下
「もう、こんな時間。これから塾だから先に帰る」
優等生が時計を見てハッとする。
「方向が同じなんで、一緒に終わる〜♪」
お調子者が丁寧に勉強道具をしまう。
「
家主の君に問われ、答える。
「もう少し居たい。いま帰ってもどうせ一人だし」
迷惑で無ければ、と付け加えるのも忘れずに。
「大丈夫だよ、ウチの親もまだ帰らないし」
二人を玄関で見送り、リビングへと戻る。
「ちょっと疲れたね、一休みしよう。何か飲む?」
家主の君がキッチンの吊戸棚から箱を下ろす。
蓋を開ければ
コーヒー、抹茶ミルクにココアも有る。
ここは、喫茶店かい?
「特にこだわりはないから、
「遠慮しないでよ。もしやホットミルクが良き?」
「赤ちゃんじゃあるまいし。じゃあ、コーヒーで」
「特別にミルクはたっぷりと入れてしんぜよう」
「何故に?」
「ピーマン嫌いのお子ちゃま舌と噂に聞いたので」
「それをバラした奴の名を、今ここで吐きたまえ」
「大切な友を裏切ることは出来ないな~♪」
ぐぬぬ! あはは!
飲み物が決まり、軽やかな声がリビングに響く。
「手伝う」
「ありがとう。ならばマグカップを選んで」
キッチンに入ればぶつかりそうな背中合わせ。
観音開きの食器棚の扉をスイっと引く。
選び出したる二品は、北欧系キャラと水玉模様。
しかし、この家、マグカップの種類も豊富。
一人っ子、核家族のはずだが?
「次から次へと買う人が居るんだよね。『何か飲む度に気分も変わるから良いじゃない?』とか言って。なのに新しいものを出すと『洗い物が大変』って愚痴るのはどうかと思わない?」
確かに、一理あるが納得しがたくもある心理。
ざばーーー。
背中越しに洒落たやかんに満たされていく水。
ピッ。
IHが微かに唸って振動を始める。
しゅーーー。
取り留めのない会話の最中でも気はそぞろ。
広いリビングで二人きりの勉強会を密かに回想。
馬鹿話の爆笑からの集中の沈黙。
チラと視線を上げれば伏せた長い睫毛に釘付け。
しゅわー、しゅわー。
付き合いが長くなれば知るところとなる人の癖。
悩むと気難し気に口を小さく曲げる。
くしゃみの前には顔をくしゃっと寄せる。
飽きると細い指に髪を絡ませる。
その他、諸々……。
勉強どころじゃないのは目に見えていたこと。
しゅわ、しゅわ、しゅわ。
徐々に騒がしくなるやかんの中。
「どっちのカップにする?」
「水玉模様がいい」
「砂糖は要る?」
「ミルクたっぷりなら、無くて大丈夫」
「了解」
茶褐色の粒をしゃらと入れる手元を隣で眺める。
勉強会では常にテーブルを隔てた向かいの席。
高鳴っていくのはやかんの音だけ?
ピンポーン、とインターホンが鳴る。
「宅急便かも。行ってくる」
「沸いたら淹れておく」
「よろしく」
ぽこ、ぽこ、ぽこ。
一人残るキッチンで、やがて沸き立つ満ちた水。
どうにも落ち着かない、この胸の内のよう。
でも一旦沸き立てば渦電流も沸騰音も強制終了。
何事もなかったかのように静寂が訪れる。
この想いだってそう。
無かったことにしなきゃいけない。
友人で居る為には。
やかんに手を伸ばして湯を注ぐ。
天が、見切りをつけられぬ心を諌めたのか。
ポコッと空気を孕む雫が支える手に跳ねる。
「うわっ……あっつ!」
一体どれだけ試練を与えれば気が済むのか。
ヒリヒリするのは、もう勘弁して欲しいのに。
「あれ、どうした? もしかしてお湯、跳ねた? 見せて。わわわ、赤くなってる!」
「大したことないし、そう見えるのも今だけだし、息でも吹きかけてれば大丈夫―――」
「ばか、ばか。後から来るんだよ、こういうのは。ほら、流水で冷やして!」
グイッと掴まれた手首こそが熱くなる。
それは絶対に秘密の秘密。
ざばーー。
「これ、いつまで?」
「いつまでも」
ざばー、ざばーー。
「凍えるんだけど」
「凍えた先には温かいバブコーヒーが待っている」
「バブって言うの、禁止」
「ふふふ」
ざばー、ざばー、ざばーー。
「見せて。水ぶくれは回避したね、痛みは?」
「ヒリヒリと、たまにズキズキ……」
「湯船の中には入れちゃダメだよ」
「忘れそう」
「こら、覚えておきなさい。念の為に薬を塗るよ」
軟膏を乗せた細い指がくるくると円を描く。
近い、近い、きみとの距離。
手元から顔をあげればそこにある。
一歩踏み出せばゼロになるその距離。
当然、踏み込んではいけない距離。
「はい、出来ました。では、仕切り直して飲みながら勉強不足を解消するとしようか」
「ありがとさん。ダメ元で聞くけど、手が痛いから代わりに書いてくれたりとか……」
「したら勉強の意味ないし、そもそも火傷したのは利き手じゃないでしょ。それこそ、甘え禁止!」
アー、デスヨネ。
「お邪魔しました。今日はいろいろ助かった」
「いえいえ、こちらこそ。火傷、忘れずにね」
「あー……ダメだ、完璧に抜けてた」
「困ったちゃんだね。ちょっと待ってて」
パタパタとリビングに戻り、その手に携えてきたのは色とりどりのラッピングタイ。針金が仕込まれた、お菓子の口を捻って閉じるヤツ。
無作為に一本を取り出し、微かに赤い指に巻く。
「これなら覚えていられるでしょ」
「確かに、気になって気持ち悪い」
「友の厚意に何という言い草か、ぷんすこぷん!」
怒れる膨れっ面もまた魅力的。
語尾が若干笑いを誘うが。
「じゃ、また明日」
「気を付けて」
落ちた陽と夜の帳が混ざる夕間暮れの道を歩く。
星が瞬き始める天を仰ぎ、握り拳のままで薬指に巻かれた赤いタイを宵の明星に翳す。
やるせない想いを上回る謎の自惚れに苦笑して。
「よりによって、何でこの色を選ぶかな。運命に導かれても知らないぞ、
なんちゃって。
切ない片想いの疾走は、まだまだ続く。
◆ ◆ ◆
「じゃ、また明日」
「気を付けて」
にこやかに微笑んで手を振る後ろ姿。
パタンとドアが閉まり、静けさがこの胸を襲う。
大騒ぎなからも四人で楽しく過ごした勉強会。
特に充実したのは二人きりの時間かも知れない。
今日は
「無頓着過ぎだよ。火傷、悪化しないといいけど」
我ながら。
何故、あの色を選んだのか。
玄関までの一瞬で
強いて言えば。
心の片隅にある僅かな意識がそうさせた。
それが何なのかは分からない。
でも。
あの色じゃないといけない気がしたのは、確か。
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