第26話 覚醒する

 リンム・ゼロガードは見事に干からびかけていた。


 まさか若い女性から積極的にアプローチされて、これほどまでに精神的なダメージを受けることになるとは……


 百戦錬磨とは言わないまでも、それなりに人生の場数を踏んできたリンムだったが、自分がいかに恋愛に疎かったのか、何より若さにもう付いていけないか――今さらになって思い知らされた格好だ。


 実際に、第七聖女ティナ・セプタオラクルは隙あらばリンムの懐深くに攻め込んできた。


「きゃあ、おじ様。見てください! 水車小屋の屋根に止まっている、あの水鳥たち」

「ん? あの二匹のことかい?」

「ええ。まるで夫婦……そう、私たちみたいですね」

「……そ、そうかな」


 とか。あるいは甘味処の前に来て――


「あら、可愛らしいお団子。それにあのお飲み物もとても美味しそうですわ」

「はは。俺にはちょっとばかし甘そうかな」

「もしかして、おじ様は甘いのが苦手なのですか?」

「いや。苦手ということはないが……やはり年相応に渋いものの方が好みだな」

「では、本日はめいっぱい大人のビターな一日を一緒に過ごしましょうね」

「……そ、それもいいな」


 とか。はたまたみすぼらしい茅葺屋根の民宿だというのに――


わたくし、こんなふうな片田舎の一軒家に住むのが夢でしたの」

「だが、君は侯爵令嬢だろう? 小さな家で本当に暮らせるのかい?」

「もう! おじ様ったら、いけずなんだから」

「は?」

「おじ様と一緒だったらどんなところでも良いという意味ですわ。むしろ、狭い方がこうして密着出来て……うふふ。かえっていいかも」

「……そ、そうだったのか」


 とか。まあ、そんなこんなでリンムは疲れ果てていた。


 かつて『妖精の森』で師匠に課された過酷な剣術修行の方がよほどマシだと思えるほどに……


 それに、本来そんなリンムをフォローしてくれるはずの女騎士スーシー・フォーサイトはというと、二人から距離を取って、この水郷の現地調査に没頭していた。


 おそらくティナのそばにはリンムがいるから大丈夫と、警護よりも下見を優先したようだが……肝心のリンムが毒沼でも進むかのように一歩ずつ固定ダメージを受けていることにはまだ気づいていないらしい。


 そんなわけでリンムは一方的な精神異常攻撃に孤軍奮闘していたわけだが――


「もしかしたら……これは……一日もたないかもしれないな」

「なあに、おじ様?」

「いや……何でもない」


 そう呟いて、遠い目をするしかなかった。


 もちろん、リンムとて木偶でくではないし、言い寄られて悪い気はしなかった。


 だが、すぐ左隣にいるティナは二回りも下で、それこそ娘と言ってもいい年齢だ。しかも、侯爵令嬢な上に聖女ときたものだ。さすがに身分違いにも程がある。


「あら、ここも臨時休業中ですのね。やはり湖畔の『花崗岩の湯』しかやっていないのでしょうか」


 そんな干からびかけたリンムの腕を引っ張って、聖女ティナは嘆いた。


 さっきから訪れる温泉全てに臨時休業の札がかかっていたからだ。もちろん、これはオーラ水郷長が手を回して、リンムたちがやって来る直前に偽装したわけだが、ティナは分かっていない。


「仕方がないさ。まだ昼前だからな。温泉も清掃などのメンテナンスが必要なんだろう」


 こうしてリンムたちは段々となった丘陵を下りていって、湖畔の細道から入った『花崗岩の湯』までやって来た。


 建物の前にはいかにも準備万端といったふうにオーラ水郷長が突っ立っていて、


「おう! リンムよ。やっと来たか!」

「おかげさまで色々と見させてもらったよ。もういい加減にくたくただ」

「はは。まあ、そう言ってくれるな。逆にこっちは万全だ。何なら、温泉でゆっくりしていけばいいさ」

「そうさせてもらうよ。後の事は任せてもいいのかな?」

「もちろんだとも」


 オーラ水郷長が胸をドンと叩いてみせたので、リンムはスーシーとティナを先に行かせた。


 看板を見ると、『花崗岩の湯 ※混浴』とあったが、混浴のところに罰点が付されている。建物も男女で別れているようで、オーラ水郷長によると、突貫工事で湯内も木柵で仕切ったそうだ。


 とはいえ、リンムが進もうとしたら、男たちが二人近づいてきた――盗賊の頭領ゲスデス・キンカスキーと猟兵団長シイト・テンイーガーだ。


「おうおう! まさかおっさん一人で貸し切りにするつもりじゃねえだろうな?」


 ゲスデスがそんな啖呵を切ってきたので、さすがにオーラ水郷長も顔をしかめた。


 いっそこの場で叩きのめしてやろうかと一歩を踏み出して、同時に猟兵団長シイトが何かしら動こうとした――その瞬間だった。


「まあまあ、二人とも。別にいいじゃないか。せっかくの湯だ。一緒に入ろう」


 そんなリンムの一言で、皆の気勢は削がれてしまった。


 多分にティナから逃れられて、「ほっ」としたリンムによる考えなしの言葉だったわけだが……


 オーラ水郷長もこの二人の怪しさはよく分かっていたので、下手に動かれるよりも、視界に入れておいた方がマシかと判断して同行を許すことにした。


 そんなこんなで四人で湯屋の建物に入って、裸になり始めたわけだが――リンムからすると、まさに生き返った心地だった。


 やはり、男はいい……


 それも同世代のおっさんはいい……


 何も言わずとも、ある程度のことは以心伝心出来る。社会の荒波を超えてきた者同士だ。何気ない目配せで相手の気苦労を察してやれる……


 もちろん、ゲスデスも、シイトも、さりげなくリンムの力量を探っていただけなのだが、当のリンムはそんなことは露知らず、


「おや、あんた。酒の持ち込みかい?」

「お、おうよ。飲まなきゃやってられねえってな」


 これまた多分に朝っぱらから美女二人を侍らせて歩いていたリンムへの当てつけだったのだが、


「そうだよな。分かるよ。うん、分かる。飲まなきゃどうしようもないときってあるものな」


 と、リンムは、ぽん、ぽんと、ゲスデスの背中を叩いてやった。


 さっきまで左腕にやわらかい感触がずっとまとわりついていたものだから、硬質な逆三角形の筋肉に触れて、リンムは思わず、「おお」と呻ってしまった。


 ちらりと振り向くと、オーラ水郷長の肉体はまさに鋼のようだった。


 さすがに一日一万回、感謝のもふもふを己に課してきただけはある。そのもふもふのあまりのやわらかさに、かえってダイヤモンドよりも固い筋肉を得たわけだから、元Aランク冒険者というのも伊達ではない。


 また、もう一人の男も、リンムたちに比すると一回りほど年齢が下のように見えたが、すでに薄毛で総白髪だった。


 おそらくこれまで相当なプレッシャー下で仕事をしてきたに違いない。その肉体はアスリートそのもので、四人の中では最もバランスが良く、かつ美しかった。


 ここにきて、リンムはやっと、「はあ」と息をついた。


 やはり、筋肉はいい……


 何より、やわらかみのない大胸筋は本当に素晴らしいものだ……


 と、不思議なことにリンムは何だか開けてはいけない扉に手をかけた気分に浸っていたのだった。


 もっとも、このときリンムも、オーラ水郷長も、まだ気づいていなかった――


 もう一方の湯屋の建物に続く細道では、聖女ティナと女騎士スーシーに、自警団の女性たち四人が加わって、四方を固めながら進んでいた。


 当然、建物内も、温泉内も、他の女性たちが立哨していて、そもそもこの『花崗岩の湯』は高原の断崖にあって、細道以外には通路がないので、これまでも警護の必要がある要人は全てこの湯に案内してきた。


 そういう実績のある湯だったから、この湯屋に入ってもらった時点でオーラ水郷長は安心していたわけだが……


「おーい。スーシー・フォーサイト神聖騎士団長!」


 細道の入口からスーシーに声を掛けてくる者がいた。


 スーシーは振り向いて、最初は眉をひそめたものの、すぐに警戒を解いた。


「ティナ様。私はあの者と少し話をしてきます。申し訳ありませんが、先にお湯をいただいてくださいませ」

「分かりました。一人では寂しいので、なるべく早く来てくださいね」

「畏まりました。どうぞ、ごゆっくり」


 そう言って、ティナを先行させると、スーシーは声を掛けてきた者と向き合った。その者は、「はあ、はあ」と駆けてきたのか、いったん呼吸を整えると、


「お呼びたてして申し訳ありません。何にしても間に合ってよかった」

「ええ。こちらとしても助かります。まさか貴方にご助力いただけると思ってもいませんでした」


 スーシーはそこで言葉を切って、その者を真っ直ぐに見つめた――


「お久しぶりです、元近衛騎士団副団長。いえ、現在はイナカーンの街の冒険者ギルド、ギルドマスターのウーゴ・フィフライアー殿」



―――――



「クリスマスプレゼントが野郎の筋肉とはけしからん!」

はい、その通りです。明日にはティナの着替えが見られるはず!

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