家出するには遠い夜
蒼板菜緒
家出するには遠い夜
家出が家出ではなくなるのは、いつからだろう。
街灯だけが照る道を歩いている。月が出ていない曇り空には、寂れた町の灯だけが残像として淀んで見える。左手には田植えが終わり静かに水をたたえた水田が、右手には閑静な高級住宅街が並んでいる。少し離れた道の先の丁字路には、誰も映さないカーブミラーが、役目をただただ待っている。道の片側ツツジの植わった、さぞ噓くさい白い家々を、横目に見ながら歩いている。
ここに住んでいる生き物は、家出なんて考えたこともないのだろうな。
私だってそうだ。
駅から歩いて5分の学習塾から、1時間ほど歩いたここは、私の家からどのくらい遠いのだろうか。父の夜遊びの行動範囲よりも、母の想像力よりも、遠くに行くことができたのだろうか。通学カバンに入った参考書が、クラス担任から掛けられる期待が、両親の慈愛溢れた夕ご飯が、どうでもよくなるくらいまで、遠くに来ることができたのだろうか。
家出が家出ではなくなるのは、いつまでだろう。
そうなるときまでこうして夜を歩いていようと、B判定がでかでかと、下品に印字された成績表を握りつぶしながら、カーブミラーに映るために丁字路に向かって歩いている。そこに映る姿を見て、失望するために歩いている。
おやおや。カーブミラーに映った私をみて、思わず声を出した私は、その声の野太さに再び声が出そうになった。ミラーには、両手の大きな肉球で口を覆った、ニワトリあたまでシロクマからだ、蛇のしっぽの私がいた。
おやおや。どうしてそんなに驚いているのかい。
しっぽの蛇が、青い舌を赤い口の中でチロチロと動かしながら、私に問いかける。その下品な青は、きっとB判定の文字の色。蛇の模様は、第一志望の大学の名前でできていた。
だって、これはわたしではないだろう。
ニワトリのくちばしは、存外喋りにくい。口が空かないので、発音がしにくいのだ。喉の奥から声を出そうにも、夜には似つかわしくないコーケコッコーが出そうになる。
でも、君が映ろうとした鏡のなかに、こうして映っているものだ。
シロクマのからだの真ん中に、人間の口ができて、そう話す。
白い体毛に、赤い歯茎と黄色い歯。私を見て見てニタニタ笑う。
そういうものなのかもしれないな。
なんだか納得できた私は、次に浮かんだことを問う。
ならばどうしてその姿?丸肉球に、鶏と、シロクマ、蛇が混ざったこれは?
何とも変なことを聞く。
人間の歯が、もごもご話す。どうしてそれを聞いたのか、理解できずにもごもご話す。代わりにクチバシ、ギャーギャーわめく。私に説くためギャーギャー騒ぐ。
これはお前の不合理だ。お前が抱える不合理だ。泣きたいお前の不合理だ。
クチバシの奥、赤い目がただただただただそれを説く。
気が付くと、丁字路の真ん中に立っていた。カーブミラーには、制服姿の私が一つ。
ああ、家出が家出でなくなったのだな。私は、これから帰る1時間を、電車で帰るその旅路を、二度とはないであろうこれまでの家出を、ニワトリの頭で思い出していた。
そして、三歩歩いて、忘れた。
家出するには遠い夜 蒼板菜緒 @aoita-nao
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