第6話 事件解明
9月20日、金曜日。
朝から職員会議が開かれた。校長が何度か咳払いをし、声の調子を整えている。
「捜査によって、黒田先生は自殺と断定された。警察は撤退したが市の教育委員会は働き方に問題があったのか独自に調べ始めている。私はない、と断言したがな。今後、アンケートがあるかもしれないが素直に応じるように」
はっきり言い切ると、早々に校長室に戻った。
滞っていた仕事を片付けなければいけないのだ。
「生活指導って誰がやります?代わりの先生が来るんですか」
宮田が手を挙げて意見する。反応したのは教頭だ。
「生活指導は来週までに決めます。体育の授業ですが、講師の方に来て頂くこととなりました。黒田先生の授業を引き継いでもらいます」
代わりを補充すればまた歯車が回り出す。人間1人消えても、学校というシステムは痛くも痒くもない。もし黒田が学校に不満があって、仕返しとばかりに死んだとしても、だ。
事件の真相は、来週の月曜日にそれぞれのクラスで発表することになった。あれから朝礼は1度も行われていない。
谷津倉は天パを搔き上げると、ため息をついた。
昨夜、美生から連絡があったのだ。朝礼台を貸してくれないか、という要件だった。朝礼台そのものを貸し出すのではない、朝礼台のある場所のことだった。
目的の見えない要件に、ダメ元で教頭に聞こうとしたが、どうも聞ける雰囲気ではない。教頭は席に着いてからずっとパソコンの画面を睨んでいる。また開かれる保護者会のためにプリントを作っているのだ。
「谷津倉先生、前髪がすごいことになっていますよ」
井上が首を傾げている。
天パが逆立ったまま固まっているらしい。急いで直したが、今朝の天パとの格闘を無駄にしてしまった。
「何か悩み事ですか」
「ええ、実は……」
美生を知っている井上しか相談ができない。
「え、美生さんが学校に。私も会いたいです」
「本人はそう言っていますが駄目でしょう。教頭にどう説明していいか分かりません」
「でしたら、私に任せてください」
井上は教頭に近づいていった。心なしか足取りは軽やかだ。
【少女A、登校なう】
【おかえりー】
【警察までたぶらかしたの?】
【誰か詳細はよ】
【なんだー、人を殺しても捕まらないじゃん】
【むしろ今しかなくない、殺すなら】
【確かに、
「月子ー、何してんの」
スマホから顔を上げると、同級生がいた。同じクラスだが、名前を呼び合うだけで用がなければ会話をしない。
「別に。あんたこそ何してんの」
月子はスマホをベッドに投げると、そのまま続くようにダイブした。
同級生は椅子に座ったまま、ゴロゴロとキャスターを滑らした。
「サボり。今って宮田先生いないの?」
「怪我人が出て出動中」
ふーん、と同級生は興味無さそうに返事をした。
月子はそんな彼女を見ながら考えを巡らす。
彼女はサボるような子ではない。授業を休んだことはなく、むしろサボり気味の月子を叱咤する立場だ。
「ねえ月子。松本あかりって知ってる?黒田を殺したんじゃないかって噂になっている1年生だけどね」
「知らない、興味ない」
月子は座り直すと、窓側に置いていたノートパソコンを引き寄せる。宮田のものなので慎重に扱う。膝の上に置き、画面を開いた。
「本当だと思う?だとしたら何でマスコミは取り上げないのかな。警察も何してんだか。殺人犯が同じ学校にいるって怖くない?」
「それは……」
月子はキーボードを打っていた手を止めた。
「怖いというより、」
金髪が風に靡く。窓が開けっ放しだった。風はもう冷たく、強い日差しとアンバランスだ。
同級生は月子の横に座った。視線が画面に向いたので、慌ててパソコンを閉じる。
「あのさ……」
人とこんなに至近距離になったのはいつぶりだろうか。月子は次の言葉を待った。
すると、聞き慣れた足音がする。ポクポクポク、という特徴的な音だ。低いヒールを愛用する宮田だった。
「先生来るね」「やば」
同級生は、月子が立ち上がるのを阻止し、カーテンを閉じた。人差し指を唇に当て、悪戯っ子のように笑う。多分、日差しで影が見えてしまうだろうけど、暫し付き合ってあげることにする。
足音は二重に重なっている。
どうやら他にも人がいるようだ。入ってきた気配はするが、間がある。気づかれたか。
「今お茶を出しますね」
宮田は気づいていないようだ。
「お構いなく、そのままで」
相手は誰だろうか。聞いたことがない声だ。
カーテンの隙間から覗きたい衝動に駆られる。
「さっき校庭を見たんですけど、人が集まっていましたね」
相手が話し始めた。
「校庭?ああ、ショーがあるみたいよ」
「ショー?」
同級生がカーテンを触ろうとするが、月子が止める。
「ええ、謎解きの。ここで起きた事件の犯人がわかったみたいで」
「そうなんですか」
「でも私は知っていますけどね。今朝、職員会議で言われたの」
「犯人が分かっているのに謎解きを?何故」
「さあね」
相手の男は関心がないようだった。宮田も同様らしい。
「ふむ、ちょっと気になる気もします。一緒に行きませんか」
「何ですかそれ。え、ちょっと、」
男が、宮田の腕を引っ張ったらしい。そのまま足音が遠のいた。
同級生が我慢できないとばかりにカーテンを思いっきり引っ張る。
「今の聞いた?謎解きって、犯人って何なの。松本じゃないの?ちょっと行ってみようよ」
「いや。今忙しいから」
月子はまた座り直すと、またパソコンを開いた。
「忙しいってパソコン?」
「そう、最優先」
保健室に不穏な空気が漂う。
同級生は我慢が出来なかったのか、無言で出て行ってしまった。
金色の髪を触りながら、月子は考える。
そしてやっと思い出した。今のは確か、後藤という同級生だ。
「これでいいんですか?」
「はい、上出来です」
宮田は白衣のポケットからハンカチを取り出す。タオルハンカチの小さいサイズだ。
こめかみに流れる汗を拭くと、やっと一息ついた。
「ちょっとおたくの生徒をお借りしますね」
水樹が嬉しそうに言った。
*
美生は朝礼台に立った。砂で滑るが、校庭を見渡せる光景をしばらくじっと見る。
風の強い日だ。風が、彼女に向かっている。長めの前髪が流されて、彼女の表情はほぼ見えなくなっていた。
「最高な景色ですね!」
「見えているんですか、それ」
谷津倉は箒を取り出すと、台の上の砂を払う。
放課後だった。来週から部活動が解禁されるため、静かな環境とは今日でお別れだ。
初めて会った日も、ここだったな。
カウンセラーと嘘をつかれ、自分はまんまと騙された。谷津倉は懐かしく思い、台の上を見た。砂が強風に煽られて不思議なサークルを作っている。
人がここで死んだ。例えば、道端に虫の死骸があったとする。谷津倉はしばらくそこの場所を踏めない人間なので、美生のように朝礼台に登れない。
「あ、来ていますね」
校舎の方を見ると、井上と水樹が並んでこちらへ向かっていた。
水樹は平均身長だが、井上と並ぶと小さく見えた。もう1人、後をついてくる男がいる。編集者の葉山だ。水樹が呼んだのだ。
葉山は近山高校が珍しいようで周囲を見渡していた。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
まるで自分の家に招いたように、美生はお辞儀をした。
朝礼台の前に、谷津倉、井上、水樹、葉山が並んで立っている。
選手宣誓をするようだった。
「私は萩原美生と申します。職業は探偵。探偵なので、今から推理を聞いていただきます。そう、ここで起きた殺人事件です。まずは事件を整理しましょうか」
そう言って後ろを振り返ったが、特に何もない。
美生は何かがあるように眺めている。
探偵が謎解きを始めるということは、物語の終焉が近いことを意味する。
それが、この強風に吹かれた校庭が舞台でいいものか。しかも砂が目に入って痛い。
「被害者は体育教師の黒田崇先生。生活指導もしておられました。あまり評判は良くなかったみたいですね。彼が死亡したのは9月9日月曜日、朝礼の時でした。場所はここ」
朝礼台を指差す。
彼女は相変わらず髪が邪魔で顔が見えなかった。
「彼は突然苦しみだしそのまま息を引き取った。原因は青酸カリによる中毒死です。誰が、何故、何のために。私は協力者と共に事件を追うことになりました。すると彼の、」
ここで水樹を見る。
水樹は前髪を抑えながら頷いた。
「彼の、秘密を知ることとなりました。彼は小説家という面もあったのです。教師として、小説家として、彼はどちらの面で狙われたのでしょうか。私は小説家の方だと思います。
失礼、先ほど推理と言いましたが、憶測として聞いてください。だって私の持論を決定づけるものは何もないのですから」
証拠か。確かに、証拠が少なすぎて消去法で断定された雰囲気ではある。
「彼は海沢透というペンネームでデビューしました。あれ、デビュー前でしたっけ。今日は担当編集者である葉山さんにも来ていただいています」
葉山はお辞儀をした。ふざけている訳でもなく、神妙な面持ちだった。
刑事にしては派手だな、と谷津倉は思っていたので正体がわかって納得した。
「では、話に戻ります……」
美生はふと、校舎の方を見て固まった。
1人の生徒がこちらへ向かっている。ジャージ姿だった。
「水樹さん、うちの生徒も呼んだんですか?」
「松本あかりとどう連絡を取っていいか分からなくて、代わりに如月月子を呼んだ。宮田先生は来なかったのか」
「あれは如月じゃないです……」
水樹の口が半開きになった。初めてこの人の間抜けな姿を見たな、と谷津倉は思った。
生徒は走っていたが、近づくにつれ徒歩に変わった。谷津倉は目を凝らしたが、顔は見たことあるような、しかし名前までわからない。上級生だろうか。
「後藤さん?」
井上が言った。
「やっぱり後藤さんだ。彼女、3年生の後藤さんです。3年の放送委員ですよ」
「よくわかりますね」
「私が放送委員を担当しているので」
井上が人当たりの良い笑みを浮かべる。谷津倉は納得する。委員会は少数人数で結成されるのでクラスより覚えやすかった。
「後藤さん、どうしましたか」
「井上先生?いやあの、校庭で謎解きがされるって聞いて……」
後藤は息を切らしていた。短い前髪が風に煽られ、おでこが丸見えだった。
「謎解きを聞きに来たんですか?後藤さんがミステリー好きとは初耳ですねえ」
井上は横に寄ると、谷津倉とのあいだに招き入れた。
その前に直帰するよう指導しないのか。最終日ということで先生方は見回りを怠っているかもしれない。
「さて、話に戻りましょうか」
舞台の上で、彼女は調子を取り戻していた。
「彼を殺したのは、」
「松本あかりでしょ?」
みんなが、後藤に注目した。当の本人はもう1度、松本あかり、と言った。
「だって、みんな言っているよ。松本あかりが黒田に毒を盛ったって。ほら」
ジャージのポケットからスマホを取り出す。赤いリボンのケースが特徴的だ。
「みんな言っているもの。違うなら本人が登校して無実を証明すればいいのに、来ないのよ。私が犯人ですって言っているものじゃない」
ピコン、と音が鳴った。スマホが何かの知らせを受け取ったみたいだ。
「確か、あの日のマイクは後藤が担当していたね」
井上が唐突に話を変えた。あの日のマイクとは。
「そうです、朝礼のことですよね。黒田が全然話さなくて、マイクの調子が悪いのかなって、朝礼台に登ろうとしたときに黒田が苦しみ始めて。宮田が私の横をすり抜けたとき、一緒に登っちゃったの。私ね、初めて人が死ぬところを見ちゃった」
……―死んでいるって、叫んでしまった。
いつか、ファミレスで宮田が懺悔した言葉だ。彼女があの放送委員か。
「強烈で、今でも覚えているって言いたいところだけど、日が経つにつれてボヤけてきちゃった。いつか忘れちゃうなんて勿体無いですよね」
後藤はみんなに話すというより、独り言のようだった。
美生は話す気配がなく、ただジッと見ている。
「SNSに、忘れないよう書いたけど予想外に拡がっちゃったのよ。毎日色んな人から連絡がきてね、」
水樹が、肩を震わせていた。口元を手で覆っている。片手で顔の半分が隠れていた。
く、と笑い声が漏れた。
後藤を含める全員が彼に注目する。
「そうか、あれはお前だったのか」
彼は、後藤を睨むように見た。
「最初の方の書き込みで、明らかにおかしい奴が居たんだ。話の流れをぶった切って黒田の死に顔がどうとか言う奴がな。黒田は朝礼台から動かさずに、そのまま救急車に乗ったはずだ。黒田の顔を見れる奴は保険の先生かお前しかいない。君は、自分しか知らない情報を提示して悦に浸っていたんだ。もしかして情報を流していたのも君かな?後戻りできなくて、フェイクを流し始めたってところかな」
「はあ?」
ドスの効いた声だ。この細い体のどこから出しているんだ。
後藤は眉間にしわを寄せ、水樹を睨み返した。
「何か言いなよ。何も言わないならあんたも松本あかりと同じだね」
「意味わかんないし。そもそもあんた誰だよ」
「俺は刑事さ」
こいつ、どさくさに紛れて嘘をついたな。
谷津倉は後藤と井上越しの水樹を見た。さっきの睨みは気のせいだったのか、いつもの涼しい顔をしている。
「あーあ、自分から身バレしちゃったね。どうする?松本あかりは訴える気満々だよ」
「だから違うし!私じゃない!」
「実際に死体を目にしただけだろう。事件に関わっているつもりなら辞めな、お前は1番関係ないから」
風が、竜巻を作り一同を襲う。砂まで巻き込んでかなり悪質だ。
固く閉じていた瞼を開けると、後藤はしゃがみ込んでいた。同じく後藤の姿を確認した井上は、同じようにしゃがみ込んだ。
どうした、と優しく聞いている。井上が何を聞いても彼女は首を降るだけだった。
「ちょっと砂が目に入ったかもしれません。保健室に連れて行きますね、皆さんは続けてくださいね」
美生は代表してはい、と返事をした。
井上が後藤の両腕を掴んでも、頑なに顔から離さない。不自然な格好のまま井上に連れられて退散した。その片手にはしっかりとスマホが握り締められていた。
「子どもって、先生や親より知らない大人に怒られる方が怖いんです。ましてや、プライドが高い子ほど、泣きたくなくても涙が出てきてしまうんです」
谷津倉の言葉に水樹は反論した。なぜ泣いているかわからないようだ。
「あの生徒が俺の筋書きに茶々を入れたから、つい言っちゃっただけだよ。驚いたんじゃなくて図星だから泣いたんじゃない」
「水樹さん」
朝礼台の上から、美生が嗜めた。先ほどから彼女だけが台の上にいて目線が違う。
少し見下ろす彼女はいつもより魅力的に見えた。
「だってさあ」
水樹が口を尖らす。レンガ劇場で見た水樹は自信に満ち溢れていてもっとハキハキしていた。自分のフィールド以外だと弱くなるようだ。
「話を元に戻しますね。いいですか」
朝礼台の前は谷津倉、水樹、葉山の3人だけになった。葉山は先ほどから何も発言せず、1歩下がった位置で大人しくしていた。
「黒田を殺したのは誰か、理由は何なのか。ヒントはここです」
美生は踏んでいる台を爪先でノックした。乾いた金属音が響く。
「ここに登ると校庭を一望できるんですね。もしここに全校生徒が揃っていたら圧巻ですよね。私も学生の頃、登ってみたかったです。黒田はここに登り、一望し、思ってしまった。もしここで……」
また竜巻が起こった訳ではない。彼女は一時停止をした。
「すいません、やっぱり説明の順番を変えてもいいですか。犯人を発表してから理由にいきます」
「いいよ、自分のやりやすい方で」
水樹が優しく言った。実際に話してみて新たな改善点を見つけたのだろう。
美生はゆっくりと深呼吸をして視線をこちらに向けた。今までにない、鋭い視線だった。
「はい、では犯人からいきます。黒田崇を殺したのは、犯人は海沢透です」
1番初めに、葉山が狼狽えた。
「どういうことです、海沢は黒田で、え、」
「黒田はここに立つうちに思ってしまったのです。みんなの前で死んだら話題になる。海沢透は永遠になる、と。もっと話題になるなら血だらけになったり首を跳ねたり、派手なパフォーマンスの方が印象に残りますけどね。でもわざわざ青酸カリにしたのは自身の作品で扱っているから、と推測します」
あくまで推測、予想、想像。
「そんなの自殺じゃないか」
谷津倉は無意識に言葉にした。
しかし彼女はどこか遠くを見ていて聞こえた素ぶりさえしない。
「彼は賞をとるほどの実力があった。しかし自身を犠牲してまで作品を昇華したかったのではないですか」
美生は水を取り出した。ペットボトルの中で天然水が揺れる。500ミリリットルをポケットに入れていたらしい。
「黒田は水を飲んでいません。開けた形跡さえなかったのです。黒田は、自分の唾液だけで毒を飲み込んだのです。だから捜査は難航した。被害者は初めから自殺だとわかりやすくしていたのに」
皆が校長の話を聞いている最中に、人知れず懐に忍ばせていた青酸カリを舐めたのだろう。処刑台に上るように、朝礼台への階段を登ったのだ。
水樹がやろうとしている実話を元にするように、彼は自分を元にして作品を完成させようとしていたのか。
「古いねん」
葉山は、ああ失礼、と前髪をかきあげた。風によって固定される。
「古いですよ、何年前の作家像を辿っていたんですかね彼は。確かに有名な作家はその生涯さえも映画化したくなりますがね。でも今は仕事の片手間に書いている奴がほとんどです。小遣い稼ぎ目当ての奴だっています。命賭ける時代は終わったんですよ」
風が止んだ。傾いていた日が雲に隠れ、辺りは紫色になった。美生も水樹もじっと葉山の言葉に耳を傾けていた。
「……海沢先生とね、頑張ろうって話してたんです。本職が教師だって知っていましたけど彼は両立するつもりでしたよ。教師になって色々経験したことが小説に役立っているって言っていました。作家面に喰われて無くなったんじゃ、だめですよ」
意外だった。黒田は教師を続けるつもりだったのだ。教師という木から派生して、小説家という枝が生えてきたようなものか。
「なるほど、私はてっきり小説家に転身するのかと思っていました。何が彼の心を変えてしまったのでしょうかね……」
美生は困ったように座り込んだ。体育座りになる。
「他殺という可能性は?」
谷津倉は自分で聞いてから後悔した。刑事ははっきりと言っていた。自殺だと。
証拠が出なくて消去法で決めたと思っていた。だから美生が犯人を見つけてくれると期待していた。自殺と聞いても理由がわからずピンとこない。今の説明を聞いてもよくわからなかった。
「ないです。毒が効いてくるタイミングを考えても登る直前に飲み込んだと思われます。今から話をする先生に、飲んでくださいって誰かがお願いしているとでも?」
「でも……」
谷津倉先生、と美生が言った。
「私だって大女優が約束されるなら死にますよ。自分の死後、テレビで作品の特集が組まれたらゾクゾクします。まあ実際はあり得ませんけど」
足を崩し、狭い面積内で最大限に寛ぐ。彼女の舞台は小さかった。
「これにて話は終わりです。葉山さん、海沢透の作品ってどうなるんですか」
放心していた葉山は、2、3度美生を見た。
「ああ、編集長によりますね」
「あなたはどうしたいんですか」
いつか宮田を攻撃したように、葉山を責めるような口調になる。
「もし俺に権限があるなら、公開しないと思います。原稿のデータは実家に送りますね」
「海沢透の生きていた証でも?」
「はい、俺は怒っているんです。裏切られていますからね。駄目ですよ、もし今回のようなパターンを許したら後がたたない。作品に罪はないけど自殺は悪ですから」
水樹が音もなく拍手をした。数秒だったので谷津倉しか気づいていない。
美生は慌てたように「推理はあくまで推測ですので本気にしないでください」と言った。
地面が辛うじて確認できるまで、辺りは暗くなっていた。校舎の窓から漏れる光を頼りに、4人は歩き出した。
「結局は私の独壇場でしたね」
「そのつもりだったからいいんだよ。ちょっと計算が狂ったけど」
水樹が腕を振ると、袖口から小石が出てきた。
「俺も話が聞けて良かったですわー。今日のことは編集長に話すかどうか、俺が決めていいですかね?」
もちろんです、と美生は笑った。
「葉山さんって車で来ています?」
「はい、同僚と来ていまして……。なんか先生に用があるとかで」
美生が振り返った。3人の後ろを歩いていた谷津倉と目が合う。
「編集者の用って、もしかして学校の取材ですかね」
「そんな話は聞いていませんよ。だったら学校に用があるって言うでしょう」
用がある先生とは、教頭ではないだろうか。あのビビットな色合いを着こなすマダムは早々いない。
谷津倉が振り返ると、朝礼台が闇の中に佇んていた。じっと見ていると段々とそれが近づいている気がする。
ふと、仮説を思いついた。気づいたら頭の片隅にそれは居た。
「水樹さん」
呼ばれた男が振り返る。逆光のせいでシルエットしかわからない。
「何で後藤が書き込んだってわかったんですか。貴方もあの書き込みを見ていたんですか。松本あかりを、うちの生徒を貶めるような悪意の塊を」
「……俺が参加していたって言ったらどうする?」
水樹を中心に美生と葉山も立ち止まる。
2人も同じようにシルエットしか分からず、表情が読めない。
「怒りますよ。1人の生徒を貶めたことに加担していますからね」
「違うかもしれないじゃん」
影が傾く。声色から、彼が面白がっていることがわかった。
秋の風が谷津倉の首筋を撫でる。冷たくもない、緩い風だった。
「本当はどうなんですか。今は舞台のシーンと関係ないから答えてください」
先ほどの謎解きに違和感があった。竜巻が起こってみんなが身を守っても、美生は目を瞑っただけで耐えていた。実際の舞台では竜巻そのものがないように。
勿体ぶる態度も人の配置も、劇の稽古のようだった。松本あかりを置きたかったが月子で妥協したのだろう。何故か後藤が現れたが。
「そうだね、察しの良い先生に免じて答えてあげようかな」
「答える気がないですね。だったら僕が当てましょうか。貴方も混ざって書き込みしていたでしょう。幾らなんでも貴方の希望通りに事態が動きすぎている。僕、劇がどうやって出来ていくか調べたんです」
3人から僕はどのように見えているだろうか。
光で照らされた顔は必死に見えるだろうか。
「本読みして、立ち稽古、小屋入り、舞台稽古……。手順を正確に踏んでも1ヶ月はかかる。これは最低日数ですけどね。僕が前に見た脚本は完成さえしていなかった。オリジナルなやり方でも10月の公演まで間に合わない。でも元となる事件の真相がわからない」
葉山と思われる影が動いた。
「先生、何が言いたいんです?」
「だから、つまりですね」
谷津倉は3人を見渡した。
「水樹さん、創作を事実にしていませんか?」
反応がない。本当の影になったようにジッとしている。話の続きを待っているようだ。
「色恋沙汰に持っていきたくて、SNSで黒田と松本あかりの仲を疑うように誘導した。事件発生から驚くほどのスピードで劇にできるはずですよ、だって元となる事件の事実さえ造ってしまうんだから。僕の推測は、合っていますか?」
真ん中の人影が近づいてきた。足を引きずるように、ゆっくりと。
「先生、面白い推理だね、でも証拠がないから説得力はないね」
相手の表情がわかるほど、2人は接近した。水樹の目は動物のように爛々と光っていた。
「これも昇華って言うんですかね。いや、逆昇華かな」
「それいいね、今度から俺もそう言おうかな。俺のやりやすいように導いたのは本当だし。先生、松本あかりにもそう言うの?お前は創作のため言いように使われた、だから我慢しろって?」
「今更公演を止める気はないです。ただ、千秋楽を迎えたらそのまま警察まで連れて行きます。貴方のしたことは名誉毀損を超えたものだ」
美生の影が揺れた。動揺しているのは明らかだった。
「もちろん、協力した僕も同罪だ。一緒に罰を受けましょう」
これが、松本あかりへの罪滅ぼしだ。
「待ってください。動いていたのは私です、私も行きます」
「君は好きにすればいい。松本への謝罪はしてもらいますが」
言い切って、初めて美生の表情が見えた。怯えたように口を半開きにしている。もうそこには画面の中で輝く彼女ではない、生身の人間がいた。
自分がどんな顔をしていたのか、彼女からどう見えたのか、思わず顔を伏せた。
*
暗くなった外を確認した宮田は、保健室のカーテンを閉めた。
「これからだんだん暗くなるのが早くなるわね」
室内にいる数人に声を掛けたが、誰も返事をしない。後藤に付き添っている井上だけが、反応しようか迷っていた。
後藤は髪に砂がついているだけで特に被害はない。むしろ井上の方が砂を引き連れて保健室に来たので、思わず注意した。神聖な保健室はいつも綺麗でなければならない。
後藤は目の辺りを冷やし終え、鞄を持って帰る準備をしている。
「井上先生、後藤さんをそのまま下駄箱まで送ってあげて。後藤さんはそこから1人で帰れるよね?」
後藤は無言で頷いた。
ただ泣いただけだ。歩けないわけでもないのに甘やかす訳にはいかない。
井上は付き添いながらも、パソコンを占領している女性を気にしていた。全身が黒で統一された女が保健室にいたら誰でも気になるだろう。
「宮田先生、あの、」
「はいはい、もう暗いから気をつけてくださいね」
そんな井上の視線に気づかないふりをして、宮田は優しく2人を追い出した。
これで室内は宮田含め3人になる。
宮田と黒い服装の女と、その横にいる月子だ。
「どう?終わりそう?」
「ちょっと話しかけないでいただきたい」
飯田は画面を睨んだまま即答した。マウスに触れる手が小刻みにクリックをする。
「あ」
月子が画面を指差した。
「そのページ、変えようと思ってたのに変えていませんでした。少し貸してください」
言い終わらないうちに、マウスを引ったくる。
飯田は舌打ちしそうになって歯を食いしばった。
「何が出来ている、だ。今回はテスト期間を考慮して長めにとっていただろう」
「夏休みの宿題が多すぎて……」
「まだ直すチャンスはあるから後にしろ。とりあえず私に全部読ませてくれ」
「待ってください、すぐ終わるので」
月子はパソコンの画面を完全に自分に向けた。キーボードの上で指が踊る。飯田に出したコーヒーはすっかり冷めていた。
宮田は2人の様子を見物しながらコーヒーを飲んだ。
「大変ね、海沢駿先生は」
水樹が出版社で見た、制服姿の少女。
編集者について歩く少女を大御所の先生だとは誰も思わないだろう。
「そういえば、大学に行くって本当か?」
飯田は諦めたのか、腕を組んで仰け反った。
「どこでそれを」
そこまで言って手が止まる。宮田しかいない。
月子が避難所として愛用している保健室に飯田も来るようになり、宮田と顔見知りになるのは時間の問題だった。メールアドレスも交換しているだろう。今日だって保健室で最後の追い込みをしていたらいきなり飯田が来たのだ。
また手を動かす。1箇所変えると他の部分も変えたくなる。
「別にいいと思うけど、理由は何だ?」
「もっと勉強をした方がいいと思ったんです。もう作家業で十分食べていけますけど」
「こちらでも大学を調べてみたけど宇宙を勉強したいのか?それは惑星シリーズのため?もう完結するシリーズだろう」
「だからこそ、です」
月や星、星座などのモチーフが好きで、ミステリーに取り入れた。
思わぬヒットにより賞賛の声が届き、批判の声も届いた。この話でなんで木星なのか、金星はこんなイメージではない、と。
「シリーズモノでこんなにも長いあいだ関わっている惑星なのに、私にはまだ本で得た知識しかありません。作者が1番詳しくないと駄目なんです。完結した後だろうと、私の中では終わっていないので専門の方から直接学びたいです」
飯田はふうん、と鼻を鳴らした。
「いいんじゃない、自分が満足するまでやれば」
宮田はメールの返信を思い出した。飯田は肯定したような返信をしていた。
「経験できるものはしときな。作家にとって経験は財産だから」
月子は唇を噛んだ。タイピングする指が速くなる。宮田はコーヒーを飲み終わるとマグカップを片付け始めた。
「そういえばこの学校で殺人事件が起こったって本当か?」
「そうですよ、もう解決しましたけど」
コップに水を入れながら、宮田が答える。透明な水が茶色い跡を浮かすようにコップ内で回っていた。
「解決したのか?最近の警察は優秀だな。月子、刑事を見かけたとかは」
「興味ないです」
相変わらず目は画面に釘付けだった。
「喜んで警察や事件を嗅ぎ回ったら不謹慎でしょう。取材の為とはいえ、人が死んでいるんですよ」
大人2人は黙り込んだ。
コップから水が溢れ手首に伝う。宮田はハッとして急いで蛇口を捻った。タオルを取り、手首を丁寧にふく。いつか月子に貸したタオルだった。
如月月子が泣くところを初めて見た。同世代より大人っぽくていつも達観している態度なので忘れていたが、彼女はまだ学生だ。いつの間にか生徒より作家として見ていたことに、宮田は気づかされたのだった。
*
帰りの電車で、美生と水樹は並んで座っていた。
「水樹さん、今日はどうでしたか」
「いいんじゃない。イメージできたし」
美生は足を縮こませた。反対側に座っているおじさんの足が、こちらの領域まで入ってきているのだ。
「黒田のこと、そのまま使うんですか」
「そのままって?」
美生が水樹を見ると、水樹は目を瞑っていた。
「作家とか、です」
「ああそれね。使わないよ、生々しいでしょ。ゲネに来た業界の人が引くかもしれないよ?」
何か言おうと、美生が口を開いたがその前を水樹が遮った。
「お前さ、大女優になれるなら死ぬの?」
さっきの話のことを聞いているらしい。
「例え話ですよ。水樹さんは、有名になれるなら死にますか?」
変な質問だな、と思わず笑みが溢れた。
「嫌だね。だってまだこの世に全然作品を残してないもん。代表作を生んで、そんでまた賞を獲る。ついでに美生も賞を獲りまくる」
温かいものが目頭まで登ってきた。誰かに必要とされることがこんなにも嬉しいことだなんて。
「はい、もっと頑張りますね」
……―――夢をみさせてあげる
聞いていて恥ずかしくなるような言葉を、この男は初対面で言った。
「……私はずっと夢の中にいる気分ですよ」
美生の呟きは、水樹に届いただろうか。
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