第3話 この胸のむずむずは病気でしょうか

「うーん…よく眠れましたわ」


 私は昨日アルベルト様に連れられてヨーク家にお邪魔しました。負担にならない程度にご両親にご挨拶をさせていただき、客室を一室お借りすることになりました。質素ながらも上品な調度品が揃えられた素敵なお部屋で、一目見てすっかり気に入ってしまいました。


 ふかふかのベッドから起き上がり、伸びをした私は、そのまま窓際へと足を進めます。そして、私が窓を開け放つと同時に、慌ただしく部屋の扉が開かれました。


「クリス!?ど、どういうことだ…っ!す、すまない!」

「ア、アルベルト様…?ふふっ」


 部屋に飛び込んできたのはアルベルト様でしたが、寝巻き姿の私を見て顔を真っ赤にして急いで扉を閉められました。私も寝巻き姿を見られて少々恥ずかしかったのですが、アルベルト様が私以上に顔を真っ赤にするものですから、思わず笑ってしまいました。

 室内に雨粒・・が入ってしまうので、開け放った窓をそっと閉じ、私はクローゼットを開きました。専属の侍女については丁重にお断りしましたので、クローゼットから動きやすそうなワンピースを見繕い、自分で身につけるとそっと部屋の扉を開けました。


「お待たせいたしました。どうぞ、お入りください」

「あ、ああ…さっきはノックもせずに勝手に部屋に入ってすまなかった」


 部屋の外では、アルベルト様が項垂れながら壁に頭を打ち付けていました。部屋へ招き入れると、深々と頭を下げて謝られてしました。


「いえ、お気になさらず。それで、いかがなさいましたか?」

「はっ!そうだ!雨、雨が降っているんだ!クリス、君が昨日言った通り雨が降ったんだ!」

「ええ、私も確認いたしました。よかったですわ」


 そう、リアスの空には黒い雨雲が広がり、各地でシトシトと優しい雨が降り注いでいたのです。アルベルト様は本当に嬉しそうで、今にも飛び跳ねてしまいそうな勢いです。


「ああ、ああ…!本当によかった…これで農作物も少しは元気になるといいのだが」

「大丈夫ですよ、きっと今年は瑞々しい作物がたくさん実るでしょう」


 笑顔でそう言う私を、アルベルト様はポカンと口を開きながら見ていらっしゃいます。私の顔に何かついているのでしょうか?不安になって頬を触っていると、アルベルト様はフッと困ったような嬉しそうな笑みを浮かべられました。


「昨日のことと言い、クリスはまるで預言者のようだな。君が言うのなら…収穫の時期が少し楽しみだよ」

「ええ、私が側におりますので、一緒にリアスを昔よりももっと豊かな地にいたしましょう」

「ありがとう、クリス」

「っ!」


 アルベルト様は、それはそれは優しく私の頭を撫でてくださいました。その目は慈しみに満ちており、やや熱っぽくて…私は思わず恥ずかしくなって俯いてしまいました。その様子に気づいたアルベルト様が小さく笑ったような気がしましたが、異議を唱える余裕はありませんでした。アルベルト様と一緒にいると、胸がむずむずするのは何故なのでしょうか…これまで感じたことのない感情で戸惑います。


 その後、私はアルベルト様に連れられて広い食堂へ参りました。昨日もこちらで夕食をご馳走になったのですが、今朝もそれはそれは美味しそうな食事が並んでおります。


「いつもはもう少し質素なんだが…久しぶりの客人ということでシェフたちも張り切っているんだよ」


 困ったように笑いながらアルベルト様は私をエスコートしてくださいました。果たして、元婚約者のフィリップ様は私と食事をする際に、このように気遣っていたのでしょうか。うーん、記憶を遡る限り、エスコートしていただいたことはございませんわね。さっさと自分のお食事を始めておいででしたわ。今思うと呆れるような事ばかりです。




◇◇◇


 リアスの地に久々に降り注いだ恵みの雨は、3日間降り続けました。その間外に出られないので、私は渋るアルベルト様の制止を振り切り、屋敷のお掃除やお父様の身の回りのお世話を、ご迷惑をお掛けしない範囲で行わせていただきました。


 雨が止んでからは、アルベルト様の領地の視察へ同行させていただき、領民の方々とお話をしたり、土地の様子を確認させていただきました。今回の雨で枯れていた貯水湖もすっかり満水になり、土地もしっかりと水を含んで元気になった様子で安心いたしました。領民の皆様も笑顔が溢れ、意欲的に作物のお世話をしたり、田畑を耕したりしていらっしゃいました。


 私は極力アルベルト様のお側に控え、同じ時間を過ごすように心がけました。

 アルベルト様は領地の視察だけでなく、ご自室で諸々の書類を処理されたり、要人との会議に出席されたりと非常にお忙しいご様子でした。私はその間も席を設けていただき、お側で公務を見守りました。

 アルベルト様の仕事ぶりは本当に尊敬に値するものでした。時に厳しく、時に優しく、領地のために最善を尽くす姿勢が素敵でした。私が公務を見学していても嫌な顔ひとつせず、むしろどこか嬉しそうに口元を緩めていらっしゃいました。フィリップ様は私が側でお仕事の様子を見守っていると、いつも決まって不機嫌になってしまいましたので、アルベルト様のお側は本当に居心地がいいと感じました。

 そして、アルベルト様のお仕事の合間に、毎日お父様の額にのせる手巾を交換させていただきました。早く良くなりますように、と気持ちを込めて冷たい水で手巾を潤しました。




 そうこうしている間に、一週間が経ちました。


 この日、ヨーク家に大きな変化が起きました。


「う…っ」

「あっ、あなた!?」


 寝たきりで会話もままならなかったアルベルト様のお父様が、意識を取り戻したのです。


「私は…そうか、苦労をかけたな」

「いえ、いいえ、とんでもないことでございますわ。妻として当然の責務を果たしたまでです」


 開口一番、奥様を労うお父様に私は素直に好感を持ちました。奥様も大変嬉しそうに微笑みながら美しい涙を流していらっしゃいます。とても素敵なご夫婦でいらっしゃいます。その場にいた私とアルベルト様は顔を見合わせると、静かに部屋を後にしました。


「父の病状が日に日によくなっているようで、主治医も驚いていたよ」

「それは本当によかったですわ」

「それに、このリアスの地も何だか邪気が晴れたように明るくなった気がするんだ。領民の皆も今まで以上にやる気に満ちていて、頑張りすぎないようにこっちが言い聞かせているほどだよ。本当にこのまま行くとクリスが言うように今年は豊作になるかもしれないな」

「ふふっ、そうですか」


 私は笑顔でアルベルト様の隣を歩きながら相槌を打ちます。そんな私をアルベルト様がじっと見ておられました。視線に耐えかねて、おずおずと見上げると、


「それもこれも、クリスがこの地に来てからだよ。君はまるで幸運の女神のようだ」


 アルベルト様は、何とも歯の浮くようなセリフを屈託のない笑みで仰いました。


「っ!そ、そんなことございません。アルベルト様を始めとして、この領地の皆様の努力の賜物です」


 私はただ、アルベルト様の側でほんの少しお支えしただけ…

 遠慮がちに両手を振る私をアルベルト様は真剣な面持ちでじっと見つめていらっしゃいます。何だかいたたまれません。私が挙動不審に瞳を揺らしていると、


「クリス、無礼を承知で言う。少しの間、抱きしめてもいいだろうか」

「ふぇっ!?だ、だだ…えっ!?」


 とんでもないことを仰いました。恋愛経験もなくこういった甘い空気に抗体のない私は簡単に顔を真っ赤に染め上げてしまいました。そして、あーうーと頭を抱えながら……こくりと同意の意を込めて、小さく頷きました。もちろん、アルベルト様のお顔なんて見ることはできませんでした。だって、恥ずかしすぎて顔から火が出るかと思ったんですもの。


「クリス…」

「っ」


 私が頷くや否や、アルベルト様はふわりと包み込むように私を抱きしめました。アルベルト様の熱い吐息が耳元を掠め、私は思わず身震いをしてしまいました。そして、密着するアルベルト様の胸からは早鐘を打つような鼓動が聞こえてきて、私の心拍数も同調して跳ね上がってしまいました。

 アルベルト様はしばらくそのまま私を抱きしめておられました。手のやりどころに困ってしまった私は、おずおずとアルベルト様の引き締まった広い背中に手を回しました。すると、抱き締める力がぐっと強くなり、思わず息が止まるかと思いました。


「……我儘を聞いてくれてありがとう」

「い、いえっ、そんな…」


 ようやく私を解放してくださったアルベルト様。

 お互い真っ赤に染まった顔を見合わせた私たちは、どちらからともなく笑い出してしまいました。

 そのままアルベルト様は私の部屋まで送ってくださったのですが、その間アルベルト様から繋がれた手を解かなかったのは…何故なのでしょうか?自分でもわかりません。温かくて気恥ずかしくて、とても心地がよかったのです。ええ、他意はございませんわ。


 部屋について離された手を寂しく感じただなんて、口が裂けても言えませんでした。

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