖女としての務めを果たします」
それだけ言って、聖杖を取り出して天に向けて突き出した。
「光よ、射せ!」
刹那、光の数条が差し込むと、湖畔にかけられていた認識阻害が解かれていった。
顕れたのは――奈落だった。まさに地獄の門そのものだ。禍々しい魂が連なったかのような不浄な炎にも似た巨大な穴がその場に
聖女ティナは聖杖を地に突き差すと、両手を胸の前で組んで祈りを捧げた。
最早、
「女神クリーン様。どうか私に力をお貸しください。この命を賭してでも、魔の眷属を地下世界に封じて、地上に平和と安寧をもたらす聖糸をもって、醜悪たる奈落に長きにわたる束縛をお与えください」
そんなティナの自己犠牲の最期の法術によって、天から下りてきた光の筋がさながら糸のように変じて奈落に絡むと、そのとたんに魔杖の頭たちは声を荒げた――
「その女を止めよ!」
「食い千切れ! もう素材など、どうでもいい!」
「殺せえええ! 嬲れえええ! 血祭りにして奈落に捧げろおおお!」
「やらせるかよ!」
もちろん、リンムが許すはずもなかった。
全ての魔獣が聖女ティナに殺到しかけたわけだが、足を向けた瞬間にリンムは一太刀の居合で先ほどより増えた魔獣を全て断ち切っていた。
それからリンムはゆっくりと歩みを始める。
「しつこい!」
「まだまだ増やすぞ!」
「
さらに視界全てを埋め尽くすほどに現れ出てきた魔獣たちだったが――
幾つもの閃と共に。
またもや一瞬で消え失せていった。その繰り返しが、幾度も、幾度も、続く。
「馬鹿な……」
「この者は本当に人族ですか?」
「マ、マジかよ……こんな枯れたおっさんがあああ……」
リンムは聖女ティナのもとにたどり着くと、ぽんっと肩を叩いた。
「リンム……おじ様?」
聖女ティナはそう呟いて、リンムのもとに体を崩した。リンムはそっと胸で抱きしめてあげる。
「もう無理はするな。奈落ならば――俺が
「出来るの……ですか?」
「師匠によく言われたものだよ。やってやれないことはない」
リンムはそれだけ言って、聖女ティナに肩を貸しながら奈落のそばまで来ると、とてもシンプルに剣を縦に一筋だけ振るった。
同時に、リンムの頭頂部に天から聖条が下りた。
おでこで煌めいたその筋は両腕を伝って、ついには剣先に灯ると、奈落の闇を引き裂いて打ち消す明かりとなって、巨大な門は次瞬、パリンっと音を立てて割れていった。
「…………」
その場にいた者たちは誰もが唖然として言葉を発することが出来ずにいた。
ただ、リンムだけが笑みを浮かべていた――
「ほら、出来ただろう? 師匠からはかつて、海を割れと言われて、小舟で放り投げされたことがあってね。最果ての海域を斬ったことがあったんだ」
「き……斬れたのですか?」
聖女ティナがおずおずと尋ねると、
「十日十晩、飲まず食わずでよろよろになったが、そのときに悟ったよ。たしかにやってやれないことはないとね」
リンムはそう言って、聖女ティナを巨狼の腹に横たわらせてやると、
「じゃあ、次は魔王を斬るとするか。海に比すれば、さして難しくもなさそうだな」
片手剣を構えて、魔王アスモデウスに向き直ったのだった。
―――――
23年1月30日に拙作の『トマト畑』こと、『魔王スローライフを満喫する~勇者から「攻略無理」だと言われたけど、そこはダンジョンじゃない。トマト畑だ』が発売されるわけですが、その前にWEB版の第四部(最終部分)及びWEB版の特典SSを仕上げる為に、こちらの『おっさん』の更新頻度を落とします。
具体的には、『おっさん』は月・水・金曜日の更新となります。あと数話で第一部も終了して、カクヨムコンの間はちょっとした外伝(イナカーンの街でのまったり小話)を予定しています。
何卒、よろしくお願いいたします。
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